「広い」というイメージについて。

糸井重里

・まだよくわかってないことは、魅力的である。
 なんとなく、なにかしらのイメージがあって、
 それについてどう言えばいいのか、
 どう考えればいいのかもよくわからない。
 だけど、なんだかすっごくおもしろいような気がする。
 ただのヒマジンの妄想かもしれないし、
 考えが進んだら消えてしまうようなことかもしれない。
 マンガなんかで、少女が「これが恋かしら?」と
 胸をどきどきさせているような感じかもしれない。
 
 ぼくは、いま、じぶんでもよくわからないことについて
 語ろうとしているのだが、これが申し訳ないことに、
 たくさんの人が読む場で、それを文字にして書いている。
 でもね、いま流行している「言語化」なんかじゃない。
 ただただ、わからないけど「いいこと思ってる」と、
 感情が動いてるんですよと書いてるだけのことだ。
 読む側はさぞかし退屈でありましょう。 
 なにを言ってるのか、なにを考えているのか、
 わからないままに本人だけがおしゃべりを続けている。
 幼い子どもが、留守番しながらひとりごとを言ってる、
 そんなようなものかもしれない、しかし、
 本人は、つまりぼくは、けっこう興奮しているのである。
 
 思っていることの輪郭も描けないのだが、
 あえてなにかしらを言おうと思ったら、
 「広い」ということについて、である。
 都市は、特に東京は、狭くなりすぎている。
 最近、ぼくはよくそのことを言っている。
 もっと「広い」という感覚を取り戻さないと、
 感覚ばかりでなく、思考も狭く固まってしまうだろう。
 だから、物理的に「広い」を感じる場に身を置くのだ。
 とか言いながら「尾瀬」や「赤城」のことをやっている。
 だが、今日、その当の赤城に行って、ある場面で、
 さっきまでの「広いという感覚」は狭かった、と!
 ほんとの「広い」は、そんなものじゃなかったぞ、
 と、胸にずしんと感じてしまったのである。
 なに言ってるかわからないでしょうが、そういうことだ。
 とりあえず、これを「ネオ・ヒロイズム」と名付けておく。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
それはそうと、東京は狭すぎる。そのよさもあるんだけど。