
・「だまされる」ことは、ときにはあってもいい。
酸いも甘いも噛み分けた老人になったからじゃなくて、
わりと若いうちから、ぼくはそう思っていた。
「だまされたと思って食べてごらん」みたいな言い方は、
だれでも聞いたことがあると思うのだけれど、
もうちょっとリアルな「だまされる」機会もあるものだ。
「なんとなくあやしいな」と感じる場合もあるし、
「ここで嘘を混ぜちゃうんだな」と察することもあるし、
「それにしても、おもしろいな」と負けちゃうこともある。
そういうときに「だまされてみよう」というのは、
好奇心が強すぎるのかもしれないし、
なにを余裕こいてるんだよ、とか思われるかもしれないが、
わりと、意識的にぼくはやってきたような気がする。
まぁ、「人生を棒に振る」ような大変な話だったら、
もちろんさっさと逃げ出すだろうけどね。
ちょっとくらい「だまされる」こともないと、
いろんなものにも会えないんだよなぁ。
「おれの目は確かだから、絶対にだまされない」
という人になりたいと思うなら別だけれど、
絶対にだまされまいとしている人には、
ハエもカも、ハチもカブトムシも寄ってこないだろう。
「だまされる」というか多少の傷を負う覚悟があれば、
それくらいは当然だとわかっていたはずだから、
被害があっても倒されたりはしないでなんとかなる。
これは、「つまらなそうな映画」を見るだとか、
「期待できないマンガ」に手を出すだとかも同じだし、
しょうもない友だちとだらだら過ごすとか、
やや赤字になりそうな仕事を引き受けるだとかも、
同じようなものだと思うんだよね。
「損して得とれ」ですらないことでも、やってもいい。
ある程度、世界は、そういうものでできているんだから。
ハズレがあっての当りだし、おもしろいハズレもあるし、
ハズレを引くってことはくじ引きそのものの常識だよ。
警戒心はとても大事だとは思うのだけれど、
なにもかも警戒していれば安全かといえば、そうでもない。
なんというか部屋にネコの出入り口があるように、
だまされたり失敗したりの穴は開けておきたいものだ。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
白か黒か、正か邪か、右か左か、どこにもスキマがあるはず。