・なにか「習う」ということは、
なにかで「遊ぶ」ということと、おそらく近いものだ。
テニスを習う、将棋を習う、水泳を習う、踊りを習う、
それを習っている時間がたのしいと、「遊び」になる。
ただ、「習う」がなにかの「ために」ということになると、
義務になってしまって「遊び」ではなくなる。
それをやる人(主体っていうか)が、
どう思ってやっているかで、ものすごくちがってくる。
もともとは「主観」のちがいだけだとも言える。
最初から「いやだなぁ、やらなきゃな」と思ってやれば、
しっかりとつまらなくなる。
つまらなくても、上達することはあるだろうし、
ときには達成感のようなものを感じて、
「よかったなぁ、うれしいなぁ」
というよろこびを感じることもあるのは知っている。
いい先生とか、いい先輩がいて、
学ぶことを「たのしく」に思わせてくれると、
学んでいる人の「主観」が「たのしそう」にセットされる。
そうなると「たのしい」と思いながらの時間になるから、
多少のつらさとか、ちょっと苦しいぐらいのことも、
「遊び」のなかのスパイスとして受け入れられる。
教え方の上手な人と、遊んでいるかのように習う。
そんなことがありうるとは思ってなかった。
しかし、どうやら、現在のあちこちの「習う」場面では、
そんな素敵なことがあちこちで起こっているらしいのだ。
厳しく、時には叱り、苦しさの向こうに上達がある、
というような「習う」が当たり前だった時代に、
ぼくなんかは育ったものだから、「習い事」は嫌いだった。
たのしく「習う」が、うらやましくてしょうがない。
たぶん、「習う」の向こう側の「教える」についての
理論や方法も進歩してきているんだろうなぁ。
「習う」ことが「遊ぶ」になるようなことを、
いまさらだけど、ぼくもやってみたいよ、年齢関係なく。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば、知り合いが「麻雀」を習いたいって言ってた。