余計なことを、感じること。

糸井重里

・「感じる」。
 なにかを感じる、暑さを感じる、寒さを感じる、
 さみしさを感じる、うれしさを感じる、友情を感じる、
 好意を感じる、失礼を感じる、怒りを感じる‥‥。
 なにかしら、そのとき、その場にいたら、
 おおかたの人が感じるようなこともある。
 あんまり感じていないところに、他の人が感じていると、
 それにつられて感じてしまうこともある。 
 ひとりの人間の「感じる」は、複雑で微妙な
 うーん、たとえて言うなら「触覚」だ。
 
 余計なことを「感じる」ことがある。
 他の人たちが見過ごしているような、余計なこと。
 ほんとに、感じないほうがよかったかもしれないし、
 感じてしまって多少混乱が生じるようなこともある。
 「違和感」と言ってもいいかもしれない、そういうこと。

 その余計なことについて、しばらくそのことを思う。
 けっこう長いこと、それについて思い続けることもある。
 この「余計なこと」を「思い続ける」ということは、
 それについて「いろいろ考える」につながる。
 
 「いろいろ考える」と、最初に感じた「余計なこと」が、
 まったく新しい視点や切り口になって、
 その考えがまとまり実行に結びついて、
 「未来の当たり前」になっていくようなことが起こる。
 
 たいていの「いいこと」は、こればっかりだ。
 いろんな例で「余計なこと」をあてはめて考えてみよう。
 スポーツにも、創作活動にも、事業にも、政策にも、
 すべてに、この違和感からのサイクルがあるとわかる。
 感じる(余計なこと)→思い続ける→いろいろ考える。
 すべての出発は現場で「感じる」である。
 AIには現場や生活がないので、「感じる」のが弱い。
 経験が多すぎても、少なすぎても「感じる」は弱くなる。
 
◆今日の質問no.052「わたしの感じている違和感」。
 なんだろう?思いついたら、メールでも送ってください。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
けっこう大事なこと書いたつもりなんだけど、どうだったか。