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ほぼ日刊イトイ新聞

2022-06-27

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「つながり」をつくっては、「つながり」に「つなげる」。
 人が生きるということは、そういうことなのかもしれない。

 父と母の「つながり」があって、わたしが生まれる。
 つまり、もともとわたしは「つながり」からはじまった。
 生まれても、たったひとりで生きるわけではない。
 母というもうひとりから乳をもらって「つながる」。
 母なのか父なのか、別の人なのかはともかく、
 だれかと「つながる」ことで、今日をまず生きられる。
 生まれたばかりのわたしは、
 なにもできない弱いものであるがゆえに、
 だれかと「つながる」ことになる。
 この「つながり」を「あい」と呼ぶこともある。

 わたしは、うまれたとたんに、人と「つながる」。
 「つながる」ことができないと生きることはなかった。
 そこから、わたしは、「つながり」続ける。
 ずっとだれかと「つながり」ながら生きてく。
 そのだれかは、他のだれかたちと「つながっている」。

 「つながり」と「つながり」がつながって、
 さらにまた「つながり」になっていく。
 おもしろい「つながり」もあるし、
 むりやりつくられた「つながり」もあるし、
 どうしてできたのか忘れちゃった「つながり」もあるし、
 「つながり」たい「つながり」もあれば、
 「つながり」たくない「つながり」だってある。
 偶然にできた「つながり」もたくさんある。
 そういう大きな「つながり」の網の目があって、
 そのどこかにいるのが、わたしというものなのだ。

 「朱に交われば赤くなる」だとか、
 「類は友を呼ぶ」だとかも「つながり」のはなしだ。
 「つながり」からは離れることもできるし、
 「つながり」をゆるめることもできる。
 あんまりつよくて張りつめた「つながり」があると、
 他の「つながり」とつながりにくくなってしまう。
 後ろを振り返ったら「つながり」が見えるし、
 広さを見渡したら「つながり」が見えてくる。
 未来も、まだ新しい「つながり」ができてくるはずだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
前に養老孟司さんと「アミノミズム」について話しました。


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