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ほぼ日刊イトイ新聞

2023-10-01

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・人がなにかを思ったり考えたりして、
 それを心から話しているときって、歌に似ている。
 もちろん音楽のようなメロディはないのだけれど。
 いや、音楽だってあんまり音階の動かないものもあるし。
 名人の落語だとかを聴いていても、
 いい気持ちになってくるということがある。
 語られている噺の意味や内容の部分よりも、
 声の表情や流れが気持ちよくて、いいなぁと思えてくる。
 そういえば、フランスのシャンソンなんかでも
 語りかけるような歌い方をする。
 歌と語りかけは、とても近いものなのだろう。

・まだ進化が足りないのかもしれないが、
 電気製品などの合成された音声は、意味のみの語りだ。
 いずれは、声の表情が付いていくのだろうか、
 それはそれで「うざい」と言われそうな気もする。
 逆に、人間のしゃべりが感情を感じさせないような
 合成音声に近づいていくことも考えられる。
 そっちのほうが曖昧さや陰影が少ない分だけ、
 意味の交換には便利だという意見なんかもありそうだ。

・歌をたくさん歌っている人たちの話しぶりというのは、
 どうしてもやっぱり音楽的に感じられる。
 声に感情を乗せることと、心地よい声を出すことが、
 意識せずとも身についているのだろう。
 いやぁ、うらやましいなぁと思う。
 あ、そういえば、これは仮説なのだけれど、
 「モテる男は声がいい」と、ぼくは強く思っている。
 ご当人たちは否定するかもしれないが、まちがいない。
 彼らは、いつもいい声で歌を聞かせているのだから、
 それが人を魅了してしまうのも、しょうがないことだ。

・芸としての歌唱があるのだから、
 芸としての語りだって、当然のように成立するはずだ。
 と書いて、すぐに気づいた。
 講談も、落語も、朗読も、演劇も、読み聞かせも、
 すでに「語りの芸」として成立しているではないか。
 それらはすべて、意味内容を核にはしているけれど、
 声の表情や、そこに乗ってくる心の動きをたのしむものだ。
 人間も小鳥のようなものだという気もしてくる。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
コロナがはじまってから、人は声を出す機会が減ってない?


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