糸井重里
・若いとき、広告の仕事の打ち合わせで
クライアントのところに行くと、
「ところで、コピーライターの方は、どちらに?」
というようなことを言われたことがあった。
たぶん、25歳くらいの年齢だったから、
目の前にいるぼくのことは、悪気もなく、
アシスタントだと思っていたのだろう。
こういうとき、ぼくはあんまりなにか思わない。
ただ「ぼくです」というくらいのことだ。
考えようによっては「なめられている」のかもしれない。
しかし、こういうときばかりでなく、
ぼくは、ずっとなめられ気味の人生を送ってきた。
そして、なめられるのは、あんまりいやじゃないというか、
相手の立場からしたら、なめるだろうなぁと、
じぶんでも納得しながらやってきたような気がする。
「なめられる」のは、現実的にはちょっとお得なのだ。
「たいしたことないやつ」として見てくれたら、
その分だけ警戒もされにくいから、
身構えずに「ほんとう」のことを言ってくれる。
さらに、「たいしたことないやつ」が、
ちょっと「まし」なものを見せてくれたら、
「あんがいやるじゃないか」と感じてもくれる。
「すっごいやつ」と思われて迎え入れられるより、
ずっといいことが多いのである。
そういう意味では、逆説的に聞こえるかもしれないが、
たとえば、超一流とかの会社にいるより、
名も無い小さな会社の人間であったほうが有利だ。
見た目とか話し方に少々難があるくらいのほうが、
いかにも優秀だったりする人よりも「なめられやすい」。
そのおかげで、相手のことがよくわかるだけでなく、
相手が、こちらを「なめている」がゆえに、
より丁寧に教えてくれるということもあるのだ。
大人に混じった「子ども」も、犬や猫も、
みんな、いい意味でなめられているでしょう?
いちばんよく人を観察できるのは、彼らです。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そういえば「なめられる」のと「嫌われる」のは、ちがうね。






