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ほぼ日刊イトイ新聞

2020-11-27

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

『海馬』という本をつくったあと、
 池谷裕二さんの研究室に見学に行ったことがある。
 そこで、ニューロン(神経細胞)の映像記録を見た。
 生きものがうねうねと触手を伸ばすように
 シナプス同士が相手を探して
 無闇につながろうとしているところは、
 なんだかとても劇的で、研究のことはわからないのに、
 ずいぶんと印象的で、いまでも記憶に残っている。

 脳の中で行われている「相手を探してつながる」ことは、
 ぼくという生きものの最小単位の活動のように思えた。

 「求められる」ことと「求める」こと。
 どちらも求められていて、どちらも求めている状態。
 そのことへの「意欲」そして「満足」さらに「幸福」。
 ぼくらが人と人の間で、
 生まれてから死ぬまでやっていることの基本形が、
 脳の中の真っ暗な小さな舞台で行われている。

 人は生まれて、まずは目も見えないままに、
 生きていくための乳を「求める」。
 乳を提供する母のほうは「求められる」。
 それは吸ってくれる相手を「求める」ことでもある。
 もう、生まれたとたんにだれかと「求め求められる」。
 だれかのなにかを求め、だれかになにかを求められる。
 それがうまく一致したときに「満足」を味わい、
 「幸福」と名付けられたような「大肯定」を感じる。

 「求められる」よろこびはもちろんあるわけだが、
 それは「求める」と表裏のひとつのものだ。
 限りなく「与える」ことが美徳のように語られるが、
 そこに同時に「求める」ものがなかったら、
 ほんとうは反則なのかもしれないと思うのだ。

 だれにも「求められない」ことは、悲しいものだ。
 しかし、だれにもなにも「求めない」ことは、
 やはり、ちがう意味で悲しいことなのではないか。
 いや、こんなふうなことは考え慣れてないので、
 よくわからないままに書いているのだけれど、
 「求める」ことも、人の人らしいあり方だと思うのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
人は神さまじゃなくて、人は人。それ以上になるはずない。


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