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ほぼ日刊イトイ新聞

2021-03-09

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・いま、ここには「現在」しかないんだけどなぁ。

 こう、例えばさぁ、「未来」になにかの目的をおいて、
 そのために、いまがんばるってことはあると思うんだ。
 なにがあってもがまんするぞってことも、あるだろう。
 ただ、その「未来」に設定したなにかにたどりつくまで、
 ずうっと「現在」をその目的のために差し出すって、
 ほんとにいいことなのかなぁってのも、考えるよね。
 貯金通帳に大金を残して死んでしまった人だとかが、
 その大金を貯めるために、すごい倹約をし続けたとか、
 少し離れたところから見たら、なんだか切ないよね。
 いや、本人が、その倹約するじぶんが好きで、
 それを幸せと感じていたなら、なにも言えないんだけど。
 あるいは、「過去」の苦い体験が忘れられなくて、
 ずっと、その苦さや辛さ恨み憎しみの延長線上に
 生き続けてしまう人とかも、いると思うんだけど、
 それも「現在」がないがしろになってるように思うんだ。

 ぼく自身も、「現在」を見ない病かなと思うことがある。
 スポーツ選手とかでも、いいことで取材されてるときに
 「その前の打席で打ってればよかったんですけど」とか、
 「優勝はうれしいですが、次があるんで」だとか、
 謙虚というか、浮かれてないコメントをするよね。
 じぶんでも、ついそういうことを言いそうだなと思う。
 めでたいことがあった場合でも、同じ空の下に、
 苦しみの只中にいる人もあるしと考えてしまったり。
 それは「いいこと」なのかもしれないけれど、
 過去や、未来や、周囲や、遠くをいっぺんに考えて、
 いまここにある「現在」を粗末にしてないかなぁ。
 思いやり、他者への想像力やらは大切だけれど、
 こころに湧き起こるうれしさやよろこびの感情は、
 ちゃんと、じぶんとして認めなきゃいけないんだよね。
 「自己肯定感」ということばが流行しているけれど、
 それは、じぶんの「現在」を認めることだと考えたんだ。
 幸せに感じる「現在」があるときに、「いや、でも」と、
 あえてネガティブな要素を探すことは自然じゃないし。
 それは、別の場で考える別のことなのではないだろうか。
 生きるってことは、「現在」を生きてることで、
 それをじょうずにやっているのは、大人たちよりも、
 子どもとかどうぶつたちだったりするんだよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
たった一度の人生、現在を続けていくいのち。宝ものだね。


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