お気に入り記事の保存はアプリが便利!

ほぼ日刊イトイ新聞

2024-12-11

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・毎日、なにか「いいこと」を見つけて、
 それを書いていくといいぞ、と、よく言われる。
 「よかったこと」でも、「うれしかったこと」でもいい。
 それが見つかったということは、
 今日という日を生きていた甲斐があるということだ。
 だから、みんなも「いいこと」見つけて書くといい。
 そうだ、いいに決まってるじゃないか。

 でも、そんな「いいに決まってること」は簡単じゃない。
 ためしにやってみればわかる。
 なにか「いいこと」をと、一日にあったことを思い出す。
 「ラーメン、いつもより焼豚がちょっと厚かった」。
 「息子が、めずらしくありがとうと言ってくれた」
 「球根、芽が出ていた!」とか、いろいろあるだろう。
 これ、ほんとうに「うれしい」と思っていたのか、
 「いいこと」を書き出そうと思ったから思いついたのか。
 そのあたりが、よくわからないのではないか。
 あえて、じぶんに対して意地悪な目を向ければ、
 「わざとらしく感じられる」ということはないだろうか。
 それが、ぼくには、ある。
 「いいこと」というイメージの「いいこと」があって、
 じぶんの生活のなかで、そのおなじみの「いいこと」を、
 ただ書き出そうとしていているような気がするのだ。
 そうかといって、「今日はいいことなどなかった」と
 すねたようなことを書いても、それもわざとらしい。
 そんなに「いいことなどなかった」と、
 あえて言いたいほどわるい日だったわけではない。
 こんな感じのぐるぐるめぐりで、
 人は「いいこと」を見つけるなんてめんどくさい、と、
 思ってしまうのだろう。ぼくは、そうだ。

 しかし、世の中には、いろんな環境にかかわらず、
 「いいこと」を見つけている人は、たくさんいる。
 それは、とても素敵なことで、そうありたいと憧れる。
 花の好きな人の目には、たくさんの花が見えるし、
 犬を好き人には、たくさんのかわいい犬が見える。
 おそらく、そういうことなんだろうと思う。
 「いいこと」が見えない人に、ぼくは、ぼくらは、
 なりかけていたのではないだろうか。
 俳句がつくれないのと、ちょっと似てる気がする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「いいこと」より「ありがとう」を見つけるほうができそう。


ここ1週間のほぼ日を見る コンテンツ一覧を見る
ほぼ日の學校
吉本隆明の183講演
ドコノコ
ほぼ日アプリ
生活のたのしみ展
TOBICHI東京
TOBICHI京都