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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-12-02

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・前にも同じことを書いた気がするけれど、トレーナーに、
 「身体が痛いというのは、使いすぎと、使わなすぎと、
 ふたつのケースがあるんです」と言われた。
 使いすぎでの筋肉痛はわかりやすいけれど、
 逆の使わなすぎというのも、実感的にわかる気がする。
 ぼくらの人体は、「ある程度は使う」用にできている。
 椅子に腰を掛け机に向かってじっと仕事している。
 そんな姿勢で何時間もいるなんてことに、
 ぼくらの身体はうまく対応できはしないのだ。
 ずっと同じ姿勢でいるにしても、
 犬や猫なら身体を横たえているし、
 目的がなくても動いたり走ったりしている。
 使うための必要があって人体に筋肉があったり、
 反射神経のようなものが発達してきたのに、
 ずっと椅子に腰掛けて、脳だけを使ったり、
 指先だけを運動させているのは、たしかに不自然だ。

 しかし、いまの時代を生きていくには、
 じぶんの身体が「ちょうどいいよ」と
 納得してくれるような生き方をしてはいられない。
 何時間も同じ姿勢で仕事をすることもあるので、
 そこで「使わなすぎ」た身体を使うために
 わざわざ「なんのために」という必要のない運動をする。
 そうやってバランスをとるしかないのだろう。
 おそらく、仕事の合間に体操をするとか、
 遠くを見るだとか、適度に空腹にするだとか、
 もっと工夫をすればいいのだろうが、
 そういう身体のマネジメントというは、
 なかなかかんたんなことじゃなさそうだ。

 しかし、それにしても、といまさら思うのは、
 「じゃぁ、ぼくらの持っているこの人体は、
 いつごろの人間の生き方に最適化されているのだ?」
 ということだ。
 江戸時代は江戸時代なり、平安時代は平安時代なり、
 縄文時代には縄文時代なりに、
 「それは身体にはよくない」ということがあったろう。
 昔のおばあさんとかの腰が曲がってるのとか、
 なんか身体に無理をさせていたってことだろうしね。
 なんとかその都度の帳尻を合わせるしかないのだな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いまは「足し算として引き算をする」という時代なのかな。


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