糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

06月20日の「今日のダーリン」

・文章には、文体というものがあって、
 それは服装やしぐさなどのような
 「姿かたち」のことだというふうに思っている。
 文体の英語は「スタイル」というくらいだから、
 「姿かたち」であるという考え方は、わるくはない。
 どこかで、だれかの書いた文章を読んで、
 「かっこいいなぁ」と、まねしてみたくなったとしたら、
 それは、主題だとか内容だとかよりも
 文体に惹かれたということなのだと思う。

 正直なことを言うけれど、書き手としてのぼくは、
 いまは文体というものについてあきらめている。
 ほんとうは、しっかりと「姿かたち」を意識して、
 人からも、じぶんからも「かっこいいなぁ」と
 憧れられるような表現ができればうれしいのだけれど、
 それを意識していると、いまのじぶんのやるべき仕事から
 離れてしまうしかないように思っている。
 言い訳みたいになってしまうけれど、文体のことを忘れて、
 そのおかげで、できるようになったこともあると思える。
 ま、あんまり「かっこ」を気にしているよりは、
 そこらへんのこと意識してませんでしたというほうが、
 いまのぼくにとって使いやすい文が書けるということだ。
 でもね、あんまり「スタイル」がかっこわるいと、
 読む気にさせられないというか、
 なにが書いてあるかについても無視されてしまうだろう。
 魅力というのは、やっぱり、「姿かたち」にあるので、
 どれほど根性の据わった内容であっても、
 文体がだめだったらほとんど価値もなくなってしまう。
 このことは、ほとんどすべての映画において、
 善人か悪人かはともかく主役の(魅力的な)人物は、
 「姿かたち」のかっこいい俳優によって演じられている、
 ということでもわかるだろう。

 ここまで書いたことは、実は、この文章を書くための
 「まえがき」のようなつもりだった。
 ぼくは、漫画家でエッセイストの東海林さだおや、
 作家の太宰治や、野坂昭如や、伊丹十三の文体を、
 二十歳のころに「かっこいいなぁ」と思って、
 ちょっとまねしようとしていた。
 というようなことを書くつもりだったのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
東海林さだおに影響された人は、ある時期、無数にいたよね。