糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

08月13日の「今日のダーリン」

・どうもいまだに、ぼくは、集合住宅のことを
 「マンション」という言うことにちょっと抵抗がある。
 はじめて「mansion」という単語を知ったのは、
 60年代のヒット曲「七つの水仙」という歌からだった。
 歌い出しの歌詞「I may not have mansion」は、
 「ぼくに豪邸はないかもしれない」けどさ、というもの。
 歌の内容は、だいたい想像がつくと思うけど、
 「財になるような価値のあるもの」と、
 「素朴な野の花や、まごころ」などとの比較によって、
 「ぼく」を表現する作風のフォークソングだった。
 そこで知った「マンション」という単語だったから、
 多少なりとも「豪邸感」が必要なんじゃね?と思ってた。

 しかし、いつのまにやら、どうでしょうか
 鉄筋コンクリート製の集合住宅はすべて
 「マンション」と呼ぶことになったようだ。
 そんならそれでかまわない、そういうものだ。
 ぼくは日本語警察の人ではにゃぁので、
 じぇーんじぇん怒ったりはしない。
 豪邸でなくてもマンションと言ってかまわない。

 でもなぁ、それだと、なにかが失くなっちゃうんだ。
 若くて、持っているものが少ない時期の男や女が、
 小ぶりの幸せを見つけたり、些細な諍いに泣いたり、
 それぞれの自信のなさが原因で別れたりするとき、
 自由にそして遠慮がちに住んでいた部屋が、
 「豪邸」という意味だったはずの「マンション」じゃ、
 その愛の世界が変わっちゃうんじゃないか。
 「アパート」じゃなきゃ、描けないと思うんだ。

 昔だったら平岡精二作詞作曲の「爪」、 
 大傑作、安井かずみ作詞の「よろしく哀愁」、
 新しいところで、スピッツ草野正宗作詞の「アパート」、
 アパートということばは出してないけれど、
 テレサ・テンの「つぐない」の西陽があたる部屋も、
 布施明の、西日だけが入る狭い「積木の部屋」も、
 「マンション」の舞台設定じゃないような気がする。
 でも、まてよ、いずれは「マンション」ということばが、
 いま感じる「アパート」の懐かしさになるのかもね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
流行歌の話をするのって、けっこう好きなんだね、おれ。