糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

09月14日の「今日のダーリン」

・ほんとうは、あらゆることに勇気が含まれている。
 なにかをするときには、
 いつでも、失敗したり、
 まちがいに結びつく可能性がある。

 野球を観ていても思う。
 投手はその球を、どうして投げられたのだろう。
 打者は、来たその球を、どうして振ったのだろう。
 どちらも、うまくいくとはかぎらないことを、している。
 短距離走の選手の、走るその一歩一歩も、
 格闘技の選手の攻撃の一撃も、それを受けるガードも、
 サッカー選手のひとつひとつのキックも、走りも、
 まるで勇気の連続のように見える。

 クイズの回答者のボタンを押す指先の動きも、
 試験問題に書き込まれた答えも、
 病気かもしれないと病院に行く人の足取りも、
 好きな人に好きな気持ちを告げる人のその声も、
 初めて握ろうとする手も、愛をほのめかした手紙も、
 みんなみんな勇気というものが込められている。

 赤ん坊が、ほとんど転ぶとわかっているように
 たよりない筋肉の脚で立とうとすること。
 母乳でないなにかを、口に入れて飲み込むこと。
 自然な呼吸を止めてまで、ことばを発すること。
 家族と離れて保育園やら幼稚園で過ごすこと。
 こういうことすべてのなかに、勇気の成分がある。

 人が外に買い物に出かけることにも、
 本を読んで新しい世界に首を突っ込むことにも、
 食べたことのない料理を口にすることにも、
 なにがしかの勇気があるということは言える。

 ぼくが、こうして一文字ずつタイピングして、
 人の目に触れることばを表していることにも、
 ほんとうはかけらほどでも、勇気が必要である。

 大なり小なりの勇気、強い勇気、弱い勇気、
 進む勇気、耐える勇気、逃げる勇気、
 すべての勇気に、ぼくは勇気を持っていいぞと言おう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なにを言ったかではなく、なにをしたかが、その人である。