糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

07月26日の「今日のダーリン」

・「それが、おれにもわからないんだよ」
 と言うことが、しょっちゅうある。
 かつてはわかっているつもりで言ってたことが、
 「あ、正しそうなことをなぞってるだけだな」と、
 じぶんで気づいてしまうことが多くなっているのだ。
 もっと気軽に(考えなしに)正しそうなことを
 平気で決めつけていられたころに、戻りたいかといえば、
 それはとてもじゃないけど勘弁してほしい。

 たとえば、つい最近、こんなこともあった。
 ぼくは「根性論」というものは苦手だ。
 「根性」を鍛えることで強くなったり、
 人格が磨かれるというような考えは否定してる。
 いまでも、否定していることが多い。
 しかし、先日、(唐突でもうしわけないけど)
 「シェイクスピアって根性あるなぁ」と気がついてね。
 シェイクスピアと「根性」って、違和感があるかなぁ、
 他人にその感じをわかってもらうのって、むつかしいかな、
 と、もう一度考え直したんだけどね。
 ほんとは、ぼくは、強くいいなぁと思っているんだよ、
 シェイクスピアに感じている「根性」についてね。
 「見習えよ、みなさまよ。彼のすごい根性を」と、
 けっこう本気で思ったわけだよ。
 でも、それって…「根性論」じゃないかい? 
 ぼくは「根性論」は苦手だとか否定しているとか言ってて、
 もひとつ同時に「根性上等!」って感じているらしいのだ。
 大谷翔平にしたって、井上尚弥にしたって、
 ぼくらがわーきゃーいってる人物たちは、
 どう考えても「根性」があるよ、鍛えてるよ。
 柔和な顔してるし、「根性!」とか叫ばないけど、
 やってることは、ものすごく「根性」あるよね、当然。
 だからこそ得られる状況、だからこそ見られる光景、
 その結果味わえる幸福感みたいなものに、
 ぼくらは「いいなぁ」と憧れているわけだよね。
 だったら、「根性」って要るじゃん? 
 とか、揺り戻しみたいに、また考えた。

 さぁどうなんだ、「根性」肯定してるのか否定してるのか。
 「それが、おれにもわからないんだよ」なのである。
 ま、「根性」のある人のことを好きだとは言えるけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
やさしく、つよく、おもしろく+根性。って、ダメかなぁ?