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わたしのひきだし。[5] たなかみさき
よく使うということで、
仕事場のペンが入っているひきだしです。
どうあがいてもオシャレに撮れずに悔しい思いです。
昔から整理整頓というよりは
雑多としている方が居心地がよく、
あまりこだわりや執着の無い性格のせいか、
「合格祈願」と堂々と書かれた鉛筆や、
実家に眠っていそうな香料のきつい
オレンジの匂いつき消しゴムまで入っていました。
いつまでもお絵描き大好き小学生のような
ひきだしではなく、
もう少し大人のクリエイターらしい
ひきだしを目指したいものです‥‥。
わたしのひきだし。[4] 矢野直子
大学時代、自分の下宿のぼろアパートに友達をよんでは、
フルコースの料理をふるまうのが好きな同級生がいました。
古い小さな台所には必要最低限の道具。
食器は無印良品のベージュのお皿と
ステンレスのカトラリーだけ。
でもちゃんと全部10枚と10セット揃ってた。
「一番簡素で、そして料理が映える。
何より割れても買い足せるでしょ」
そう言ってたなぁ。
このお話をいただいて、
あらためてこのひきだしを眺めていたら思い出しました。
あの時の風景と料理の味。
わたしのひきだし。[3] 平野妃奈
只今年中さん5歳になったばかりの「俺」は
幼稚園に入園してからぐんぐんと男子道を歩んでいる。
それまではお姉ちゃんの友達の中に混ぜてもらい
遊ぶことがほとんどだったが、
幼稚園に通うようになって
かっこいい刺激的な男友達の影響から一気に
「ぽーちゃん」の呼び名を捨て
「俺」へとなっていった。
まだ3歳児頃に「俺」と自分のことを言うようになり
「僕」とは一切言わずだった。
そんな「俺」があれよあれよとハマっていったのが
「こま」である。
幼稚園には大きなこま板がある。
本来は年中さん頃からこまをして遊ぶらしいが、
上の兄弟関係が多かった「俺」のクラスでは
こまをまわせる子が数人いて、
その中に「俺」が最も尊敬するダチも
びゅんびゅん回していた。
初めはなかなかうまく巻けなくて、
本当に家では悔しくて泣きながら練習していた。
旦那も俺の為にこま板を作ってあげ、
「俺」のやる気はみるみる増していって、
早々にこまを回せるようになった。
誰よりも切れが良く、ものすごいスピードでこまを回す。
回し終わった後はひもをくびに掛け決めている。
そんな「俺」が大事にしているこまのひきだし。
誰よりも負けん気も強いけど、
根は真面目で几帳面で片付けも大好き。
旦那と一緒に作ったこま入れ。
嬉しくて嬉しくて自慢げな「俺」。
わたしのひきだし。[2] 横里隆
自宅の仕事机のひきだしです。
事務所のひきだしはあんまり開けないので
こちらにしました。
ものを捨てられない性質の私のひきだしは、
ほっておくとごちゃごちゃのカオスになってしまうので
数年前に購入したひきだし整理ボックスを使っています。
ひきだしの中でいちばん使うのは一筆箋。
メールの時代とはいえ
郵送物にちょっとした言葉を添えるときに便利です。
お気に入りは
社名の上ノ空(うわのそら)にあわせて購入した
「空色ノキモチ」というもの。
雲の上を言葉が漂うようで素敵です。
それにしても、やっぱり用途不明&
意味不明のものが多いです(汗)。
なぜか複数のお守りが‥‥。
いただきものも含め、
たまってしまっても捨てられない。
みんなどうしてるのかな?
ま、いつまでも守ってもらえるならいっか。
そうそう、「雨ニモマケズ複製手帳」も
私にとってはお守りみたいなものです。
あと、自分がペーパーナイフ好きってことに
気づきました。
ほとんど使わないのに4本も!
彼らのすらっとしたたたずまいが好きです。
加えて、むかし高山で買った
革の巻きもの(端切れ)が5本も!
何に使ったらいいかわからないけど、
きっといつか何かになるんだろうな‥‥
ならなくてもいいけど。
ミニカーのタイヤやパチンコ玉は本当に意味不明。
でも捨てられない。
整理されているようでされてない、
私のひきだしでした。
わたしのひきだし。[1] 坂田阿希子
私はかなり筆不精のほうです。
お手紙をもらうのは大好きだし、
書くことは嫌いではないのですが、
ついメールや電話で済ませてしまうことが
多くなってしまいました。
これは、そんなわたしが思い立った時に
すぐに手紙を書けるように、のひきだし。
一筆書きのような小さな紙や
便箋に封筒、書きやすいペンに糊。
そして切手も用意しておくと、
思い立った時にすぐに書ける。
そして切手を貼ってすぐに出せる。
以前よりもこのひきだしのおかげで
少し筆不精が改善されました。
請求書を出すのも本当に億劫なのですが、
ハンコもちゃんとこの筆不精セットに
しまうようにすると、
少しだけ便利になったように思います。
最近のブームは紙石鹸(右上)。
手紙と一緒に一枚入れると
開封した時にいい香りがする仕組みです。
必ず必要なのが老眼鏡。
すっかり老眼が進んでこれなしでは手紙は書けません。
何個も持っているのに、
なぜかいつも探している老眼鏡。
今度は老眼鏡のひきだしをつくりたいくらいです。
わたしのつかいかた
仕事机まわりにあると、何かと重宝する小ひきだし。
でも、文房具を入れるためのものだけにしておいては
もったいない。
たとえば豆皿を入れるとこんな風。
ひきだしを開ければ一目瞭然。
「片づく」という以外に、
見て楽しい、しょっちゅう開けたくなってしまう、
自分だけの小さなギャラリーのような感覚にもなります。
私は1、2、3段目に、豆皿、
4段目にそれよりひとまわり大きな皿、
5段目にお猪口を入れていますが、
カトラリーもいいなぁとか、
リネンのティーナプキン
(ナプキンよりひとまわり小さなもの)もいいなぁなどと
夢が広がっています。
帯揚げや帯留め、帯締めなど、
着物の小道具入れにしても。
ブルーやグレーなどダークな色合いと、
ピンクや生成りなどのあたたかな色合いの帯締めを
それぞれ別々のひきだしに。
いざ、着物を着る時に、さっと取り出せてとても便利です。
手帳や万年筆、お財布、通帳、カード、
診察券、お薬手帳、500円玉貯金、切手、手紙‥‥。
なくすと困る身の回りのあれこれも、
小ひきだしに入れてすっきり。
でも一番上だけは、
「明日身につけていきたいもの」の準備をするために
余裕をもたせて。
眼鏡、腕時計、リング‥‥、
持ちものはその日によっていろいろですが、
前の日にここに準備しておくと、
出かける時の慌ただしさがずいぶん減りますよ。
(伊藤まさこ)
「杉工場」でつくりました。その2 伝統をたいせつにしながら、今のものをつくる。
杉良子さん、明乃さん親子に、
若き職人の永井さんがくわわってはじまった
杉工場の「特注」部門。
知人が頼んでくれた特注の椅子からはじまった
そのプロジェクトは、やがて、
いろいろな家具の相談を受けるようになりました。
良子さんは言います。
「既存の机のサイズを変えてほしいとか、
そういう意味での特注の依頼はそれまでもあったんですが、
ゼロから考える家具づくりはしていませんでした。
それが永井が来てからできることになり、
とくに宣伝をしたわけでもないのに、
1年間、途切れずに注文をいただいて。
そんななかに、伊藤まさこさんからの依頼があったんです」
伊藤さんが持っていた
古い和家具の「小ひきだし」。
前後(表裏)がないデザインで、
どちらからも引き出すことができ、
段をそのまま抜き出せば、
トレイとしても使えるタイプです。
アクセサリー、郵便物、文具、工具‥‥
使い方はひとそれぞれの、
むかしはどの家にもひとつはあったような、
ちいさな家具。
東京のお店で偶然みつけた古いものを
使っている伊藤さんですが、
それをベースに、「weeksdays」らしい
小ひきだしがつくりたいというのが
「特注」のリクエストでした。
「そういう依頼をいただいたのは、
じつは、はじめてのことだったんです」
と良子さん。
「この小ひきだしの印象を決めるのは、
やっぱり『顔』。とくにひきだしの取っ手のかたちですね。
これが変わることで、表情が変わってくるので、
そこを大事にしたいと思いました。
けれどもそれは私達が決めることではなくて、
まさこさんがお好きな顔にしたい。
それで最初のサンプルは、
何パターンかをあえて作りました」
取っ手の丸みの角度、
天板と側板の組み方、
それぞれの部材の薄さ、
トレイの前板と端板の組み方、
底板の仕様、
台輪の飾りの部分の、角の削り方‥‥
ほんのちょっとしたことが、
おどろくほど全体の印象を左右します。
サンプルを前に、伊藤さんの判断は明確。
いっしょに杉工場にうかがった夏、
見本を前に「これがいいです」と、すぐに決まりました。
原型となった骨董の小引き出しは、
天板と側板が「石畳組み接ぎ」という技法で、
和家具の意匠にもなるデザインのひとつでしたが、
そこはあえてスッキリと目立たないようにしました。
さらに、ひとつずつのトレイを支える
内側の桟(さん)は、
接着剤と金具を使って留めるのですが、
その金具を、実用本位のタッカーだけではなく、
うつくしいが柔らかいため
加工のたいへんな真鍮の釘も使用しています。
部材は基本的に無垢材のはぎ合わせ。
トレイの底板は反りやくるいの出ない合板ですが、
抜き出したときのうつくしさを考えて、
表面に突板(薄く割いた木)を貼っています。
この小ひきだし、
ほんとうに細部まで心を砕いたつくりになっているんです。
さらに、天板や側板の厚みは、
じょうぶにしたければ厚くするところを、
腰掛けるほどの強度は必要がないわけですから、
「過ぎることのない」ように調整。
贅沢はしすぎず、けれどもうつくしく。
自己満足におちいることがないデザインは、
ベースに杉工場の長い歴史があり、
良子さんと明乃さんの感覚、
そして永井さんのセンスと技術、
さらには杉工場の熟練の職人のみなさんの
「手と目」があってのことなのでした。
「こういうものって、違和感がひとつでもあると、
目が拒否するというか‥‥。
そこをちゃんとクリアしてると、
スーッと自然に入ってくるし、
いやな気持ちがしないんです。
そこに、わたしたちのものづくりの、
口にできない共通項があるんですよ」
さあ、この小ひきだしをどう使いましょうか。
明日からの連載では、伊藤まさこさんに、
そのアドバイスをいただくことにしましょう。
(ちなみに、杉家では、
この小ひきだしのサンプルをもう使っているそう。
4人家族それぞれに来る郵便物を、
1人1段、まいにち仕分けて入れる
「家庭内郵便ボックス」になっているんですって!)
「杉工場」でつくりました。その1 老舗からうまれた、あたらしいプロジェクト。
福岡県の筑後地方、うきは市。
耳納(みのう)連山のふもと、
すぐ東は大分の日田という土地に、
今回の「小ひきだし」の製作を担当してくださった
杉工場があります。
創業は、明治19年。
杉工場は「すぎこうじょう」と読みますが、
ふるくからの通り名は「すぎこうば」、
地元では方言まじりに「すっこうば」とも呼ばれている、
ことし創業132年を迎える家具メーカーです。
現在の社長は、4代目になる杉寛司(ひろし)さん。
そう、杉材を使うから杉工場、なのではなく、
杉家の家業ゆえ杉工場という名前がついているのですね。


杉工場は、創業当時、
箪笥などの家具を手がけていましたが、
やがて学校で使われる跳び箱や肋木(ろくぼく)、
平行棒や平均台など、木製の体育道具を手がけるように。
さらに机や腰掛などの学習用具、
家庭科の調理台や理科の実験台、
そしてブランコやシーソー、滑り台などの遊具まで手がけ、
昭和初期には「学校用家具工場」として
当時の文部省からの推薦を受けていたほどです。
あんがい、私たちのなかにも、
あるいはおとうさんやおかあさん、
おじいちゃんやおばあちゃんが、
それと知らず学校で
杉工場の家具や遊具を使っていた、
ということも多いのかもしれません。
時代がかわり、戦後しばらくすると、
家庭用の学習机や椅子をはじめ、
テーブルや本棚などの家具に主力がうつります。
平成に入り、生産拠点を海外にもつくりましたが、
平成20年からは「日本国内のみ」での生産に移行。
“永く使える家具”をめざして、環境や健康、安全に配慮した
家具づくりをつづけています。
現在も毎日いそがしく工場を稼働させている杉工場ですが、
工場といっても、自動的に
家具ができあがるようなものではなく、
ラインの各持ち場に熟練の職人が立ち、
人の目、人の手を信頼してのものづくりをしています。
杉工場の家具が、きちんとした規格をたもちながら、
どこかあたたかみを感じさせるものに仕上がっているのは、
そんな生産体制によるところが大きいようです。
シンプルで品質の高い杉工場の家具は、
和洋のどちらのテイストの部屋にもとけこみ、
また、人の手、肌にもよくなじみます。
デザイナーが先頭に立った強いデザインではなく、
アノニマス(匿名)なものでありながら
どこにでもあるわけではない、
杉工場らしいトーンが保たれているところが、
多くの人に(インテリアの好きな人にも)
愛されているひみつなのでしょう。
さて! 今回「weeksdays」が
「小ひきだし」を依頼したのは、
まさしくこの杉工場‥‥なのですけれど、
担当してくださったのは
「わたしたち、社内ベンチャーみたいな存在なんです」
と語る3人です。
社長夫人である杉良子(りょうこ)さん、
その娘である杉明乃(あきの)さんのふたりが
「営業企画」を担当、
着任1年とすこしという家具職人である
永井覚紀(あきのり)さんが参加して、
社内であたらしいものをつくるチームを発足したのでした。
じつは良子さん、
社長の寛司さんと結婚してからしばらくは、
まったく家業にかかわらない立場だったそう。
けれども外部のデザイナーのかたから
「良子さんも商品開発をしてみたら?」と提案をうけ、
学習机などの杉工場の十八番ともいえる家具とは
まったくちがう家具をつくりはじめたのだそうです。
「当時、東京の大学に通っていた娘のワンルームに
置けるような家具をつくりたいと思ったんです。
それで楓(かえで)材、メープルですね、
それが白くてきれいだったので、
『木と風シリーズ』をつくりました」
これがいまも販売をつづけるほどのヒットに。
やがて、大学を出てから数年間、
九州で「かなり堅い仕事」をしていた明乃さんに、
良子さんが声をかけます。
もともと休みのたびにお手伝いはしていたそうなのですが、
杉工場にギャラリーをつくり、
展覧会をはじめるというタイミングで、
「手が足りないので手伝って」
と誘ったのがきっかけだったそう。
「わたし的には、娘のやっていた仕事は、
将来的に考えたら面白くはないだろうなと思ったんです。
堅実な仕事だけれど、それでいいの?
うちのほうが面白いよ? って(笑)」
時を同じくして、良子さんは、
福岡で働いていた永井さんを「見つけ」ます。
工芸品を扱うギャラリーで、
のびのび、生き生きと働いていたのが永井さんでした。
「ひとりじゃ何もできないなあ。
そう思っていたところに、家具づくりの経験があり、
ちょっと面白い才能を持った彼があらわれたんですよ」
永井さん、じつはもともとが建築畑。
京都の大学で建築とデザインを学び、
卒業後、北海道の著名な木工家具メーカーに就職します。
そこで「試作開発」という、
あたらしいデザインをどんどんつくっていく
仕事に就き、多くの家具を手がけました。
北海道でのものづくりの暮らしは
とても楽しかったといいますが、ふと
「30歳になる前に、違う世界も見なくちゃ。
もっとインプットしなくちゃ」と思い立ちます。
学生時代にアルバイトをしていたケーキ屋さんの
全国の百貨店をまわる催事の仕事をしていたとき、
こんなことが。
「訪れた故郷の鹿児島で、
父の友人から『お前の息子、面白いらしいな。
輸入の仕事をしないか?』って誘われたんです。
海外に連れて行ってやるぞ、って。
それは面白そうだと思ったら、
すぐにその仕事が部署ごとなくなってしまった。
やっぱり家具に戻ろうと考えたタイミングで、
知り合いのギャラリーが
期間限定で福岡にできることになり、
手伝うことになったんです」
そのお店に、杉工場のイベントのフライヤーを
置きにきていたのが杉良子さんたちでした。
「良子さんたちがやっている仕事のことを知り、
びっくりしました。
福岡でこんなふうに自由な家具づくりができるなんて
思っていなかったんです。
それで、勤めていた店が閉店するタイミングで、
ぜひ参加させてくださいってお願いをしました」
日本中をぐるりとまわって、いろいろな仕事を経験し、
もういちど好きな家具づくりに
携わることになった永井さん。
偶然にも、永井さんが来た昨年の1月から、
杉工場に「特注家具」の注文が増えはじめたといいます。
(つづきます)
小ひきだし
出したらしまう
「どうして家の中が散らかっていないの?」
我が家を訪れた人から、
よくこんな言葉をかけられます。
どうしてだろう? と考えると、
答えは簡単。
「出したら、もとの場所にしまうから」
なのでした。
今でこそ、こんなことを言っている私ですが、
家の中の行き場のない、
あれやこれやが散らかっている時もありました。
使っていない鍵、
取れてしまったボタン、
昔、撮った証明写真、
何に使うか分からなくなってしまった充電器‥‥。
あなたにも、ああそうそう、と
思いあたるふし、あるでしょう?
ところがある時、古道具屋で見かけた小ひきだしを
ためしに買って帰って使ってみたら、
これがなかなかいいのです。
ひとつ、またひとつと買い足して、
大中小3つの小ひきだしがそろった頃、
「出したらしまう」がすっかり身についていました。
ものの置き場所を決めると、
こんなに部屋が片づくんだなぁ。
今回、weeksdaysで紹介するのは、
杉工場と作った小ひきだし。
私が持っている古い小ひきだしのよいところを集めて、
さらに使いやすく、
そして見た目も美しく仕上げてくれました。
出したらしまうを身につけて、
春に向けて、
すっきりさっぱりした暮らしをしませんか?
ニッポンで展開するということ。
- 伊藤
- DEAN & DELUCAが40年前にできたときは、
アメリカ、ニューヨークでも
「おおっ!」という感じだったでしょうね。
さぞかし話題になったことでしょう。
デルーカさんたちのまわりにも
きっと感度の高いかたがたがいらしたことでしょう。
- 横川
- アーティストも多かったでしょうし、
アーティストと一緒にいた投資家、芸能関係‥‥
常連さんの中にはそんな人々が
たくさんおられたとよく話に出てきます。
感度の高い人が、「あ、いいよね」っていうのを
見出して、そこから自然に広がっていった。
すごく、すごくいいスタートだったんだと思います。
- 伊藤
- 横川さんたちがDEAN & DELUCAを
はじめて日本につくったとき、
細かいことは言われなかったんですか。
そういう場合って、本国と揉めるみたいな、
「こんなはずじゃない」と喧嘩になって
やめざるをえないこともあると聞きます。
- 横川
- 有難いことにほとんど何も言われなかったです。
うちはそういう意味ではラッキーでした。
最初は悲劇だと思ったんです。
契約後ニューヨークの本店に行くと、彼らは
「え、日本でやるの? 俺たちの店を?」
っていうぐらい誰も知らないんですよね。
当時はもうデルーカさんもディーンさんも
実務からは離れていたのと、
ぼくらとの契約も本社のオーナーが独断でしたことだから、
現場のお店の人たちは全然知らないし、
ぼくらは「何しに来たの?」って言われたくらい。
「日本で1年後にこのくらいの店をオープンするから」
って言うと、「おお、そうか、頑張って」。
「いや、頑張ってじゃなくて、教えてよ」
‥‥ところが、何もないんです、記録が。
1977年に店ができた当時の写真もなければ、
どういう哲学でやってるのか、
どういうルールなのか、
商品のいい悪いは誰が決めてるのか、
全ては経験と歴史の積み重ねになっていて、
何も記録がない。でも唯一ひとりだけ、
DEAN & DELUCAの申し子みたいな
バイヤーがいたんです。
マイケルさんといって、彼だけが頼りだった。
彼と仲良くなったことで、
「なぜ?」を何回も繰り返し、歴史を紐解くことで
徐々に言葉となり考えがまとまっていきました。
POPやショーケースの大きさや形は
全て現場で一から測って図面を描き起こしました。
サンプルも貰えないし、社割もない。
定価で買って日本に持って帰って、
ラベルを見ながら一軒一軒
ベンダー(製造元)に問い合わせて交渉する。
「DEAN & DELUCA JAPANというんですけど」
「え、JAPANなんてあるの?」
って毎回言われながら。
だから、最初は悲劇でしたけど、
でも自分たちでそこからやらなきゃいけなかったことで、
ほとんど自分たちで作ったのと
同じぐらいの労力をかける事ができた。
だからみんなの血になっているんです。
そこからは言われなくても
自分たちで判断できるようになっていきました。
- 伊藤
- マニュアルがないってこと多いですものね。
- 横川
- ないです、ないです。
- 伊藤
- お店を見ろってことですよね。
- 横川
- そうなんです。それが正しかった。
- 伊藤
- 技術は教えるものじゃない‥‥。
- 横川
- 見て学べ、見て盗め。
そうやってまずは自分たちで必死に試行錯誤した後に、
数年してから改めてデルーカさんとゆっくり会ったことで、
さらにルーツ(起源)や
フィロソフィー(哲学)の理解が深まりました。
- 伊藤
- なるほど、
デルーカさんにますます興味が出ちゃった。
どういう感じのかたなんでしょう?
- 横川
- 元々学校の先生だっただけあって
ぼくらの先生のようでもあり、
もう今70代なんですけど、
アーティスティックで思想家なのに
お茶目なところもあったり
ものすごい包容力もあって、とっても尊敬しています。
これ、ディーンさんとデルーカさんです。
77年当時の、
デルーカさんが30代半ばのときの写真です。
ひと世代上のディーンさんと出会い、
先輩の知性や感性に刺激を受けながら
バイヤーでありPRマンとして
ブランドの顔として立っていたようです。
今は授かったばかりのお子様も一緒に、
SOHOの素敵なペントハウスに住まれていて、
たまに伺いますが本当にセンスの塊みたいな生活なんです。
周りにいる人も物も空間も。

▲創業当時のディーンさん(左)とデルーカさん(右)
- 伊藤
- お話をうかがって、いろいろ腑に落ちました。
わたしがDEAN & DELUCAと一緒に
ものづくりがしたいと思った最初の気持ちって、
安心感がある、ということとともに、
「かわいい」ということも大きかったんです。
ちっちゃい頃、父がアメリカ出張から戻ると、
お家とうさぎの型のクッキーを
お土産に買ってきてくれた。
父が伊藤家に入れてくる外国の風、
すごく記憶に残っていて、
横川さんにお願いしたら、
あの思い出ごと込めたすてきなものが
つくれるかもって思ったんです。
- 横川
- 最初に、缶の話になったんですよね。
とにかく最初に「缶がいいのよね」
とおっしゃっていた。
缶を喜んでいただけることはあるんですけど、
まさこさんも喜んでくださるんだって、新鮮でした。
- 伊藤
- 缶、好きなんです。
- 横川
- それでジャムを試食していただいたら、
プライベートブランドといって、
自分たちでオリジナルで作っているものを
「おいしい!」って言ってくださった。
ものすごく、うれしかったですよ。
ぼくらが美味しいと思うものを販売しているし、
いろいろ年を重ねながら試行錯誤して
たどり着いたものですが、
逆にぼくらの中で普通になってきていたのを、
改めて「おいしい!」って言われて、
ほんとうにうれしくて。
- 伊藤
- 最初から、マーマレードとかでも
皮に主張があったりとか、
個性があっていいなって思ったんです。
- 横川
- 苦みがあったり酸味があったり。
- 伊藤
- でも、すごくいい意味で、普通で、
ストライクゾーンが広くて、
子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで、
「ちょっとこれ苦手」と言う人が
いない味だなと思ったんですよね。
それがすごくよかったと思っています。
わたしが「ストロベリーはもうちょっとベリー感を」
とかって言うと、次のサンプルは絶対もう
「これです、これ!」と完成していたのにも
おどろきました。
- 横川
- そこからクッキーとジャムの、まさかの掛け算で、
これができあがりましたね。
まさこさんがジャムをクッキーにつけて食べたい、
そのためにちょっと硬いほうがいい、
というような話になったり、
「へえ!」って思うことがたくさんありました。
ぼくらだけじゃ絶対出てこないアイデアばかりです。
- 伊藤
- それも父の思い出で、
アメリカ土産のクッキーって、
フランスっぽいというよりは、
ちょっとだけ硬くて、それもまたおいしくて。
このジャムだったら
あのクッキーにつけて食べれば
きっとおいしいんじゃないかな? って。
- 横川
- クッキーがスプーンのかたちになり、
シンプルだけれどかわいいとおっしゃってくださった
缶に入れてパッケージしたことで、
ちょっとしたかわいらしさも出ました。
ちゃんとDEAN & DELUCAの商品として
自信を持ってお届けできるものができました。
- 伊藤
- デルーカさんに食べてほしいな。
- 横川
- そうですね。お届けしておきますよ。
- 伊藤
- ぜひ!
これから、お店はどうされていくんですか。
もう変わらず、よいものを集めて?
- 横川
- ちょうどお正月に、その話を
社員のみんなとしてたんです。
いい意味で自分たちをもう一回磨き直そう、
既存を磨き直そう、というふうに考えています。
お店の数も、チェーン店ほどじゃないにしても、
それなりに数も増えて、商品も充実してきました。
ぼくらは「人がいないとできないこと」を
やってるんですけど、
だからこそ常に人自身の考える力を
磨き続ける事が必要だと思うんです。
創業時に挫折した生鮮食品も取り扱ってみたいです。
最近、小さいですけど、
広尾にもお店を開けたんです。
メイン道路の外苑西通り沿い、広尾プラザです。
今までは駅とか百貨店が多かったんですけど、
もっと生活に近いところで、
DEAN & DELUCAとして
長く続けられたらいいなと思って。
今でもお惣菜をつくるために
全店にキッチンがあって、
全店に料理人がいて、そこで作っています。
これまではおおむね
全店統一メニューでやってたんですけど、
統一じゃなくていいのかもしれないねって
話しています。
スタンダードなラザニアは変える必要ないけど、
料理人がいるんだから、
季節のサラダはそれぞれシェフがやればいいし、
季節で、地域で、値段も内容も違って
いいんじゃないかなって。
それぞれの店にちゃんと職人がいて、
目利きがいて、お伝えできて、お届けできるように
さらに磨きをかけたいねって考えています。
そういう意味での「もう一回磨き直そう」。
商品一個一個もね、長く活躍してくれている選手は、
いい意味でもっとブラッシュアップしていこうって。
そうすれば、より愛情を込めて
扱うことができるようになると思います。
それと、ぼくらは年末に
おせちを販売しているんですけれど‥‥。

▲2018年秋にオープンしたばかりの広尾店
- 伊藤
- おせち?! イタリアンなんですか。
- 横川
- 和洋折衷なんです。
三段のお重になっていて、
壱の重が九つの升目に和のおせち。
黒豆とか数の子とか、だし巻き卵や栗きんとんなど、
日本の各地のつくり手さんから届く伝統の祝い肴を。
弐の重は同じ升目に
うちのシェフたちがつくる
サーモンのマリネとか鰯のコンフィ、
豚のリエットなどのオードブルやキャビアも詰めて、
参の重はお肉料理やパイなどの
メインディッシュになってるんです。
ちょうど10年ぐらい前に始めたんですよ。
このときも、おせちのルーツを一から勉強して、
食材や料理に意味があること、
地域ごとの歴史があること、
その上で自分たちのこだわりやうちらしさを詰め込んで、
クラシックだけど新しい
真っ白な三段のお重の形になったんですね。
十数台から始めて、
今、およそ500台ぐらいまでになりました。
当たり前ですけど、冷凍することなく、
29日からつくりはじめ、30日の夜中に詰めて、
出来立てを31日にお届けしています。
もうこの数より増えると、できないんですよね。
毎年、お祭り事のように
一年を無事に終えられることに感謝しながら
みんなで作るんです。
お重は翌年再利用できるので、
半数以上のかたがリピーターで、
前年までに購入されたお重をお持ちになります。
環境のことだけじゃなくて、
こういった昔ながらを続けるということを大切にして、
毎年この再利用の取り組みを続けています。
すごくありがたいことだと思っています。
- 伊藤
- はい。今年の年末はお願いしようかな?
- 横川
- ぜひ!
- 伊藤
- 横川さんは、最初にうかがったライフスタイルショップ
「GEORGE‘S」や「CIBONE」をはじめ、
いろいろな事業を展開なさっていますよね。
食まわりも今後なにか増えるんでしょうか。
- 横川
- 2020年をめざして
いくつかのプロジェクトが進んでいますよ。
せっかくたくさんの素晴らしい
つくり手のみなさんにお会いできるので、
こだわりの食材や職人さんと
お店やイベントもやりたいなと。
この間は東京に毎朝その場で
モッツァレラやブラータというチーズをつくる
GOOD CHEESE GOOD PIZZAという
レストランをつくったんですよ。
デザインのほうも、このあいだ、
HAY TOKYOという
デンマークのデザインブランドのお店を
表参道のGYREのB1階に
期間限定でオープンしました。
- 伊藤
- うわぁ。横川さんの動向、ますますたのしみです!
‥‥なんだか、わたし、今日、
「はい」、「へぇー」ばっかりだったかも?(笑)
でも、いいや、横川さんのこと、
DEAN & DELUCAのことを知ってもらうのに、
とってもよかったと思います。
たくさんお話しくださってありがとうございました。
- 横川
- こちらこそ、ありがとうございました。
これをきっかけに、いろんなたのしいもの、
これからも一緒につくりましょう。
- 伊藤
- はい、ぜひ!
-
横川さんにお会いして
伊藤まさこ
DEAN & DELUCAに一歩足を踏み入れると、
気づかぬうちに、
自分がごきげんになっている。
このわくわくした気持ちは、
いったいなんなのだろう?
ずっとそう思っていました。「おいしいものは人を幸せにする。
私たちはそれを伝えたい」デルーカさんが横川さんにおっしゃった、
この一言で
ああ、そうだったのかと腑に落ちました。
このものすごくシンプルな言葉は、
DEAN & DELUCAという店を物語っている。
だってその思いが店中に漂っているもの。本国の店の形をそのまま持ってくるのではなく、
受け継がれているのは、
ディーンさんとデルーカさんの哲学。
日本だから、
日本でなくてはできない店作りを、
これからもたのしみにしていますね。
デルーカさんに会いに。
- 伊藤
- DEAN & DELUCAの日本での展開に悩み、
ニューヨークに相談に。
デルーカさんは、どんなアドバイスを
くださったんですか?
- 横川
- 彼はこう言いました──。
「25年前に始めたとき、
イタリアとかヨーロッパの
本当に歴史のある食文化を
ちゃんとアメリカの人に伝えたかった。
おいしいものは人を幸せにするって
本当に知ってたから、それを伝えたかった。
君たちは、ヨーロッパに負けないくらい歴史のある国だ。
素晴らしい食文化があるのだから、
アメリカなんか真似しないで、
共感できるヨーロッパの
地中海気候風土の食文化を探りながら、
日本の食卓に世界のおいしいものを
素直に届ければいい。
アメリカなんか経由しなくていいんだよ。
DEAN & DELUCAは別にアメリカじゃない。
DEAN & DELUCAはDEAN & DELUCAだ。
フィロソフィーを共有すれば、
あとはその思想で世界を見ればいいんだ。
パスタやオリーブオイルばかりでなくて、
足元にある日本の蕎麦も醤油も味噌も、
絶対に置いたほうがいいよ」
そう言われて、ぼくら、その当時までは、
日本食を並べるというのが、
なんだか気恥ずかしくてできなかったんです。
でもその言葉で曇ってたものがパッと晴れて、
和菓子を置き、醤油、味噌、お酢を置き、
パスタの横に蕎麦を置きっていうことが
できるようになった。
そこから、でしたね。
- 伊藤
- お客様の流れも変わりましたか。
- 横川
- 変わりました。変わって、しかも偶然にも、
バッグが売れるようになったんです。
資金がもう尽きそうだというギリギリのとき、
最後の挑戦だと日本食を置いた頃に、
バッグが売れはじめた。
「もっと頑張れ」と言われてるかのように、
後ろから神風のように、ブームになったんです。
あのおかげでぼくらは生きられた。
思いを曲げずに、伝わるまで時間がかかっても
地道にやろうっていうことをやり続けられたんです。
- 伊藤
- デルーカさんと会い、その哲学を聞き、
悩んでいた状況から、パッと霧が晴れた。
当時、横川さんはおいくつぐらいだったんですか。
- 横川
- DEAN & DELUCAを立ち上げて
5年目に差し掛かる頃ですから、
34歳ぐらいですね。
- 伊藤
- 年齢は関係すると思いますか?
もしそのときもっと若かったら、
デルーカさんの言葉を素直に聞けず、
日本食を置くという判断が
できなかっただろう‥‥とか。
- 横川
- そうかもしれないです。
ちょうど、社会人になって10年目ぐらいで、
海外に憧れグルグルやってるうちに、
日本をちゃんと知らない自分が
ちょっと恥ずかしくなった時期でもあったし。
- 伊藤
- 外国にいた時間が長いですよね、
横川さんは。
- 横川
- 高校時代に1年オーストラリアに住んで、
就職したあと、また1年の半分くらいが
アメリカと行ったり来たりだったんです。
そんなふうに海外の生活を何年か経験して、
行くたびに日本のこと聞かれるのに、
実は日本のことをあまり答えられなかった。
だからまた余計に海外に夢中になって、
海外のものを日本に持っていくことで
自分をごまかしていたところが
あったのかもしれませんね。
それが30代半ばになって、
少しこう、浮いてた片足が着いて。
ちょうど世の中の傾向としても、
「日本をもっと知ろう、日本をもっと世界に届けよう」
みたいな気持ちに向き始めていたと思います。
そのときのことは今でも覚えています。
- 伊藤
- 人を集めるのも簡単じゃないですよね。
「経験者求む」といっても、
そんな経験をした人はなかなかいないでしょうから。
- 横川
- それこそ「外食はやったことあるけど、
中食ってデパ地下でしょ?」みたいなイメージで、
「そもそも料理人が働くとこじゃないよね。
ずっとバックヤードで揚げ物揚げてるんでしょ?」
みたいに思われたり、
「食物販って、どこで? スーパー?」と言われたり。
ぼくらも説明がうまくできなかった。
だって、同じものがないから、
だからこそ今があるんですけど、
最初、理解してもらえるまでは大変でした。
それでも、ありがたいことに、
1回中に入って、楽しいと思った人とかお客様が
「一緒にやろう」みたいに人が人を呼んでくれて。
そこからはチームの渦のような力がすごかったです。
みんな、会社がどうこうとか、働き方どうこうとか、
もう本当にそんなの関係なく、
ウワーッと勢いにのってやってた(笑)。
当時からのメンバーは、今も多く残っています。
- 伊藤
- 世の中の食をめぐる環境も、
お仕事を始められてからずいぶん変わったでしょうね。
そんななか、ぶれずになさってきたこと、
すごいと思います。
- 横川
- DEAN & DELUCAをはじめていっときして
中国餃子の話とか、狂牛病の話とか、
食べ物を通して不安になるような事件・事故が
けっこう起こりましたね。
そのあと震災があって、いろんな意味で
時代がどんどん本質に向かっていったし、
そこに必ず食はあった。
安心安全みたいなことは別にぼくら、
とくに言ってないんですけど、
逆にいうと、それが当然ということを
ナチュラルにデルーカや
作り手の人たちに教わったんです。
その原点は、量じゃなくて
当たり前に質が手元にあった田舎の市場です。
都会を見ないで、田舎に学びに行きなさいって
教えていただいた、そこからはじまってるので、
ぶれることはありませんでした。
- 伊藤
- 素晴らしい方たちですね。
- 横川
- そうなんです。人としてとても尊敬しているし、
何ていうんですかね、師匠みたいなところがあって。
師匠というか、おじいちゃんかな?
- 伊藤
- ディーンさんもデルーカさんもご健在なんですか。

▲ディーンさん(右)とデルーカさん(左)
- 横川
- デルーカさんはご健在です。
ディーンさんはもう一回り上で、
ぼくらが始めて3年ぐらいのときに
残念ながら亡くなられちゃったんです。
ディーンさんのほうが怖いんですよ。
デルーカさんはもともとチーズ屋から始めて、
ディーンと出会ってDEAN & DELUCAになるんですけど、
ディーンさんはもともと編集者なんです。
それこそオペラから芸術から食に至るまで、
ものすごく知識と教養のある方で。
- 伊藤
- それは知らなかった。編集者だったんですか。
- 横川
- そうなんです。
「君はこんなことも知らないでここにいるのかい」
ってこと上からドーンと言われる感じ(笑)。
- 伊藤
- お2人はどういう役割分担を?
- 横川
- DEAN & DELUCAは「食のビートルズ」だと
昔「ニューヨーク・タイムズ」に
書かれたことがあるんです。
ディーンさんはDEAN & DELUCAにおいて
クリエイティブディレクターとコンダクター。
そのパートナーのジャックさんがアートディレクター。
デルーカさんはマーチャンダイザーで広報担当。
イタリア系なので元気でおしゃべりなので。
で、もう1人はフィリップという料理人で、
とにかく感度の高い4人の
セッションのようなお店だったそうです。
- ──
- 仲のいいチームなんですね。
- 横川
- そうなんです。
アートディレクターのジャックさんがいたから
DEAN & DELUCAのこのロゴが生まれたし、
食が主役で、それ以外のすべてのデザインは
そこに恥じずに静かに支えればいいという、
ミニマリズムのデザインを貫いた人なんです。
当時のぼくらが
「なんかDEAN & DELUCAっていいよね」
って感じたのは、ディーンさん、デルーカさんの後ろに
ジャックさんの力もあったんですね。
それはあとから知るんですけど、
食の世界にここまでの人が一緒にいるってことが
それまで、なかったんだと思うんですよね。
そんな4人組が、
周りにはアートギャラリーばっかりの
倉庫街のソーホーに突然生まれたわけです。
紆余曲折の船出。
- 伊藤
- ニューヨークのDEAN & DELUCAは、
最初から今の場所にあったんですか?
- 横川
- 1号店はソーホーなんですけれど100坪ぐらい、
いまのミッドタウンにある六本木店ぐらいの
大きさだったんです。
それが今、4倍ぐらいの面積になっています。
ブロードウェイに面して今の場所に移動したのが
創業して10年後のことだったそうです。
- 伊藤
- そうなんですね。
- 横川
- 当時、ロケーション的にもソーホーが
ドッと世界的に注目されはじめていた。
だからロケーションもタイミングも
いろんなものがバチッと合って、
一気に話題になったんです。
1軒のグローサリーが世界中に知れ渡った。
すごいことが起きたんですよ。
- 伊藤
- 本国から日本出店の話を持ってきてくださったとき、
彼らはどういう状況だったんですか。
つまり海外進出をすでにしていて、
次は日本にも、という状況だったのかしら。
- 横川
- いや、海外進出もしてなかったですし、
その時点でも本当は
するつもりもなかったそうなんです。
いまだってDEAN & DELUCAは
アメリカに6軒しかありません。
中でも、ソーホーと、ナパのお店を知ってる人はいても
それ以外はほとんどどこにあるかも知らないくらい。
- 伊藤
- え?(笑)
- 横川
- DEAN & DELUCA本体は
日本に進出するつもりがなかった。
でもその商社の、アメリカ駐在員が、
すごくやんちゃな人で、
DEAN & DELUCAが大好きで、
これをなんとか持ってきたいって思ったんです。
その商社は主に繊維が強い会社だったんですが、
「これからは絶対、食だから、
絶対日本に持っていきたい」と、
DEAN & DELUCAの当時の社長を口説いて、
「そこまで言うならば」みたいなふうに
とくに準備がないことも承知でOKをもらった。
そのときの条件が
「食べ物屋であること」だったんですね。
でも有難い話でしたが、
ぼくらはそんなことができる規模も経験も
なかったわけです。
- 伊藤
- それでお父さまに相談を?
- 横川
- そうなんです。
父も外食の次に
ライフスタイルが大切だと考えていたので
話を聞いた途端に「やろう」と一つ返事だったんです。
ぼくはどっちかというとその当時
まだ家具屋のほうが大変だったので、
「手伝うよ」ぐらいの気持ちだったんです。
「とうさんがやったら? 規模が違うから。
商社とか、わかんないし」って(笑)。
ところが、ありそうで無かったこの業態は
想像以上に難しくて、
立ち上がって半年で私が引き継ぐことになったんです。
名も無き家具屋のぼくらが
巨大な商社と合同で会社をつくることになりました。
それがDEAN & DELUCA JAPANです。
- 伊藤
- ようやく船出。
東京の1店舗目は‥‥。
- 横川
- 丸の内です。
新丸ビルがまだできる前の、
仲通りがまだオフィス街だった頃の丸の内で
カフェをはじめました。
その半年後に渋谷の「東横のれん街」という、
日本で一番古いデパ地下の発祥といわれる
本当に老舗しかいないような
屋内の食品街に2軒目。
3軒目が、品川ですが、
まだ新幹線の駅が開通する前の港南口です。

▲創業当時の丸の内店

▲渋谷店
- 伊藤
- 当時の品川駅の港南口は、
いまとはぜんぜん違う、
殺風景とも言えるくらいの印象でしたよね。
そこに!
- 横川
- そんなとんでもないとこに店を開けたので、
最初、全然お客さんは来ませんでした。
でも、今になってみると、
ありがたくいただいた場所だったと思います。
- 伊藤
- 場所は、どうやって決めたんですか。
丸の内も品川も、いまの活況を見据えて?
- 横川
- それが一流商社のすごいところなんです。
そこに出そうと提案してくれた
先見性はすごいなと思います。
丸の内やJRが考えていること、
10年先ぐらいを見据えた開発のことをわかっていた。
今やみんなが出店したいっていう場所に、
いいご縁でそのままいさせていただいてるので。
- 伊藤
- そんな3店舗の立ち上がりは
順調な立ち上がりだったんですか?
- 横川
- いやいや、とにかく大変でもう火の車でした。
家具屋を当時15店舗ぐらいやってたんですけど、
その全利益を回しても回らないぐらいの赤字経営でした。
3店舗しかないのに。
- 伊藤
- 多分、DEAN & DELUCAのようなお店を
待っていた人は多いと思うんです。なのに‥‥。
- 横川
- そうなんです。
待っていてくださったかたは多かったんですけど、
場所が丸の内の果てのほうと、
新幹線が停まっていない品川でしたから。
のれん街は売れていましたが、
その2店舗は全然ダメ。
とくに大きな品川が一番厳しかった。
でも、立地ということだけではなく、
ぼくらが本場のDEAN & DELUCAに憧れ過ぎて、
ニューヨークのまんまやろうとしたことが、
ダメだったんだと思います。
- 伊藤
- 「まんま」というと?
- 横川
- イタリア系アメリカ人が
ニューヨークで感度の高い人びと向けに
選んだものをそのまま持ってきたわけです。
例えばコーヒーはそもそもサイズが大きいし、
アメリカから2か月もかけて船便で来るので、
鮮度も落ちている状態でした。
惣菜は「グラム」じゃなく「パウンド」で量るし、
POP(展示する説明文)は全部英語。
当時は野菜も肉も魚もやったんですけど、
肉はそれこそ鳩が羽毛をむしられた状態で並んでて。

▲生鮮食品を扱っていた、当時の品川店
- 伊藤
- その記憶、ないなあ!
- 横川
- ほんとうに最初の頃ですね。
ジビエがへっちゃらで並んでて、
魚も切り身じゃなくて、
一尾ずつダーッと並んでて。
- 伊藤
- あ! それは覚えています。
格好いいけど買いにくいんですよね(笑)。
- 横川
- 今だったら、みんなに
インスタグラムにあげてもらいたいくらい
格好よかったんですよ。
でもね、ぼくが建築出身だったので、
そういうところから入っちゃったのかも。
やり過ぎちゃった。
それこそ料理する人からしたら、
「どうすんの、この鳩」みたいな(笑)。
- 伊藤
- それに、量も多い。
- 横川
- やっぱり食生活もリズムも、
コーヒーだって飲む量も頻度も全部違うのに。
好きか嫌いかといわれたら好きだけど、
アメリカ人が飲むほどの量は飲まない。
かつ鮮度に対してはもっと敏感。
となったら、量を小さくして、
単価も下げて、買い回ってもらわないと。
「この大きいのがアメリカっぽくていいよね」
って言ってるのは旅行してるときだけで、
普段の生活はそうじゃないよねって。
- 伊藤
- そうです。持て余しちゃったりとかするし、
毎日コーヒー飲みたい方は
半分の値段で2回に分けて買うほうがいいですもんね。
- 横川
- そうそうそう。そんなことをちょっとずつ
調整していきました。
最初はコーヒーを変えて、お塩の量り売りを始めて、
そのうち、今回、一緒につくらせていただいた
ちいさなサイズのジャム瓶が生まれたんです。
そうそう、その日本発のコーヒーですが、
トーキョーブレンドという、
ピンク色のパッケージだったんですね。
これまたすごく揉めたんです、アメリカと。
シルバーかブロンズか黒か白、
それがブランドカラーなのに、
東京は「ピンクだ」って。
なぜかというと「桜だから」。
海外の人が東京に来たときに、
逆に東京のお土産として買って帰ってうれしいねって。
これが思った以上に売れたんですよ。
アメリカから輸入したコーヒーはみんなでかいのに、
トーキョーブレンドだけちっちゃくて、
ほかは全部ホールビーンなんですけど、
それだけ挽いてあってすぐに使えるし、
日本でローストしているから当然フレッシュで。
その経験で「ああ、やっぱり」となって、
コーヒー豆のシリーズのサイズを
全部小さく変えました。
- 伊藤
- そこからは、事業は上向きに?
- 横川
- いえ、まだまだでした。
ミッドタウンにある六本木店ができたのが
それから5年後なんですけど、
全然うまくいかなくて、
デルーカさんに会いにニューヨークに行ったんです。
「日本でうまくいかないんだけど、
何故なんでしょう」って。
すると彼はこう言ったんです。
「日本でやりませんか?」
- 伊藤
- 丁度その頃雑誌でもCAFEが特集されたりと、
話題になるお店が増えていた頃ですよね。
- 横川
- そうなんです、個性あるカフェが人を惹きつけ
話題になっていました。
オーナーが惹きつけるのか、
そこに来ている人たちが
お店の空気を作っていましたね。
それでちょっとしたブームになって、
話題のカフェの前に
1時間も並んで入るみたいなことに。
- 伊藤
- それまで、そういう店がなかったですもの。
- 横川
- そのような流れの中で、
うちのお店づくりを相談したり
北欧や東欧、ミラノやニューヨークなど、
いろんなところに買い付けやリサーチに一緒にいきながら、
色々なことを教えてもらっている方から
「DEAN & DELUCAが日本でやりたいという話があるんだけれど、やらない?」て。
- 伊藤
- !!!
そういうことなんですね。
- 横川
- そりゃやりたいけれど、
家具屋を始めてまだ3年目ぐらいですから、
資金も余力もない。
そこで父に相談したんです。
- 伊藤
- ここでお父さまが登場!
- 横川
- そうそう。
外食はやりたくないけど、
これは中食(なかしょく)だし‥‥。
- 伊藤
- 外食と中食は違うんですね。
- 横川
- そこで食べるのが外食、
お惣菜を持って帰るのが中食です。
家具屋をやっていると、
家でご飯を食べることって大事で、
自分の好きな家具・雑貨・空間・音楽が
自分の家にあるとしたら、
きっと自分の家で料理したくなるし、
なかなか自分だけじゃ作れないときは、
おいしいお惣菜があったらうれしい。
男でも料理したくなっちゃうようなスーパーとか
グローサリーがあったらいいよね、
みたいな思いがありました。
だから「なんでDEAN & DELUCAみたいなお店が
日本にはないのかな」って思っていたんです。
- 伊藤
- なかったですよね。
ああいうものは、外国に行かないとなかったです。
わたしは、マーサ・スチュワートの本だったかな、
メディアを通してDEAN & DELUCAを知り、
こんなにかわいい、
こんなにワクワクするお店があるんだ!
と思って、おどろきました。
- 横川
- DEAN & DELUCAに限らず、
市場と街がそんなに離れていない感覚は、
外国のほうが強くありましたよね。
日本はスーパーマーケットの流通が
うまくいきすぎたのかもしれません。
そこがものすごくドライに広がっちゃった。
向こうは昔ながらの生々しい市場っぽい、
食材がとにかくそのままの姿で
山盛りに積み上げてあるみたいな、
そんなスーパーが当時もあったし、
それがより洗練されて、
セレクトの妙が立っていたのが
DEAN & DELUCAだったと思います。
- 伊藤
- ニューヨークでもやっぱり先端だったんですよね、
DEAN & DELUCAって、きっと。
あちらでも、食のセレクトショップというのは、
それまで、あまりなかったと思います。
- 横川
- なかったんだと思います。
ニューヨークは、ある程度
人種ごとに住むエリアが決まっていて、
ジューイッシュの人たちが多いエリアとか、
イタリア系の人が多いエリアとかいろいろある中で、
ソーホーという、もともと倉庫のエリアが、
いろんな人種の混ざり合った
アーティストエリアになっていくところだった。
そこに、もともとイタリア系だった
デルーカさんが来た。
リトル・イタリーだと
イタリア系食材しか並びませんが、
開拓エリアだったから、
感度のいいお客さんに向かって
美味しいものを並べた。
ジューイッシュ、イタリアン、
フレンチとかではなく。
- 伊藤
- 食の感度の高い人が、
それまで地域ごとに探しに行っていたような
めずらしくていい食材が、
ソーホーのDEAN & DELUCAに集まったんですね。
リトル・イタリーに行かないといけなかったものが、
ここで手に入る、みたいな。
- 横川
- 地域ごとにはマニアックないい店が
たくさんあったんですけれど、
そのボーダーを超えて、ライフスタイルで
セレクト‥‥というよりも、
編集をする、みたいなことを、
彼らは、初めて「食」でやったんだと思います。
- 伊藤
- 美意識と、おいしいということを軸に、
国境を取り払って。
DEAN & DELUCA
建築の「コンテンツ」をつくりたい。
- 伊藤
- 昨年から横川さんの率いる
DEAN & DELUCAのチームのみなさんと
いっしょに商品開発をすすめてきて、
ほんとうにおどろいたんです。
「こんな感じかな‥‥」というわたしの
かなりあいまいなリクエストに、
「こういうことですね!」と、
最初から明確な提案をしてくださって。
- 横川
- ああ、うれしい、よかったです。
ぼくら、ドキドキしながら試作をしていたんですよ。
- 伊藤
- そもそも、横川さんが日本で
DEAN & DELUCAを運営しているということや、
日本側のチームがここまできちんと関わって
お店や商品をつくっていること、
あまり知られていないですよね。
DEAN & DELUCAが日本に上陸して
何年になるのでしたっけ。
- 横川
- 15年になりました。
- 伊藤
- 15年! そんなに。
- 横川
- そうなんです。
でも、まさこさんたちみたいに、
ニューヨークのDEAN & DELUCAを
むかしから知ってくださってる人たちからしたら、
相当、後発組なんです。
なにしろブランドそのものはもう40年になるので。
かくいうぼくも、DEAN & DELUCAのファンでした。
周りの人がDEAN & DELUCAのバッグを
ニューヨーク土産にしたり、
どんなに素敵な店か、話を聞いたりしていました。
ぼくは当時デザインの仕事をしていたので、
買い付けでニューヨークに行ったとき、
やっと訪ねることができたんです。
- 伊藤
- デザインをなさっていたんですか?
そもそも「横川さんって何者?」って、
お読みになるかたも、疑問かも。
ただの実業家じゃなさそうだって。
- 横川
- あ、ごめんなさい(笑)。
ぼくが何者かっていうと、
もともと大学で建築を勉強していたんです。
都市計画をやりたくて、
高校生のころから目指していたんですね。
でも、学校では建物を建てる勉強しかしない。
建物の中にどういう暮らしがあるのかとか、
どういう人の生活があるのかとか、
いまでいう「コンテンツ」ですね、
その発想のない人たちが
建物を建てて街をつくっていることに
非常に違和感があって。
料理を作ったことない人が
調理道具をつくってるみたいなことですから、
おかしいって思ったんです。
たまたま父が外食の仕事だったこともあり、
やっぱり中身に興味が湧いてきて、
建物の中身を作るほうをやってから
建築の仕事に戻ろうかなと思いました。
大学を出たときちょうどバブルもはじけて、
あまり建築の仕事の求人もなかったので、
といって急に飲食にも行けないから、
家具・雑貨の業界に入りました。
じつはぼく、アンティークの家具屋で、
高校のときから働いていたんです。
そこでは当時の
ブリティッシュ・アンティークをはじめ
ヨーロッパのものを扱っていました。
港区の素晴らしい邸宅に家具をお届けするんです。
ぼくの担当は磨きの仕事だったんですけど、
そういうインテリアの世界が好きだった。
だから家具屋に勤めたんですね。
ところが家具屋さんって全然お客さんが来なくて!
数年して、経営の見直しがあり、
20店舗くらいあったお店の
立て直しをしようというとき、
いろいろあって、自分が代表になり、
独立したんです。
それが「George’s」というインテリアショップです。
いまも続いていて、今年で30年になるんです。
- 伊藤
- なるほど!
横川さんがDEAN & DELUCAのほかに
「CIBONE」(シボネ)という家具インテリア、
生活雑貨のお店をなさっていることは知っていましたが、
その原点が、そこにあったんですね。
- 横川
- そうなんです。
- 伊藤
- 食品関係は、いつから?
- 横川
- 自分たちでお店をはじめてからも
最初はなかなかお客さんが来てくれなくて、
「お店に立ち寄るきっかけとして、
横にカフェがあったほうがいいね」と。
そこで、家具とか雑貨だけでなく
もう少しリアルに生活やスタイルを意識して
お店をつくりたいと想像する中でCIBONEが生まれ、
その隣にカフェをつくったときからです。
- 伊藤
- それが何年ぐらい前のことですか?
- 横川
- 17、8年ぐらい前です。
ぼくはまだ27歳でした。
- 伊藤
- お父様が外食のお仕事だったということですが、
同じ「食」でも、そちらに行こうとは
思わなかったんですね。
- 横川
- 今では食の仕事は大好きですけれど、
当時は父親に反抗して、
外食を仕事にしたくなかったんです。
それより
「これからは、デザインだ」って。
父からも手伝えと言われたことはなく、
逆に「関わらせない!」って(笑)。
おいしい何かが待っている
子どもの頃、学校から帰ってくると、
台所からなにやらいいにおいが漂ってくる。
あ、もしかしてクッキー焼いてる?
急いで手を洗って、
母のお手伝い。
抜き型はどれにしよう?
ハートにお星様、クッキー坊や‥‥
早く焼けないかなぁ。
わくわくした気持ちで、
オーブンをのぞいたものでした。
できあがったクッキーは缶の中へ。
それから数日、
おやつの時にその缶を開けてパクパク食べる。
それはなんともいえずしあわせな時間。
そんな記憶が刷り込まれているからでしょうか、
缶入りのクッキーには特別の思いがあるのです。
「缶を開けると中にはおいしい何かが待っている」
子どもの頃の記憶をそのままに、
でも味と見た目は新しい、
クッキー缶を作りました。
ご協力いただいたのは、
DEAN & DELUCAのチーム。
weeksdaysでははじめて、
「食べるもの」のご紹介となります。
代表の横川正紀さんとの対談と合わせて
お楽しみくださいね。
伊藤まさこさんの 5つのコーディネート。
コーディネートによって
シックにもカジュアルにもなるブラウスの、
こちらはカジュアル版。
デニムの裾はロールアップしてくるぶしを少しだけ見せ、
軽い感じにするとバランスがいい。
春から初夏にかけて、
ぺたんこのサンダルとかごで涼しげに。
スカーフやリップで
ほんの少し色を足すといいと思います。
シックな印象のリネンコートですが、
ボーダー柄も意外に合うのです。
デニムのスカート、
コンバースのスニーカーという
定番のコーディネートを
ぐっと大人っぽくしてくれる、その威力はすごい。
肩にさっとかけてもかっこいいですよ。
黒いワンピースの上にさっと羽織ってみました。
前開きのワンピースは
こんな風にコート風にも着られるところがうれしい。
キャミソールワンピースや、
Tシャツにデニムなども合いそうです。
首に巻いたスカーフと靴をコートと同色にした、
コートが主役のコーディネートです。
形も素材も抜群にいい服は、
こんなシンプルな着こなしが一番。
ソックスを合わせて、
ちょっとかわいらしくするのがポイント。
髪はすっきりまとめてバランスよく。
とろりとした素材のシルクには、
やさしい感触のパンツを合わせます。
黒い小さなバッグに、黒い靴だと
ちょっとおとなしめなので、思い切ってゴールドの靴を。
第一ボタンをきゅっとしめて、
きりりと着こなしてください。
saquiの春夏のトップスは、 ぜんぶ家で洗える生地なんです。
岸山沙代子さんにききました。2
これは、ストライプの生地を使って
つくったトップスです。
コットン78%、ポリエステル27%、
洗いっぱなしで大丈夫で、
まるで形状記憶みたいに張りがある。
伊藤さんが生地見本を見て「これを使いたい!」、
そこから何を作るか、考えました。
すごく張りのある生地なので、
やっぱり立体感のある服がかわいいな、と思い、
ワンピースにしようかな? それとも‥‥、
といろいろ考えたんですけど、
ほのかな透け感があるので、
ワンピースやパンツは難しい。
慣れているかたは下着をじょうずに選んで
着こなせると思うんですけれど、
気軽に着てほしいし、
かといって裏地をつけると
洗濯表示が「ドライ」になっちゃう。
家で洗える便利さをもったまま、
この生地のかわいさが出る立体感のある服をと、
こんなふうに袖の太いブラウスができました。
袖は六分。
バルーンといっていいのかな、
生地の張りとパターンのくふうで、
そのかたちが着ているときも保たれるように考えました。
身頃から袖まで切り替えずに裁断をしているんです。
袖周りもたっぷり、身幅もかなり太め。
体型を気にせずにいられます。
丈は短め。スカートにも合うし、
パンツもいけます。
後ろがちょっと長めになっているので、
たとえばワイドパンツで、
前身ごろだけインしてもいいですよね。
そうそう、ディテールといえば、
ひとつだけアクセントのようにつけたボタン。
これ、パリのクリニャンクールの骨董店で求めたもので、
60年代のヴィンテージボタンなんですよ。
このワンピースは、昨年つくったネイビーの、
シルクのワンピースが原型になっています。
これよりも少し丈が短めで、襟なしでVネック。
伊藤さんもすごく気に入ってくださっていました。
とても人気があったんですが、
愛用してくださっている幾人かのかたから、
「もうすこし丈が長かったら」
という声をいただいたんですね。
たしかにそのほうがちょっと大人っぽく、
エレガントなんですね。それに素材は軽いシルクですし、
サラサラしているので、長くても重さを感じない。
そこで、昨年のパターンから、
12センチくらい、丈を長くしました。
このシルクの生地は日本製で、
「家庭で洗える」ことが特徴です。
そして、生地には表・裏があるんですが、
ふつうは裏にする面を、表地にしているんです。
それは、表だとツヤツヤすぎて、
面積が大きいので、かなり派手になる。
裏地だとマットになっているので、ちょうどいいんです。
このチラッと見えるところに光沢があるのも、
いいでしょう?
着方は、全部ボタンを留め、ワンピースとして着るもよし、
すこし開けてコートっぽくも着るもよし、
ふわっと羽織るのもよし。
また、本当に軽いので、
パンツの中に入れちゃうこともできます。
ワイドパンツのときなど、いいですよ。
「えっ、入るの?」と思われるでしょうけれど、
ウエストから腰回りにかけて
ゆったりめのパンツなら入ります。
この薄さは、そんなふうにも活用できるんです。
ワンピースと同じ、
家庭で洗えるシルクを使ったブラウスです。
デザインのベースも同じ。
パンツに入れても、出しても着られるよう、
サイドにスリットを入れました。
前だけ入れて、後ろを出すような着方もいいですね。


ボタンはいちばん上が、
パリのクリニャンクールで見つけた
1960年代のヴィンテージ。
それを生かしたくて、第2ボタンから下は
比翼(生地でボタンが隠れる)デザインにしています。
色は上質感のあるアイボリー。
ジャケットを合わせてもかわいいですし、
もちろん1枚で着ていただいても。
色の選びかた? そんなに独特でしょうか。
たしかに思い切った色を選んでいるかもしれません。
じぶんではあまり意識をしていないんですが、
フランスに服づくりの勉強をしに行ったことが、
色彩の勉強にもなったのかもしれません。
そして伊藤さんも、わりとはっきりした色を
ポンと使いますよね。
私もその伊藤さんに影響されているのかもしれません。
saquiのあたらしいふたつの春夏のコート。 麻のかっこよさを、全面に。
岸山沙代子さんにききました。1
今回つくるsaquiのコートは、2着とも、
伊藤さんが「この生地、かわいい!」と
たくさんのサンプルのなかから
真っ先に反応してくださったリネンを使ったものです。
いずれも、春夏ものとはいえ、わりと地厚。
まずこちらの生成りの無地の素材については、
伊藤さん、すかさず
「これのトレンチが欲しい」って
おっしゃったんですよ。
伊藤さんからは、
それ以上のこまかな要望はなし。
そこからデザインをはじめたんですが、
実は、最初、デザイン画で描いていたのは襟付き。
じっさいにそれでパターンまで起こしました。
でもいざサンプルを仕立てようというとき、
「これじゃ地厚過ぎるぞ」と思い、
襟なしのデザインに変更をしたんです。
かなりの試行錯誤がありました。
なにしろ今回は、
このしっかりした生地を使うことが前提。
重ねて使う部分が増えて、厚くなれば、全体が重くなる。
かといって軽いリネンを使うと「ちゃち」に見えます。
そうは言っても、じっさいに着たとき、
重さを感じることはないと思うんですが、
長く気持ちよく着ていただくため、
すこしでも軽くしたいですし、
また、この生地は、ほんとうに価格が高いものなので、
じょうずに節約をして、
販売価格をおさえる必要もありました。
だから、端になる部分は切りっ放しにしたら?
と、いろいろ考えたんです。
袖の先や襟などは織り込んで縫うため、
厚い部分は4枚重ねになりますから、
どうしても厚く重くなってしまうんですね。
でも、その「切りっ放し」という選択は、
とてもファッショナブルな服ができあがり、
モードが好きな人にはきっと受け入れられても、
本当に幅広い年代の人に長く着てもらえるだろうか?
と考えました。
やはり、普通にちゃんと仕立てたほうがいい、
やっぱり縫い代は中に入れよう。
その解決策が「襟なし」というアイデアでした。
トレンチで襟がないということに
ちょっとびっくりされるかもしれませんが、
伊藤さんもノーカラーの服がお好きだし、
トレンチって、ちょっと暑い時期、
汗ばみはじめる5月、6月あたりにも着る。
そんなときに襟が汚れるのは嫌だなと思っていたので、
「そうだ、襟、取っちゃおう!」って。
そうしてできあがったこのコートは、
前身ごろはダブルの合わせ、共布のベルトつきと、
一見してトレンチとわかるスタイルでありながら、
襟がないこと、袖がボタンではなく
リボンになっていることなど、
saquiらしいデザイン、あそびのディテールを
たくさん入れた1着に仕上がりました。
このリボン、かわいいでしょう?
腰のベルトとあわせて3つのポイントがうまれるので、
襟元のすっきりした印象とバランスをとって、
トレンチといってもマニッシュではない、
上品なかわいらしさが演出できたと思います。
ボタンも、ふつうのトレンチだったら
第1ボタンをもっと下につけるところなんですが、
やや上に、そして第2ボタンよりも
ふたつのボタンの左右の間隔を広めにつけています。
素材は水牛で、マット仕上げの日本製のボタンです。
このコートは襟がないデザインなので、
あえて、ボタンに目を行かせることで、
バランスをとっているんですよ。
そして、首周りから胸へのふくらみ。
ここもこまかく調整をしました。
saquiの服はすべて立体裁断なのですけれど、
このコートは、かわいらしさだけではなく、
トレンチらしい「かっこよさ」が出るように、
ボタンを留めても、あけても、
さまになるようにパターンを引いています。
そして背中は、
いわゆるトレンチのベンチレーションではなく、
ちょっと長めのセンターベントを入れました。
裏地は背裏と袖につけていますから、
着やすく、脱ぎやすい。
シンプルに見えますけれど、
たくさんの工夫をこらしているコートなんです。
着方としては、もちろん全部留める着方もあれば、
上のボタンを2つぐらい外してもいいし、
全部外したままベルトだけを結ぶのもかわいいです。
そして、もう、何にでも合いますよ。
冬から春にかけては、
ウールのニットの上に着てもいい。
麻がオールシーズン着られる素材だということは
ずいぶん浸透してきましたから、
季節を問わず活用いただけたらと思います。
そして、このコート、これだけ厚地の麻なのに、
最初から硬い感じがしないのもうれしい特徴。
やはり、生地がいいからなんですね。
そして着ていくうちにますます柔らかくなって、
いい感じに育ちます。
この生地はイタリアの「Faliero Sarti」
(ファリエロ・サルティ)社のもの。
わたしはここの生地がとても好きで、
日本では使っているブランドが
たいへん少ないと聞きますが、
いま、saquiの服は8割方がサルティです。
この麻も、色の雰囲気、ちょっとネップがある感じ、
そして全体の上質感、いずれもサルティ社ならでは。
日本の生地屋さんが
「どうしたらこんな生地がつくれるんだろう?」と
驚くほどのものなんですよ。
立体裁断で、コートとしてのゆとりを入れ、
長めのつくりになっています。
サイズは36と38のふたつ。
えらぶときはご自身のお持ちのコートと
裄丈(首の下のタグ中央から、片袖までの長さ)で
比べていただければと思います。
コートは、もう1着あります。
こちらは、リネン81%、コットン19%、
撚りが目で見えるような質感のある太い糸を使い、
ランダムな波形のボーダー柄の入った、
たいへんニュアンスのある織物でつくった、
saquiの定番のかたちのコートです。
これも、サンプルの段階で、わたしと伊藤さんが
「一目ぼれ」をした「Faliero Sarti」社の生地。
これもまた「どうやってつくったんだろう?」と
不思議になるくらいのクオリティです。
Sarti社のいちばん得意とする
高級カジュアルという分野のもので、
こういうニュアンスのものって
日本にはないものなんですね。
生地からかたちを考えるのが
saquiのやりかたなんですけれど、
この服に関しては、この厚さをいかすには、
ジャケットかコートだな、と、まず、思いました。
そして波形のボーダーがすごく強い印象の生地なので、
シンプルなコートにしよう、と決めました。
定番、と言いましたが、
これはsaquiでとても好評をいただいていて、
もう何百着つくったかわからない、
ウールのコートのパターンをもとにしています。
もちろんそのままではなく、
ポッケを箱ポッケにしたり、
前はスナップではなくジップにしたりと
アレンジをしています。
パターンですが、一見なんでもないようでいて、
こまかく切り替えてダーツを入れた立体裁断です。
ダーツを入れることで、
たとえば裾がちょっとだけスリムになって、
着た時の印象がうつくしい。
紺の総裏をつけていますから、
するりと着られてきもちがいいですよ。
この生地、本当にシワが出ないので、
旅行にもとてもべんりです。
ジップはスイスの
「riri」(リリ)社のものを使っています。
光沢、色、かたちのうつくしさ、
どれをとってもすばらしいジップで、
パリ・コレクションのメゾンが
こぞって使うほどのメーカー。
ririのジップだと、「あえて、見せる」ことができる、
そのくらいきれいなんですよ。
実用品でありながらアクセサリーといってもいい
レベルのものだと思っています。
saqui 春の服
春の服。
もうすぐ2月。
毎年、この時期になると
少しずつ気になってくるのが春の服。
寒い日々にもちょっぴり飽きて、
気持ちだけでも春に向きたい。
重いコートを脱いで、
軽やかに歩きたい。
そんな気分になるのです。
今週のweeksdaysは、
お待ちかね、saquiの春の服を紹介します。
デザイナーの岸山さんが惚れ込んでいる
Faliero Sartiの生地を使ったコートが2着。
シルクのブラウスとワンピース、
それからハリのある素材で作られたブラウスの全部で5着。
シンプルでありながら、
じつはパターンや素材使いに、
saquiらしい小技がたっぷり効いていて、
袖を通すと、さすがだなと思わせるものばかり。
お届けは3月下旬~4月上旬頃。
明日からの商品説明をじっくり読んで、
春の洋服計画を練ってくださいね。
あたためたい。
からだをあたためる。
そう、私も断固あたためたい。
と常日頃思っている、冷え性の女だ。
そんでもって、女だてらにコーヒーの焙煎家である。
コーヒーの専門家である以上、
コーヒーがあたためる方向で書きたいのだが、
残念ながらコーヒーはからだをあたためたりしない。
30歳を過ぎるまでの自分は不死身だと思っていた。
会社役員という立場にありながら、
仕事はチャランポラン、部屋は廃墟、
宵越しの銭は持たない。
そう株式会社オオカミのスチャラカ社員の名を
欲しいままにしてきたにもかかわらず、
今日まで会社に置いてもらえているのは、
弊社社長の慈悲と、
案外、身体が丈夫だったことに尽きる。
それが、厄年を終えた頃から、まったく頑張れない。
いつもと変わらない毎日が辛くて仕方ない。
お客さんに笑顔で接することができない。
年中風邪をひき、鎮痛剤を毎日飲んでいた。
埃だらけの部屋でその埃とよろしく、
いつの間にか死んでいる自分を、想像してぞっとした。
何よりも健康が欲しい。
そういえば、体が冷たい。
あたためたい。
と願って、私財をなげうってきた。
もうぜーんぶ今話題のなんとか健康法は
すべてやってきたけれど、私の体温は低いままだ。
なんて不幸なんだ。
何もかも上手くいかないのは全部体が冷えてるせいだ。
そんな時、お客さんから薦められた本で、
「毎日、朝、運動をし、
ご飯1たんぱく質1野菜2を食べて12時までに寝る」
とあった。
なんだか普通過ぎるけど、
どんな健康法より効果的だった。
まず、わけのわからない情緒不安定がなくなり、
快活になった。
遅刻もあんまりしなくなった。
フランス映画に代表されるような、
ミステリアスなぶっ飛んだ女
(主にジュリエット・ビノシュの演じるような)は、
絶対、野菜食ってないし、寝ていない。
実際、映画のどこを観ても、
彼女は規則正しい生活なんか送っていない。
突然泣きながら夜中のパリを走り出すという奇怪な行動は、
慢性的な野菜不足、不眠、
運動不足によるヒステリーである。
彼女はミステリアスな女じゃない。
ただの冷え性の女である。
思春期の頃「女子は、冷やしてはならぬ。畑なんだから。」
という、スーパー差別的な田舎の言い伝えを、
「L.A.M.F.‥‥」(注▶意味はお調べください)
と書かれたTシャツを着て、
中指を立てながら聞き流していた。
無論、ヘソも出していた。
時代錯誤な性差別に抗うように冷やしまくった。
私の身体及び子宮は私だけのものだ。
誰かに用途を指図される覚えはない。
くだらない時代錯誤を一蹴し、
充実した毎日を送り、自分の人生を獲得したかった。
そうか、わたしは要するにしあわせになりたい。
ということなんだな。
ロックンロールに、うつつを抜かしていたころから
ずっとしあわせになりたかった。
他の誰のものでもないしあわせ。
というやつは、驚くほど素朴で
地道なものによって支えられている。
そして、今日も毎日激しく
自分の身体をあたためまくっている、
日本のたくさんの女性たちもまた、
そのために冷えと闘っているのかもしれない。
露天風呂
我が家の風呂場は、狭い庭を降りた軒下に
洗い場があるだけの露天で、
Sちゃんが引越しのとき譲ってくれた、
排水栓のついた金盥を深くしたようなものを、
湯槽に代用している。
三年前、生家の寺に家族(妻と息子二人)で帰り、
ずっと空屋で傷んでいた築百年余りの借家を
住めるように改装した。
シロアリが柱という柱に巣食っていたので、
基礎を直すのに予想外の出費があった。
だから、浴室を設ける予算が尽きてしまったのだ。
余談だが、駆除業者のお兄さんから、
シロアリは家に振動があると
寄りつかないのだと教えられた。
どおりで老父母だけで暮らしていた寺は、
本堂や庫裡にシロアリ被害が見られ、
日常の振動が少なかったと見える。
われわれ家族が、寺へ戻る決意を固めたのは
シロアリのためだった。
一家四人が帰れば、六歳と二歳の兄弟が、
建物の隅々まで振動を与えてくれることは間違いない。
つまり、子どもが走り回れば
シロアリたちも退散するだろう。
金盥のようなものと書いたが、
じつは農家で使うブリキの米櫃で、
Sちゃんがアパート暮らしで、
すでに湯槽として使っていた。
アパートを引き払うとき、
もう不要だというので妻がもらってきた。
露天の洗い場に置いたら、ちょうどいいサイズで、
はじめの頃は、六歳と二歳の兄弟と
わたしが湯槽に浸かることができた。
小さな兄弟が入ったところに、
わたしが浸かるのだから座るのもやっとのこと、
座ると同時に湯が溢れでた。
露天に身体を屈して湯に浸り、
子どもの声と雨の音を聞いたりしていた。
秋が深まると、洗い場で体を洗っているともう肌寒く、
泡を流して少しでも長く湯槽に浸っていたい。
子も同じと見えて、体もろくすっぽ洗わず、
わたしがゆったり座った膝の上に割り込んでくる。
父子三人が湯槽に身を寄せる写真を
妻に撮ってもらったが、
温泉に浸かった下北のニホンザルのような塩梅であった。
最初の冬がやってきたのは、三年前の十二月下旬だったか。
おそらく冬にかけて、この露天風呂は寒くて使えまい、
というのがわれわれ家族の予測であった。
ところが、ある寒い朝、
どうしても早起きをして仕事をしなければならず、
起きてすぐに体を温めたかった。
ふと、風呂に湯を張って浸かろうと考えた。
蛇口をひねって五分もあれば、
体を沈めて溢れないほどに湯は満たされる。
狭い庭にもうもうと湯煙が立つ。
裸電球の下、ひとり湯槽に浸かって、
屋根と板塀に区切られた三角形の空をのぞくと、
次第に紫紺という色に夜が明けはじめていた。
街中に住むというのに、
遠い山里へ湯治にでも来たような気分がして、
体も温まった。
露天風呂も四年目を迎えようとして、
新たに浴室を作る兆しは一向にない。
さすがに三人一緒に浸かることは出来なくなった。
今では、九歳になった長男が、冬の朝など、
眠い目をこすって朝風呂しているときがある。
息子は三角形の寒空を眺めて、
さて何を思っているのだろう。
チェコのカムナ。
チェコというと、「寒いんでしょう?」と
まるで極寒の地のように勘違いされることがあるけれど、
わたしの住むプラハにかぎって言えば、そんなことはない。
もちろん凍ったブルタヴァ川越しに見るプラハ城の眺めは
寒さを忘れるほどの美しさではあるのだけれど、
そんなことも最近ではごく稀。
プラハでは、雪が積もっても
根雪になることは滅多にないのだ。
25年ほど前、ここに暮らし始めた当初は、
冬の石畳は冷たく、
寒がりのわたしは紐靴の穴からすら冷気を感じたりもした。
最低気温がマイナス10度を下回る日もあり、
街ではマダムたちが毛皮のコートに身を包んでいる。
わたしも下着をすべてシルクで
揃えたりしたこともあったけれど、
やがて慣れてくるにつれ、
湿気のない寒さは防寒しやすいことを理解し、
今では湿気の多い日本の冬より
格段に過ごしやすいと思うほどだ。
なにより家の中は24時間いつでもポカポカ。
さすがに石炭によるセントラルヒーティングは
環境問題から廃止の方向にあるとはいえ、
温水をラジエーターに送り住まい全体を暖めるという
暖房システムが主流なことに変わりはなく、
この方式だと、居室も全体の空気がじんわりと暖まり、
局所的に寒かったり、暑すぎるということはない。
この快適な暖のとり方を経験して以来、
送風系の暖房はすっかり苦手になってしまった。
ただ、残念なことに今のアパートはこれではなく、
古いタイプのガスヒーターである。
それでも冬の部屋をいつも暖かに保つことはできるし、
ドライフルーツをつくるのには最適だ。
ヒーターのそばに、厚めにカットしたフルーツ
(たとえば、りんご)をざるに並べて置いておくと、
1週間もすればみごとなドライフルーツができる。
これをガラス瓶や友人のつくった器に盛って
食卓に置いておくのがわたしの冬の楽しみだ。
と、いまのチェコはそんなふうだけれど、
じつはこの国では「カムナ」という竃(かまど)が
長い歴史のなかで使われてきた。
家の中にしつらえて、調理から暖房まで、
必要な火力をこれでまかなうおおきな器具である。
竃だから一年中使うものなのだけれど、
冬には竃・兼・暖炉にもなる。
いや、冬はむしろ
暖炉・兼・竃と言ったほうがいいかもしれない。
わたしがカムナと出会ったのは、
プラハに住み始めて間もない頃。
友人の誘いで
モラビアの田舎家で夏休みを過ごしたときのことだ。
列車を乗り継いで着いたのは南モラビアの小さな村。
普段は誰も住んでいないという一軒家はとても古く、
まずは窓を開けてホコリを払い、井戸で水を汲み、
ロウソクを用意して‥‥。
そう、ここの家には電気もガスも、水道もない。
水は井戸から、照明はランプかロウソク、
そして料理はカムナを使ってつくるのだという。
お伽話にでてくるようなこんな家では、
冬はカムナのすぐ脇に寝床をつくったり、
煙突の這わせ方で家中の暖房を担ったりと、
その役割は様々だと知った。
竃には、薪をくべる口、灰をためる引き出し、
そして調理用のオーブンのドアがあった。
トップ(天板)は鉄製の一枚板で、
どこに鍋を置くもよし。
薪をくべるところに近ければ火力が強く、
遠ければ弱火での調理が可能。
この時は、夏とはいえ夜になると冷え込んだので、
一日中弱めに火を炊いて、
洗濯できるくらいの大鍋
(チェコではシーツを洗ったり、保存食をつくるための
巨大な鍋が各家庭に必ず常備されている)に
お湯を常に沸かし、ついでに暖もとるという使い方だった。
薄暗いキッチンに入ると、大鍋から湯気がたち、
焚き口の窓からはチラチラと炎が揺れて見えた。
完全に一目惚れだった。
「いいな、いいな」と思いつつ、
街のアパート暮らしではカムナを使うのは夢のまた夢。
カムナを使うにはそれなりの規模の部屋、
というか一軒家が必要である。
‥‥と、あきらめていたのだけれど、
昨年、ひょんなご縁でカムナをつくる会社から取材を受け、
またしても自分の中の
カムナへの想いが強くなってしまった。
そう、わたしにとってカムナは
まるで望郷のような憧れなのである。
そういえば、昔から薪をくべるのが好きだった。
アウトドアの焚き火やバーベキューではなく、
家の中の薪ストーブである。
子供の頃から実家のお風呂が薪窯だったことが
そもそもの始まりで、
東京で借り住まいをしていたころは
火鉢を使っていたこともある。
ガラスや焼きものに惹かれたのも
窯を使う仕事だったからなのか。
今でもストーブを見たら、
薪をくべたくてうずうずしてしまう。
なーんて言うとちょっと危ない人のようだけれど、
わたしのこの趣味は、
仲の良かった父親が消防士だったということと、
今となっては
不思議と繋がっているような気もするのである。
cohanのウールのはらまき
スープにブランケット、それから──。
冬本番。
自分を取りまくものすべてが、
キーンと冷たくなったよう。
自然と体も縮こまりがちになります。
時おり感じるあたたかい日差しに、
少しだけ春を感じるものの、
まだまだ寒い日は続きます。
この時期、油断は大敵。
きちんと体をあたためて、
体をのびのびさせてあげないといけません。
スープにブランケット、それからはらまき。
私の冬の寒さ対策はこの3つ。
今回、weeksdaysは、
しっとりとやわらか、
肌にすいつくような着心地の
ウールのはらまきを紹介します。
不思議なことに、
お腹まわりに、このはらまきがあるとないのとでは
あたたかさは段違い。
上に着るものが一枚減るくらいの威力です。
薄手でしなやか。
つけると体がゆるまっていく。
春が来るまで、
毎日一緒にいたい、
外でも、家でぬくぬくしている時も、
眠る時も。
そんなはらまきです。
再入荷のおしらせ
完売しておりましたアイテムの、再入荷のおしらせです。
1月17日(木)午前11時より、以下の商品について、
「weeksdays」にて追加販売をおこないます。
シルバーバッグ
販売開始後、あっという間に完売した
weeksdaysオリジナルの
シルバーのトートバッグ、
ようやく追加生産のはこびとなりました。
このトートは、「weeksdays」で紹介している
「おおきな革のトートバッグ」の、
底辺の面積はかえずに、
背をぎゅっとちぢめたようなかたち。
バゲットや、ワインの瓶がすっぽり入りそうな、
ちょっとふしぎな横長です。
使っているのは牛革。
表面に銀色の箔を貼る加工を施しています。
最初はピカピカに光っていますが、
徐々に光沢がよわく、
箔には傷がすこしずつ付いていきます。
「ファスナーがないので、
『中に入れるものが見えてしまうのでは?』
と思われる方もいるかもしれませんが、
そこは腕の見せどころ。
スカーフなどを目隠しにして、
コーディネートをたのしんでみてください」
(伊藤まさこさん)
150個の入荷です。どうぞご検討くださいね。
ガラスのうつわ(大・中・小)
いちばん最初に考えたのは、3つのうちで
いちばん小さな「小」のかたち。
これは、フランス・スペイン国境にひろがるバスク地方で、
チャコリというお酒を飲んだり、
ワインを入れたりと日常的に使われている
「ボデガ」というグラスのかたちをモチーフに、
伊藤まさこさんがプロデュースしたものでした。
これをもとに、高さをかえず、底の面積を拡げることで
つくったのが「中」と「大」のかたち。
「小」は、薄手ですが、「中」と「大」は
耐久性を考慮して、ほんのすこし厚手につくっています。
「小はグラスとしても器としても。
中・大はサラダやフルーツ、
ヨーグルトにグラノーラ‥‥と
いろいろ活躍しそうです」
(伊藤まさこさん)
製作を担当したのは、
大正11年創業のガラス工場である
松徳(しょうとく)硝子。
成形のため最初に金型を使いますが、
その工程のほとんどが手作業。
熟練の職人さんが1点ずつ仕上げている、
手づくりガラスなんです。
スタッキングして収納できるところも優秀!
ぜひ、揃いでつかっていただきたいうつわです。
ガラスのコップ
この「ガラスのコップ」は、
「weeksdays」のための、松徳硝子のオリジナル。
伊藤まさこさんから、食事の前にちょっとだけ
ビールをたしなむようなちっちゃなコップがほしい、
というリクエストでつくられたものです。
原型となったのは、松徳硝子の大ヒット商品である
「うすはり」。ふちだけでなく、底までうすい、
とくべつな技術をつかってつくられたものです。
かたちは、いかにも「コップ」という語感にふさわしい、
かわいい印象。
「もちろんビールだけにかぎらず、
入れるものはあなたの自由。
水でも、ジュースでも、つめたいお茶でも。
いつもの飲みものも、
グラスが変わると味わいも変わって感じるもの。
器ってすごいなぁと思うのは、
こんな瞬間です」
(伊藤まさこさん)
ニューヨークに住むということ。
- 伊藤
- ニューヨークでの暮らしのこと、
もうすこしお聞きしてもいいですか。
この集合住宅、とても住みやすそうですね。
あっ、いま、上階でなにか音がしました。
- 矢野
- 上の階の人、かなりのお年のカップルです。
このへんの歴史を全部知っているような、
タウンヒストリアンって人なんです。
私がここに来た頃はまだバリバリ現役な感じだったのが、
だいぶ年を取ってきて、
おばあちゃんがウォーカーでないと歩けないので
カーペットを全部取っちゃったんです。
だからすごく音が聞こえるの。
でも音が聞こえると、
あ、今日もお元気なんだな、って思える。
このアパートは、当時からは半分くらい
住人が入れ替わっちゃったけれど、
いろんな人たちがいるから、
交流会があるんです。
掲示板に貼ってありますけど、
年に2回ね、みんなでご飯持ち寄って、
中庭でテーブル出して、ごはんを食べる。
3分の1ぐらいがゲイのカップルかな。
男性よりも女性のカップルが多い。
いちばん仲が良かった女性のカップルは、
この前引っ越ししちゃったけれど。
- 伊藤
- 皆さん楽しく参加されるんですか?
- 矢野
- そうですね。
- 伊藤
- へえー。とってもいいですね。
- 矢野
- ここは70年代からのアパートなんですが、
ビルディング自体は1900年に建ってるんです、
もともと工場だったのかな。
その後、倉庫になり、
75年に住宅用に改造して、
その当時から住んでる人もいます。
やっぱりそういう古い人がいると、
ビルディングのキャラクターっていうのかな、
そういうのが出ますよね。
年寄りたちはみんなで
「どこのユニットの下の子は今度小学校だ」
とか、よく知ってるんです。
- 伊藤
- 素敵。
時差以外は、お仕事、しやすいですか?
ニューヨーク。
- 矢野
- ものをつくる人間には、
とてもいいところだと思いますね。
やっぱり厳しいから。
- 伊藤
- 厳しいから。
- 矢野
- 誰も甘やかさないし。
日本だったら荷物を誰かが持ってくれるし、
とかあるけれど、
ここは全然そういうのないでしょう?
「はじめまして」って言ったら
「キミ、何してるの?」
「ピアノ弾いて、歌を歌ってます」
「ああ、ほんと。へえ。‥‥それで?」
という感じでしょ?
それでいいわけだし、
結局どういう人間かっていうのは、
どういうものをつくってるかっていうので
判断されるので。
- 伊藤
- たしかに厳しい。
- 矢野
- 街にもね、娘(美雨さん)が、
あの子はニューヨークで育ってるので、
「次の角曲がったら何があるかなっていう、
期待というか、ワクワクする何かが、
東京には全然ないんだよ」って。
それに、日本で仕事をし出したとき、
着るものをみんながきれいにしてるなかで、
自分だけGAPのジーンズとTシャツで
いいってわけにいかないって。
でもニューヨークに来ると全然それでいいし、
それで街を歩きたいと思う、って。
- 伊藤
- 確かにいろんな肌の人がいますし、
街並みもおっしゃるとおりですね。
「あの角の先何があるかな」って思います。
- 矢野
- 行ってみたいな、って、ね。
- 伊藤
- こちらの友人が「よく歩くよ」って。
- 矢野
- そう、歩きます!
東京にはニューヨークのような
歩く楽しみは少ないと思います。
- 伊藤
- 歩くのは移動のためか、健康のためかで、
街と街は面白いけど、
その間は、確かにそうですね。
- 矢野
- ひとつひとつの地域が
あるキャラクターを持っている街、
っていうのも、少ないですしね。
東京では、高いお店とかカッコいいお店が
並んでる街なら、
ウインドウを眺めるには楽しいだろうし、
暇つぶしにはいいかもしれないけども、
「今日は時間があるからあそこを歩いてみよう」
っていうことを、東京ではあんまり思わないですね。
たとえばグリニッジ・ヴィレッジなんかには、
古くからやってる、おじいちゃんのお店とか、
昔からあるレストランとかが残っている。
ソーホーなんかも、朝早くが、すごくいいんですよ。
随分少なくなりましたけど、7時とか8時、
おばあちゃんたちが打ち水してたりとか、
そういうのが残ってるんですね。
- 伊藤
- なんだかいいな、
「角を曲がるのが楽しくなる」。
東京は大きな商業施設が多くなり、
またビルができたんだと思うと、
同じような店が入っていたりします。
- 矢野
- それは、マンハッタンも同じですけどね。
新しくできるものは奇をてらったビルディングか、
ドラッグストアがまたできたとか、
またネイルショップだね、みたいな(笑)。
それでも、まだ、
歴史を楽しむっていう感覚はありますね。
- 伊藤
- 今回も、ぶらぶらしていたら、
ジューイッシュの人たちが、
お祭りだからって正装して歩いているとか、
そんな風景に出くわしたりしました。
- ──
- いろんな人がいるから、
オランダみたいに「みんなでっかい!」
っていう感じでもないですし。
- 矢野
- いろんな人種がニューヨークにいて、
みんなが共存できる街です。
その人たちがみんな違う考え方を持っていて、
でも「ああ、そうなんだ」って
お互いを尊重し合う人たちが
それぞれ地下鉄に乗っている。
その面白さっていうのはありますね。
‥‥ふう、おなかいっぱいになりました。
とっても美味しかった!
ありがとうございます。
- 伊藤
- こちらこそありがとうございました。
あの、残った食材、置いていってもいいですか?
- 矢野
- もちろん!
残ったスープももらっていい?
冷凍して、少しずつ食べます。
- 伊藤
- わあ、うれしい。ぜひそうしてください。
また東京か、ニューヨークか、
どこかでお目にかかれますように。
- 矢野
- ほんとうにありがとう。
ニューヨーク、楽しんでいってくださいね。
-
お会いして。
伊藤まさこ
メニューは、
茹で鶏のねぎソース、
香菜サラダ、
きくらげの和えもの、
鶏スープの煮麺。きっと緊張するだろうから、
作り慣れていて、
でもしみじみおいしいものにしようと、
日本を出る前から思っていたのでした。それにしてもすばらしかったのは、
グリーンマーケットで買った鶏で取ったスープ。
すっきりしていて滋味深い。
お腹の底からあったまる。
煮麺にしてもまだたっぷりあまっていたので、
さてどうしようかと思っていたら、
「これ、冷凍しておく」と言って、
ふたつの保存容器にささっと分けた矢野さん。後日、おいしそうな写真とともに
こんなメッセージが届きました。「チキンの茹で汁でリークを煮ました。
いつもはパックになっている
スープストックを使っているのですが、
これは香りからして違います!
本当においしい。
ここまで命をしっかりいただけてうれしいです」好きな人に、
自分の作ったごはんを「おいしい」と言ってもらえるのは、
とてもうれしいこと。
食べることも好きだけれど、
そうか私は、
おいしいって言ってもらえるのが大好きなんだ。
おいしいねって言い合える人たちと、
いつもおいしいものを食べていたい。
それは豪華じゃなくてよくって、
ふつうのもの。
お腹の底からあったまる、
たとえば湯気の立ったスープのようなものを。
はじめてのアッコちゃん。
- 伊藤
- 矢野さんは、基本的にピアノと歌ですよね。
ピアノだけの矢野さんって、
ライブとかだと聴けたりするけれども。
ピアノだけのCDはないんですね。
- 矢野
- 1枚だけ、昔、QUEENというバンドの曲を
インストゥルメンタルで演奏するというアルバムで
ピアノを弾きました。私名義じゃないけれど。
それはその当時結婚していた
矢野誠っていう夫が依頼された仕事なんです。
彼は天才的にオーケストレーションがうまいのね。
いまは、コンサートで、
1曲ぐらいはインストゥルメンタルで
やることもなくはないですけれどね。
- 伊藤
- でもやっぱり私は、
「はじめての矢野顕子」が
『春咲小紅』だったから、
歌の印象が強いかな。
みんなそうじゃないかしら。
武井さんもファンだということですが、
「はじめてのアッコちゃん」は何でした?
- ──
- ぼくは『ごはんができたよ』のシングルです。
中学生だったかな、
ラジオでチラッとさわりだけ聴いて、衝撃を受けて、
何だか分からないけどすごいものだと思って、
音楽雑誌で調べたんです。
でも「顕子」が読めなくて、
顕微鏡の顕だからケンコ? って、
河合楽器に行って
「矢野ケンコありますか」
「ああ、それはアキコですね」って。
- 矢野
- (笑)清水のミッちゃんは、
矢野顕子のLPを注文したら、
和田アキ子さんのLPが来たって(笑)。
- 一同
- (笑)
- 伊藤
- 面白い人には面白いことが起こるんですね(笑)。
- 矢野
- 自分の歌とどこで誰が
どういう出会いをしてるかっていうのは、
もうかなり膨大にあると思うのだけれど、
長くやってると、
それが私のところに届くことは、ほとんどないんです。
志の輔さんが「相馬で気仙沼さんま寄席」のとき、
私が行きたくて行くことにしたら、
シークレットゲストで登場することになって、
本番前に志の輔さんにご挨拶をしたんですね。
私も落語を生で聞くのが初めてだったから
すごく期待して。
最初、志の輔さんの創作落語で
現代のお話みたいのがあって、
それから休憩があって、
糸井さんと志の輔さんがお話をして、
「そう言えばさ、客席に矢野顕子がいるらしいよ」
というので私が客席から出ていったんです。
そこになぜかシンセサイザーが用意されていて(笑)、
『ひとつだけ』と『ごはんができたよ』、
2曲をやったんですね。
その時は、もちろん落語に来ているお客さまだから、
「はじめての矢野顕子」ですよね。
だから分かりやすい曲を。
そのあいだに志の輔さんには次の準備をしていただいて、
出てきたら、何だかヨロヨロしてる。
おっしゃるのは、
「もう今どうしていいか分からないですよ、
次、何をやるかも結局決められないで、
今、私は出てきちゃったんですよ」って。
みんな、それもネタだと思うじゃない?
私もそう思ってたんですけど、違ってて、
『ごはんができたよ』を私がやって、
それが楽屋でスピーカーから流れた時、
「あっ」と手が止まっちゃったんだそうです。
35年前ですか、彼がサラリーマンを続けるか、
思い切って辞めて落語家になるか、
すごく迷っていた時期に、
私の『ごはんができたよ』のLPを、
家で毎日毎日聴いてたんですって。
- 一同
- へえー!
- 矢野
- それが流れてきちゃったものだから、
予期せず、その頃の自分に返っちゃったんですって。
でもそのあと『柳田格之進』という、
大ネタをなさったんですが、
ほんとうに素晴らしかった。
私が初めてというのもあるんですけど、
その日はやっぱりすごかったって、糸井さんも言ってた。
そんなふうにね、どこでどういうふうに
人が経験しているかっていうのを、
知る機会があるというのは、嬉しいんですよ。
「志の輔さん、そんな出会いをしてくださってたのね」と、
すごくそれが印象的でした。
- 伊藤
- みんな、マイ・アッコちゃん・ストーリーを、
持っていると思うんですよ。
- 矢野
- ファンの方はね、それぞれね。
- 伊藤
- もう、みんなで語りたいもの(笑)、
さきほどおっしゃったような、
ご自身が変わったなって自覚されたのは、
いつごろですか?
- 矢野
- ターニングポイントは、
『ごはんができたよ』のレコードですね。
あのあたりで、何が原因だったのか、
すごく変わりました。
自分の音楽が、ちゃんと外を向いたっていうか。
それまではほんとにただの音楽オタクみたいな感じで。
- 伊藤
- そうか。自分の中だけで完結してるのと、
外に向くのって、全然違いますよね。
- 矢野
- 違いますね。
それこそ自分で美味しい料理をつくって
「ああ、美味しい」って言った時、
自分はいたって満足だけども、
お腹を空かせてる人たちの中で
「はい、どうぞ」って出して、
みんなが美味しいって言ってくれたら、
その時はたとえ自分が食べなくても、
嬉しいですもんね。
- 伊藤
- 確かに、つくったものを喜んでもらえる、
っていうのは嬉しいですね。ご飯にしても。
- 矢野
- 自分でつくって自分で食べてるっていうのは、
確かにそこで完結してるけれども、
次の日も自分でつくらなくたって別にいいし、
まずいものつくっちゃったらそれはそれでしょうがない、
みたいなところもあるものね。
でも他の人のために、
あるいは他の人と一緒に
食べるためにつくるっていうことは、
「美味しかったね、ご馳走様」って言われたら、
次またつくろうって、次に繋がっていく、
そういう原動力を持っている。
- 伊藤
- ほんとうに、そうです。
- 矢野
- 音楽も自分1人でやってて、
たまにものすごーく、よくて、
1時間ぐらい続けてバーッと演奏して、
ああ面白かった! ってまわりを見たら、
「あら? お客さんいないんだわ」。
- 一同
- (笑)
- 矢野
- みたいな時もあれば、
ステージであまりに集中しすぎて、
「あら? お客さんいたの?」みたいなことも。
- 伊藤
- すごーい(笑)。
- 矢野
- どちらも、基本はやっぱり
自分の中から出てくるものであって、
自分が面白くなければ、
つまり自分が美味しいと思わないものは、
人には出せないですよね。
同じことじゃないかな。
- 伊藤
- そうですね。
その「あれ? お客さんいない」っていう時と、
「あっ、お客さんがいるんだった」いう時、
どう違うんですか。
どっちがいいとかではなくて?
- 矢野
- うーんとね、
どっちがいい、じゃなくて、
基本は同じですけれども、
そこにやっぱり食べさせる人がいる、
つまり、聴く人がいるならば、
そこに親切っていうかね、
食べやすいようにするとか、
大きなお肉はほぐしておくとか、
ありますよね。
音楽も、何らかの点で
聴きやすい要素みたいなのが
あるかもしれないと思います。
自分1人の場合は、そういうことはお構いなしなので、
中から出てくるものだけで十分楽しい、みたいなね。
- 伊藤
- 自分がすごく美味しいと思う味は、
人にも食べさせたい。
ところが自分が美味しいと思ってるのに、
それを美味しいと思わない人も当然いる。
音楽でも同じことがあると思うんですが、
そういう時ってどうしますか?
- 矢野
- 「気にしない」ですね。
- 伊藤
- 気にしない!
- 矢野
- 私、基本はそれなんですよ。
売れない、そして人に受け入れられない、
そういう音楽なんです。
そこから出発してるから、
そういうことがあっても、全然平気ですよ。
- 伊藤
- 先日、糸井さんと話してて
すごく印象的だったのが、
「伊藤さん、とらやでね、
伊藤さんが考えたすっごい特別なお菓子を
特注でつくるのは、おそらく『できる』よね。
でも、それじゃなくて、
みんなが食べる安い
チューインガムをつくるっていうことも、
考えてみれば?」という言葉でした。
わたしは「とらや」方向だったので、
なるほど! と思って。
- ──
- インスタントラーメンや
チューインガムは難しいですよね。
- 伊藤
- いろんな人に好まれて、
かつ安い値段で、
しかも売れ続けないとダメだし。





