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2018-05-24

おしらせ

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・どんなふうにでもいいから、
 とにかく「南無阿弥陀仏」と唱えさせすれば、
 極楽往生できるんだよ、という教えは、ほんとにすごい。
 条件なんかつけず、資格も問わない。
 浅学であるがゆえかもしれないけれど、
 これ以上の大きな容れ物を、ぼくは知らない。
 悪人であれ、不信心者であれ、どうぞどうぞと招かれる。
 逆に、善人やら熱く信心するものは後回しになるという。

 とても、冷たくひねくれた考えをすれば、
 「極楽往生」というのは、死そのものでもあるから、
 そりゃぁ、だれも行けるに決まっている。
 それを「いいところに行ける」からうれしいと思うのは、
 当人の主観である。
 その主観について「それでいいのだ」と言われたら、
 もう、それ以上のことはない。
 あらゆる主観が、御仏のお考えと一致したのだ。

 後に、戦国時代と名付けられてしまったある時代に、
 こんな、とんでもないアイディアを思いついた人がいた。
 人間の考える力というのは、すごいものだなぁ。
 このアイディアについて「そうかぁ」と思う人がいたら、
 世の中に、「希望のかけら」がばらまかれる。

 希望なんかで腹いっぱいにならない、
 希望なんかで、寒さはしのげない。
 希望なんかで痛みはとれやしない。
 希望なんかで、亡くなった人は帰ってこない。
 希望なんかで、戦は終わらない。
 そうかもしれないけれど、そういうものでもない。
 どっちなんだ、どっちでもない。
 希望は、主観だ思いこみだ目にも見えない。
 しかし、どうにも、希望を持っている者は、
 なんだかうらやましく見られるのだ。
 その小さなちがいを、あると思うかないと思うか。
 戦国の時代に生きていても、
 その小さな光を胸に灯せるかと、じぶんに問う。
 問うこともない「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、と。
 おもしろいことを考えた人がいるもんだ。
 いちばん大きな容れものを想像したのだろうな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんか、坊さんじゃないままそういうことを考えたくなる。


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