ほぼ日WEB新書シリーズ
人を表現するのに、
天才だの達人だの鬼だの名人だのという
冠になるような言葉があるのだけれど、
米原万里さんのような人は、
どう言われるのだろうか。
高等数学の記号を扱うような
細密さで言葉をあつかい、
しかも笑顔のような見えない言葉も見逃さない。
米原さんの本を読んでいたら、
すごい人だなぁということはわかるのだけれど、
じかにお会いして、正直言って、ぼくは圧倒された。
こういう人に会うのは、初めてのことだった。
米原さんの冠が、
天才なのか達人なのかわからないけれど、
数十年後にも確実に残っている人なんだろうなぁ
ということは、つくづく思った。
そんなぼくのショックが、
伝わってくれたら、おもしろいんだけど。
────糸井重里
第6回
どれだけ自分を殺せるか
糸井 人の話を伝えることに関して
ぼくがよく思うのは、
「カギカッコの中は触っちゃいけない」
ということなんです。

野球の選手がよく言うんですけど、
今だと、例が思い浮かばないんですが、
ちょっと昔に水野というピッチャーが
巨人に、いたんですね。

その人は「阿波の金太郎」と
呼ばれていた人で、四国の田舎の子なんです。
そうすると、新聞記者の取材に対して、
どんなに丁寧に答えても、翌日の紙面では、
「ワシは‥‥」って言葉で報じられるんです。

水野さん本人に会うと、
「俺は、『ワシ』なんて言ってない!」
と言うんです。

広島の選手だと「じゃけえ」だとか‥‥
言ってないセリフまわしを、
スポーツ記者が、勝手に入れるわけですよね。
つまり、読みたい人に合わせている。

清原だって「ワシ」って言ってないんです。
だいたい、「ぼく」って言っているんですよ。

ぼくは、人のイメージに
勝手に合わされちゃう、ということに関しては
「カギカッコをとればいいんだけど、
 カギカッコの中のセリフをいじることは、
 本当は、いけないよなぁ」
って言っているんですけど。
米原 ただ、通訳の場合には、もとの言語が
他の人にはわかんないじゃないですか。

一人称についていえば、日本語は
「私」とか「あたし」とか「あたい」とか
「わし」とか「おれ」とか「僕」とか、
大量にあるけれども、英語だとかは、
一人称単数は基本的に1つですよね。
複数も1つですし。

そうすると、それをどう訳すかは
翻訳次第なんですよ。その選択は難しいです。
糸井 その人の価値体系みたいなものを、
ある程度、把握しない限りは、できないですね。
米原 できないですね。
でも、通訳がつく場合は
だいたいが、公の席ですから、
だから、普通は「わたし」ですね。
いきなり「ぼく」なんて言ったら変でしょう?
糸井 じゃあ、ポピュラリティーのある
ロックスターだとか
野球の選手だとかのときは困りますね。
米原 そうですね。
それで、通訳の場合、
記者のような「カギカッコ」って、ないんですよ。
つまり、透明人間にならなくちゃいけないから、
「存在しないこと」になるんです。
糸井 「地の文」がないわけですね。
米原 そう、地の文がない。
「彼はこういっている」
と言っちゃいけないのが、翻訳なんです。
「彼」はなくて、そのまますぐ「私は」になる。
糸井 嫌な役割だなぁ。
例えば僕が若げの至り通訳ができたとしたら、
さっきの「プアカントリー」みたいなときには、
いったん「プアカントリー」を言っちゃってから、

「そういっていますけど、
 これはちょっと誤解されますね」
って、入れたくなりますねえ。
米原 入れたくなるのね。
糸井 やっぱり自分をどれだけ殺せるか、ですね。
米原 そうですね。最初つらかったんですよ。
糸井 つらいでしょうね。
米原 つらい。
同じ人の通訳を1週間ぐらいやっていると、
その人を絞め殺したくなります。
どんなにそれ以前は尊敬していたとしても。

つまり、自分の考えと、かなり違うわけです。
自分とは違う人間にならなければいけない‥‥。
言葉って、結局、自分自身に
ものすごくかかわっているところなんです。

自分の感情とか考えとか、
それを他人に伝えるために
自分自身がモノを考えたりするときにも
言葉を使っているから、
これを完全に他人のために使うということは‥‥。
糸井 大変なことですよね。
米原 苦しいんですね。
糸井 自分の物差しみたいなものは
何cm何mmでできているという、
手のサイズみたいなものがありますよね。

そのサイズでふだんブロックを組み上げたり、
つなげたりしているのに、
急に1尺、2尺ではかっている人の話を
しなきゃならないわけですね。
米原 そうです。
価値観とか美意識も
ぜんぶ違いますから、それをなるべく
正確に的確にずうっと表現し続ける、
というのはつらくて‥‥。
糸井 聞いているだけでイヤですもの。
米原 イヤです。
通訳をやっている人は
みんなその時期を経過するみたいですね。
ある時期から、何かふっと離れられる。
遊体離脱みたいな感じで。
糸井 今、何を思い出したかというと、
歌舞伎を思い出したんですよ。
歌舞伎の片岡仁右衛門さんに、ゲストとして
お話を聞いたことがあるんですけど、その時、
「歌舞伎というのは型で覚えるものですから」
というお話があって、本当に明るいスタジオの中で、
長いスツールでしゃべっていたんですけど、
そのときに
「例えばお墓参りをしているときに、
 合掌してお参りをしますね‥‥?」
というポーズをとったんですね。

見事に、お参りをしているんですよ。
で、その姿に、圧倒されたんです。

そんなにものすごいものを、
気持ちじゃなくて、型で覚えると言われた。

その後、今度は玉三郎さんとお話をして、
玉三郎さんは西洋演劇もなさるし、
歌舞伎もなさる。
そのときに、西洋演劇をやる時に、
どうしても型でやりたくなるんで、
揺れるんですって。

で、2つを使い分けているんですって。
型で覚えちゃったものというのは、
自分の心とは全く関係なく、
型から型へ移動していくのであって、
そこのところで、例えば
三島さんの戯曲とかをやりますよね。

その時には、本当に
最初はやりづらかったと‥‥。
玉三郎さんとかは、どうも、自分の中に
2つの人がいるらしいんですけど。
米原 私は3人いますね。
糸井 それはどんな3人?
米原 つまり、聞くときは、
自分ではなくて、まずは、
聞き手の立場に立って、聞くんですよ。
つまり、
伝えるときに聞き手にわかるように
伝えなくちゃいけないから、
聞き手の立場に立って聞く。

だけど、それを聞き手に話す時には、
話し手の立場に立って話す、
ということをやります。
「わたしは、こう思います」と言う。

その2つから、ちょっと浮いた感じで
神様みたいに両方見ている者もいる、という。
その方がやりやすいです。
(つづきます)
2014-08-17-SUN
(対談収録日/2002年10月)


第1回
もうひとつの世界を持つということ
第2回
「他人の代表」という集中力
第3回
大事なところを掴めばいい
第4回
無難な翻訳=誤訳
第5回
真意をごまかさない方がいい
第6回
どれだけ自分を殺せるか
第7回
イタコになること
第8回
神と透明とのジレンマ
第9回
ロシア語の地獄
第10回
オクテの方が、完成度は高い
第11回
愛と憎悪
第12回
感情をこめると、相手に通じる
第13回
熱演だけじゃ、説得できない
第14回
ソ連の作文教育
第15回
書く訓練
第16回
グローバルスタンダードはない
第17回
日本の特色を聞かれたら
第18回
ロジックは記憶の道具
第19回
記憶は創造の源泉