未分類カテゴリー記事の一覧です

THE LIBRARYの春の服

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春に。

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「着ていて体が楽でありながら、
きちんと見えるものを」
さらには
「一枚着るだけで、様になる服が欲しい」。

昨年の秋のはじまり、
たくさんのわがままを伝えて
THE LIBRARYに作ってもらった
ワンピースとカットソー。

トマトとグレーは、そのままに。
この春は明るめのネイビー「マリン」と、
やさしげで春らしい色合いの「アイボリー」が
くわわりました。

すっきり見える!
とか、
コーディネートがしやすい、
とか。
私のまわりでも、
とても好評だったワンピースとカットソー。

春にまず欲しい1着です。

折敷のコーディネート[2]伊藤まさこさん

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小さな折敷はおやつの時間に重宝します。
カップにはお茶を、
豆皿には落雁などの小さなお菓子をちょこん。
リネンのティーナプキン(小さめのナプキン)をそえると、
ちょっともてなし風にもなります。
家事や仕事の合間の区切りの時間。
「なんとなく」過ごすのではなく、
ひとつひとつ器をえらび、折敷の上へ置くと
気持ちがしゃきっとするし、
「よし、次!」とも思う。
そんな気持ちの切り替えに、
この折敷は役立ってくれるのです。

どことなく和のイメージのある折敷ですが、
シンプルな形なので和洋問わず、
トレーのような感覚で使えます。
イッタラのカップとプレート、
ミルクピッチャーでモノトーンでコーディネート。
カップにはコーヒーを。
プレートにはクッキーやドーナッツを盛って
フィーカの時間を。

(編集部註:フィーカとは、スウェーデンの生活習慣で、
コーヒーブレイクの時間を意味するそうです。)

小さくてかわいらしい
中国茶の茶器や道具を並べてみました。
和はもちろん、洋も、そして中にも合うのが
この折敷のいいところ。
小さな空間に好きにレイアウトしていくのも
たのしいもの。
ちょっとままごとみたいな感覚です。

大きな折敷は、スーププレートや
ディナープレートを置くこともできます。
パスタとワインで一人、簡単な晩ごはん。
そんな時でも、折敷があるときちんとして見える。
トレーでもなく、ランチョンマットでもない、
幅広く使える折敷は、
これからの私のテーブルに変化をもたらしてくれそう。

お客様が来る時、
慌てないように、
こんな風に前もってセッティングしておくと、
心に余裕が持てます。
下は猿山さんと一緒に作った白い丸皿。
上には中国のお皿を、朱のお箸とスッカラが
全体を引き締めてくれます。

(伊藤まさこ)

折敷のコーディネート[1] 熊田剛祐さん・猿山修さん編

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「大盛りのミートソーススパゲッティに、
ワインかな、お水かな」
と熊田さん。
このお皿は猿山さんとともに試作を重ねている、
作陶家の喜多村光史さんの作。
コップも猿山さんとつくった、
その名も「コップ」という東屋の商品です。
「荒川尚也さんという人がなさっている、
晴耕社という工房の作品です。
ガラスの素材の調合から自社でやるおもしろい工房で、
窯も自分で作ってるんですよ。
燃料の半分ぐらい、廃材の天ぷら油を使っているそうです」
フォークは熊田さんの私物で、
フランスのヴィンテージのピュイフォルカ。
折敷は大きいほうを使っています。

「茶漬けとぬか漬けのつもりです」と熊田さん。
小さな折敷を使ったコーディネートです。
漆のお椀は、猿山さんデザイン、
西山圭功漆工房製作の東屋のもの。
小皿は故・渡邊かをるさんの直筆による作品。
竹箸は東屋のものです。
「箸置も商品だったんだけれど、
宮城の雄勝が震災で工房が流れ、
この硯石が採れなくなってしまいました」

上のコーディネートの、アレンジ版。
「味噌汁とごはん、という感じです」と熊田さん。
西村圭功漆工房のお椀は、
大中小三つ組のお椀を組み合わせて使いました。

「しらす丼と、お茶。シンプルな食事です」
と猿山修さん。
小さいほうの折敷に、
猿山さんがデザインを手掛けた、
西村圭功漆工房製作の「天雲」シリーズの角高台椀(M)を。
湯のみは作陶家・濱中史朗さんの無釉白磁に
塗師の安西淳さんによる漆、
蒔絵師の加藤由香子さんによる箔が施されているものです。
箸置きは猿山さんデザインによる東屋のもので
大屋窯作のhagiシリーズの型皿八角小・白磁です。

「ランチの、パスタかな?」と猿山さん。
折敷は大きいもの、
お皿とカトラリーは
「天雲」シリーズの青海盆(L)とフォーク(L)です。
グラスは猿山さんがデザイン、
竹田の「Magma Glass Studio」と組んだ
「猿竹工芸商會」のもの。
宙吹きでつくられているんですって。
「冷たい水か、ビールかな?」

行き来するたのしみ。

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──
先週につづいて、
デザイナーの猿山修さん、
東屋代表の熊田剛祐さんと、
伊藤さんが相談してつくった
折敷(おしき)とカッティングボードが
ならぶことになりましたね。
伊藤
折敷は、もともと、熊田さんと猿山さんが
開発をしていたものがあったんです。
それを見て「いいな」と思って。
猿山さんの最初のデザインは
小口のエッジがもっとするどくて、
手にとるとちょっと痛いくらいだったの(笑)。
だから角度をやさしく調整してもらったんです。
猿山
で、裏側に装飾もあったんですが、それを取り、
どんどんシンプルになっていきましたね。
熊田
これ、いいと思いますよ。
「ただの板」なのだけれど‥‥。
──
いいえ、これ、「ただの板」ではありません。
webで伝わるといいんですが、
とてもこまやかに仕事をされていますよね。
いろいろなふうに使えそうなのは、
そういう仕事がされているからだと感じます。
熊田
はい、いろんなものに使えます。
猿山
テーブルだけじゃないんですね。
伊藤
そうそう。お雛さまをのせてもいいですよね。
熊田
香炉を置いたり。
伊藤
食卓で使うと
「自分の陣地ね」「この場所は私のもの」みたいに。
それがね、すごく嬉しいんですよ。
──
折敷っていうのは、元々、
木の葉を折って敷いたところから
来ているらしいですね。
いまは檜の片木(へぎ)でつくった
縁つきの盆をさすと言いますが、
西洋にはないものですか。
熊田
ランチョンマットになるのかな。
でもヨーロッパでもお盆ごと出して、
食べるっていうのもありますね。
伊藤さんはなじみがあったの?
伊藤
和食のときはたいてい折敷を使っています。
それと、以前、和菓子に合うお茶のセットの
小さな折敷を作家のかたにつくって頂いた時から、
「これ便利だな」と思っていました。
漆の仕上げをしてある、もっと軽い感じのもので、
小さいとお酒をちょっと飲む時などに
気分が盛り上がるんですよ。
──
これ、カッティングボートではないんですよね。
熊田
違いますけど、使えます。
ただ、カッティングボードに使うと
ナイフマークが付くので‥‥。
ただ、それもぼくは、おおいにアリだと思う。
──
楢(ナラ)材ですね。
熊田
はい。稀少かもしれません。
楢は、国産の材料がもう本当に採れなくなっているんです。
楢枯れ病が凄い勢いで増えているのと、
最近、国産家具で楢材がブームになりつつあるので、
ほんとうに手に入りにくくなりました。
伊藤
これはどちらでつくられましたか。
熊田
輪島です。赤木明登さんの木地をつくっている工房です

▲折敷の裏の刻印は左から
木瓜柄=四十沢木材工芸
m=伊藤まさこ
円錐=猿山修
右端=東屋
をあらわしています。

伊藤
これね、最初は白さがありますが、
油を沁み込ませたりしているうちに、
どんどんいい感じになってきましたよ。
猿山
油を塗る方がきれいに保てますね。
熊田
最初に、胡桃油で拭いているんですよ。
──
使っているうちにカサカサしてきたりして、
あとから塗るときは‥‥。
猿山
胡桃油のような乾性油(空気中で完全にかたまる油。
亜麻仁油、桐油、荏胡麻油、紅花油、向日葵油など)が
いいですね。
不乾性油(オリーブオイルや菜種油、
ピーナッツ油など)や半乾性油(コーン油、綿実油、
ごま油など)は、ベトベトすることがあります。
熊田
ぼくらもいろいろ使ってみたんです。
いちばん無臭でいいのは胡桃油だと思います。
でも、たとえば、大豆油や米油は乾性油ではありませんが、香りが弱いので適しています。
伊藤
塗って、拭いて、ちょっと乾かすみたいにすると
だんだん愛着も湧きますね。
オーバル皿は軽さをリクエストしましたが、
折敷はこのしっかりした重さが好きです。
──
そしてカッティングボード。
猿山さんデザインで東屋オリジナルのアイテムに、
持ち手付きのものがありましたが‥‥。
熊田
伊藤さんが「持ち手がないのも素敵ね」って。
伊藤
上下左右、表も裏もなく、自由に使えるように。
それから、4つ並べたときにかわいいなって。
猿山
結果、サイズ展開も含めて、
かたちもオリジナルになりましたね。
伊藤
これは山桜?
熊田
国産の山桜です。
山桜は硬く、
元々、浮世絵の版木なんかに
使われてた材料なんです。
目が均一で、それもいい。
版木に優れたのも、それゆえ絵柄に
影響しにくかったんだと思います。
北斎の赤富士とか、
ベタ面を刷っているところの初刷りを見ると、
木目が富士山に写っていますよ。
伊藤
表情がいいですよね。
キッチンにしまい込んで使うというよりも、
食卓に、表に、ちょっと出したい感じがします。
熊田
そうなんです。包丁もそうじゃないですか。
台所にあるといいけれど、
食卓にはなじまないものがある。
こんなふうに台所でも使えて、
食卓にも持ち込める道具っていうのは、
いろいろ便利だと思います。
伊藤
熊田さんは、お家で使いますか?
熊田
使います。切って食べるっていう感じですね。
漬物、チーズとか。
伊藤
2人ともお料理するんですよね。
こういうきれいなものを使うと、
料理している時がすごく楽しいですよね。
──
いいですね。これも迷うなあ。
買うときに大きさを迷ったら
どうすればいいんですか?
伊藤
迷ったら全部!(笑)
熊田
ほんとうに、これ、4つのサイズが
台所にあると便利ですよ。
いわゆるまな板はみなさんお持ちだと思うので、
それ以外の、ちっちゃいのいろいろ。
伊藤
うち、まな板がここからここぐらいまで(肩幅くらい)
棚差ししてあるんだけれど、
ワーッと並んでいると、気分がいいんです。
「今日はこれにしよう!」と選ぶ瞬間も楽しい。
熊田
こんどは、さらにハーフサイズを作って、
にんにく専用とかにしたいよね。
ぼく、にんにくだけは蒲鉾板を取っておいて、
使っているので。
伊藤
そうなの?!
たしかに匂いがついちゃうから、共用しないですね。
わたしもこのぐらい(てのひらサイズ)の
にんにく専用カッティングボード、持ってます。
熊田
にんにくの後、いちごを切って、
にんにくの匂いがしたら、嫌じゃない?
伊藤
いちご切るんだ?
巨漢の熊田さんが言うとかわいいです(笑)。
それから、このカッティングボード、
わたしは耐熱皿の下に敷いて使ったりもしますよ。
猿山
鍋敷きにも使うんだ!
熊田
焦げる温度で乗っけると跡がつくので気をつけて。
伊藤
それも味かなと思って。
どうせなら、お気に入りの器の下におきたい。
器の下からちらりとボードも見えるし。
熊田
これ、折敷みたいな使い方もおおいにあって。
伊藤
トーストとジャムとか、
ひとつのボードにおいてもいいですね。
‥‥時間がかかったけれど、
こうしてよいものができてうれしいです。
猿山さん、熊田さん、
ほんとうにありがとうございました。
猿山
こちらこそ。
伊藤
また一緒になにかつくりましょう。
熊田
ありがとうございました。
よろしくお願いします。

東屋の折敷とカッティングボード

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テーブルに木のものを

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「器のコーディネートがむずかしい。
どうしたらよいでしょう?」
時々、こんな質問を受けます。

そんな時私は、
「服と同じと考えればいいんですよ」
と答えます。
たとえばリネンのシンプルなワンピースがあったとしたら?
それに合わせるのは、
少しきらりとしたゴールドのピアスやリング。
バッグはかごにしてみよう。
素材のちがうものを合わせることによって、
全体のバランスがよくなる。
きっと、こんな風に毎日、
自分なりに工夫しているはずだから。

器も同じこと。
土ものの大皿を主役にえらんだならば、
取り皿は磁器に、
ガラスも入れてみようか?
すると、
テーブルの上のバランスがよくなる。
たのしげで軽やかにもなるものです。

今週のweeksdaysは、
木の折敷とカッティングボードを紹介。
折敷は楢、
カッティングボードは山桜。
風合いはそれぞれですが、
共通するのは、
テーブルの上が、おだやかでやわらかくなるということ。
ほかの器のじゃまをしないということ。

コーディネートの名脇役になってくれる、
折敷とカッティングボード。
磁器の器にひきつづき、
デザイナーの猿山さんと、東屋の熊田さんとの
鼎談と合わせてどうぞ。

磁器のよさ。

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──
伊藤さんは、いろんなお皿をお使いだと思うんですが、
陶器のぼってりした感じの、
アメリカでステーキが乗って出てくるようなものとは、
ずいぶん感じが違いますよね。
磁器でオーバルが欲しいと思った気持ちって、
やっぱりのせる料理が違うからですか?
伊藤
そうですね。磁器がテーブルの上に乗ると、
スラッと美しく見える。
少しだけ緊張感があるというか。
あんまり、ないんですよ、そういう器って。
オーバルの大きめのものはとくに。
熊田
ない。ヨーロッパには普通にあるけれど、
日本には、あんまりない。
──
むかしからいろいろな文化が輸入されましたが、
日本に入って定着しなかったんでしょうか。
熊田
日本は小皿文化だったっていうのがあると思います。
ひとりずつ大皿を使う文化じゃないでしょう、
センターピースにどーんと出すことはあっても。
伊藤
でもこれ、そんなふうにドーンと
テーブルの中央にも乗っけられるし、
ひとりひとつも使えるサイズですよね。
そこが使い勝手がいいところなんです。
──
白だけじゃなくて、
青いのもつくりました。
伊藤
私は白をつくって、落ち着いたら、
釉薬を変えて青も出せたらいいなあと
思ってたんですけれど、
「いちどにやっちゃおうよ」って言ってくれて。
──
微妙に違うだけなのに、
実は料理を盛ると全然違うんだと
伊藤さんがおっしゃっていたのを覚えています。
伊藤
そう。全然変わる。
同じ形なのに全然違うんです。
猿山
青いほうは、和のものに使いやすい。
伊藤
うん。いい。
──
釉薬が違うんですよね。
熊田
同じ灰釉‥‥ただしくは「かいゆう」ですが
「はいゆう」とも呼ばれていますが、
釉薬の種類が違います。
石灰がメインの釉薬(石灰釉)は白になり、
灰がメインの釉薬(土灰釉)は青くなります。
釉薬の中に鉄分が入っていて、その量の違いです。
青磁もおんなじ原理ですね。
伊藤
サンプル製作期間が長かったことで、
その間にずっと使うことができ、
その時間がすごく良かったなと思います。
家にあるのが当たり前みたいになっていたので、
それを販売できるのはとても嬉しい。
欲しいものはすぐ欲しい、
早く形にしたいと思ってしまうのですが、
こうして時間をかけるのもいいなあと思いました。
──
どう使い分けてますか? 色とか。
伊藤
青いほうは、中華っぽい感じとかも合いますよ。
白は、洋っぽい方が合うかな‥‥。
うーん、でもそう決めつけたくはないな。
大きさもね、これ、ジャスミンライスの
玄米のチャーハンなんだけど、
ちょうど一人分みたいな感じで納まりがいいんです。
境界線があることで、盛りやすい。
猿山
いいよね、この感じ。
──
この境界線、名称があるんですか?
キュッとなっているこの山。
猿山
ない‥‥かな。
伊藤
さる山ライン(笑)?
これ、いちど、わたし
「ないのもいいんじゃない?」
と言ったのを思い出しました。
でも猿山さん「これは絶対残しましょう」って。
熊田
戦前のKPM(ベルリン王立磁器製陶所)のお皿とか、
李朝の堅手とかに、
こういう仕事はありますよね。
猿山
金属器の文化があるところは、
覆輪(ふくりん)と一緒だから。
折り返しを強調することと、
強度を付けるためにという意味もあったでしょうね。
そう、まさこさん、最初、これをちょっと嫌がってたね。
伊藤
そう、でもだんだん家に馴染んで来て。
いいなと思ったし、
こうして猿山さんの思うものも形にできて、
一緒につくった意味があるなと思いました。
──
三人の誰が主導、
っていう感じじゃなくなって来たんですね。
伊藤
折り合って妥協点を見つけるんじゃなくて、
主張をしながらよりよい感じで
どんどん進んで行きましたね。

▲皿の裏の刻印は左から
木瓜柄=白岳窯
m=伊藤まさこ
円錐=猿山修
右端=東屋
をあらわしています。

男子にわからないこと。

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──
お皿をつくるにあたって、
猿山さんと熊田さんには
伊藤さんからどんなリクエストがあったんですか。
伊藤
ん? わたし、
とくになにも言ってないと思うな。
熊田
いや、うーん?
猿山
あぁ‥‥。
伊藤
言ってた? 忘れてるだけ?
猿山
(笑)そりゃもう、
「こういうんじゃなきゃ使いたくない」とか。
伊藤
そんなこと、言ったかなぁ(笑)。
猿山
でもそれが大事なんですよ。
重さも形もバリエーションも細かく。
なかでもいちばんぼくが「へえっ!」と思ったのは、
リムまで使えるようなお皿にしたいということでした。
料理を盛るのが、リムの内側で完結しなくていい。
はみ出しても大丈夫で、
なんならお皿の縁から出ても、ときにはOKって。
伊藤
そうそう!
リムとの境界線が
あまりはっきりしていないものが
いいかなって。
猿山
それからスタッキング(重ねて収納)したときに、
きれいに収まる。
そして、10枚重ねても女性が持てる重さにと。
伊藤
言いました、言いました(笑)。
──
それの実現のためには、
なんども、原型を作り直したんですか?
熊田
はい。何度も何度も‥‥。
すごい数ですよ。
伊藤
できるたびにサンプルが送られてきて、
ひとつのお皿で、10~15枚くらい
うちにあるんじゃないかな。
熊田
3Dプリンターとかも試してみたことはあるんですけど、
やっぱりその現物で試作していかないと
なんにもわからないんですよね、結局。
──
猿山さん、そうするとそのたびにデザインを微妙に。
猿山
そうです。毎回図面をいじる。
伊藤
そしてわたしが
「図面だけだと全然わかんない」って言って
またサンプルをつくってもらう。
それの繰り返し。
さっきのリムのことにしてもそうでしたね。
猿山
すこし前にうんとリムの広いお皿が流行しましたが、
そういうものとはちがって、
境界線をちょっとあいまいにして、
でも越えてもいいよ、という表現にしようと。
熊田
ふたりのそのやりとりを受けながら、
ぼくがいちばん大変だったのは、
平らに仕上げるっていうところです。
焼き上がってどうなるかを想定して、
原型の微調整をしていくこと。
日本で普通、窯元でつくるオーバル皿に、
こんな大きなサイズはないんですよ。
だから波佐見の人たちからすると、
ちょっと特殊なものだったと思います。
でもいいですよね、このサイズ。
猿山
ワンプレートで使えますね。

「白」に魅かれて。

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伊藤
天草に陶石を見に行ったのは、
2014年のことでした。
『weeksdays』ができる前、「ほぼ日」で
「白いもの」という連載をしていたんですが、
真っ白な陶石が天草で産出されていると聞いて、
リサーチに出かけたんです
伊藤
天草で採れる陶石は、実はいろいろなところで
磁器の原料に使われていると知りました。
何百年ぶんの埋蔵量があるんだそうです。
とてもきれいな石だったので、
それで白い器をつくりたいなと、
猿山さんに相談したんですね。
猿山
それでそのあと
まずは行って見てみようと、
ふたりで天草に行ったんだよね。
伊藤
ところが私たちは「こういうのがいいね」と
考えるところまではできるのだけれど、
いざつくるとなったら、いろいろな実務が出てくる。
「どうしたらいいんだろう‥‥」と。
猿山
うん。
伊藤
『weeksdays』がカケラもない頃だったので、
器を、作家ではなく製陶所に依頼してつくるというのは、
それなりの大量生産になるし、
できあがったら在庫はどこに置くの?
まさか、うちに? みたいな話にまでなって。
猿山
それはぼくにもどうにもならないから。
伊藤
それで「東屋の熊田さんに入ってもらおう」って。
もともと、猿山さんと熊田さんは
長くお仕事を一緒になさっていましたよね。
猿山さんがデザインやプロデュースされたものを、
東屋さんが形にしていくというふうに。
それからは、ふたりが細かな調整を
時間をかけて、してくださって。
わたしは最初に、いつものように、
「こんなかんじのシンプルなオーバル皿がほしい」って
子どもが描くような絵を紙に描いて‥‥。
猿山
たぶんまさこさんはこういうものが好きだろうな、
ということはわかるので、
そこに自分の考えを足して、
ニュアンスを調整していきました。
最初のサンプルなんて、まったく違うものでしたよね、
リムの立ち上がりの加減も、釉薬の調子も。
──
熊田さんは、伊藤さんと仕事で組むのは
初めてでいらっしゃったんですか。
熊田
そうなんです。東屋の仕事って、
男性と組むことが多いんですよ。
アートディレクターの渡邊かをるさん、
建築家の荒木信雄さん、
アーティストの立花文穂さん、
コーヒー店主の大坊勝次さん、
京都寺町二条・大吉の店主、杉本理さん、
そしてこちらの猿山修さん。
そのせいか東屋の商品は
「男っぽいね」ってみんなに言われていました。
そこにまさこさんがあらわれて、
女性視点で、猿山さんの手綱を引いてものをつくる。
それは、ぼく、すごく面白いなと思って。
伊藤
へえ! そんな風に思っていたんですね。
熊田
ぼくは、具体的には、最初のサンプルと、
猿山さんの図面を見せてもらうところからの参加です。
猿山さんの平面の線画を
どう立体にするかっていうところは、
長年やってきていますから、
「これなら、あの原型師さんとつくって、
あの工房に依頼したほうがいいよ」
ということが、すぐにわかりました。
──
「原型師さん」。
熊田
図面を立体にする仕事です。
洋服で言えばパタンナーのような。
ぼくらがお願いしているのは、
有田にいる金子哲郎さんというかた。
肥前地区の磁器や、
伊賀で土ものを作るときの原型だったり、
岩手県の水沢で南部鉄器を作るときの原型を手がけ、
15年ぐらい、猿山さんの仕事もお願いをしているかたで、
金子さんは長年白山陶器で、
陶磁器デザイナーの森正洋さんの仕事をなさっていました。
──
原型とは別に、量産するための製陶所も必要ですね。
熊田
天草の陶石を使うときにたいへんなのは、
やわらかいということなんです。
しかも今回はオーバル皿なので、ゆがみます。
短辺と長辺の、力のかかり方が違うから、
窯の中でゆがんでしまうんですね。
同じ白磁でも、例えば景徳鎮は耐火度が高く、
要は窯の中でブニュってならない。
日本の磁器原料でおんなじ薄さのものをつくると、
全部ペチャンとなります。
伊藤
でも天草には、天草の良さがあるんですよね。
熊田
景徳鎮の白磁、李朝の分院の白磁とかと比べると、
天草の白磁っていうのは、もう見た目から
肌感がホワッとしてますよね。
伊藤
たしかに、そう!
その質感が出せたら
素敵な器になるんじゃないかと思ったんです。
製陶所は、長崎の波佐見でしたっけ。
熊田
波佐見の平地から、中尾山の中に入っていくと、
林を越えた川沿いに中尾郷っていう集落があって、
もともと波佐見焼ってそこがはじまりなんですが、
その集落でぼくは長く仕事をしているんです。
そこにある白岳窯っていう窯元にお願いしました。
伊藤
そこなら、「よし来た」?
それとも「難しいね」?
熊田
「難しいね」でした、これは。

東屋のうつわ

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白い石から

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「知ってる?
天草では、日本で最も白い陶石が採れるんだよ」

ある時、
私にこんなことを教えてくれた知人がいました。
どうして天草に白い石が?
興味を持って出かけたのは、
今から5年前のこと。

地元の人の案内で、天草をまわるうちに
こんなことを知りました。
島には長さ4キロメートルにもおよぶ、
「皿山脈」と呼ばれる鉱脈があること。
その陶石の特徴は、
にごりのない
澄んだ白色なのだということ。

旅のおみやげは、
昔、船着場だったという海岸で拾った、白くてまん丸な石。
なんでも、日本各地のやきものの産地に運ぶ際に、
こぼれ落ちた陶石が、
波にもまれて丸くなったものなんだって。

家に帰って、その石を見るたび、
いつか澄んだ白い磁器の器が作れたらいいなぁ、
そう思っていました。

どんな形?
立ち上がりは?
大きさは?
デザイナーの猿山さんに相談し、
試行錯誤を重ねて、
やがてできあがったのがこの器。
5年越しの思いが実って、
うちのテーブルに来た時は、うれしかったなぁ。

今週のweeksdaysは、
猿山修さんと作った磁器のお皿を紹介。
器ができあがるまでの話や、
できあがってからどう使うか? などなど。
対談もどうぞおたのしみに。

わたしのひきだし。[7] おさだゆかり

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引出しはBISLEYの6段キャビネット、色はアイボリー。
かれこれ20年くらい使っています。

毎日の仕事で一番よく開けるのは、
筆記用具専用の引出しです。
BISLEYオリジナルの仕切りが便利。

筆記用具は買付で通う北欧で見つけたものがほとんど。
色づかいのきれいさに、いつも感心しています。

わたしのひきだし。[6] 岡宗秀吾

未分類

ステッカーをもらうと嬉しい。

バンド。
ブランド。
イベント。
あらゆる自己紹介が込められたステッカー。

「大人の駄菓子みたいなもんだよ」
と昔、先輩が教えてくれた。

「仲良くなりたくて交換し合った駄菓子が、
大人になるとステッカーになるんだよ」

うん。
あれからずいぶん経ったけど、
まだまだ僕は公園にいるんだろうなぁ。

わたしのひきだし。[5] たなかみさき

未分類

よく使うということで、
仕事場のペンが入っているひきだしです。
どうあがいてもオシャレに撮れずに悔しい思いです。

昔から整理整頓というよりは
雑多としている方が居心地がよく、
あまりこだわりや執着の無い性格のせいか、
「合格祈願」と堂々と書かれた鉛筆や、
実家に眠っていそうな香料のきつい
オレンジの匂いつき消しゴムまで入っていました。

いつまでもお絵描き大好き小学生のような
ひきだしではなく、
もう少し大人のクリエイターらしい
ひきだしを目指したいものです‥‥。

わたしのひきだし。[4] 矢野直子

未分類

大学時代、自分の下宿のぼろアパートに友達をよんでは、
フルコースの料理をふるまうのが好きな同級生がいました。

古い小さな台所には必要最低限の道具。
食器は無印良品のベージュのお皿と
ステンレスのカトラリーだけ。
でもちゃんと全部10枚と10セット揃ってた。

「一番簡素で、そして料理が映える。
何より割れても買い足せるでしょ」
そう言ってたなぁ。

このお話をいただいて、
あらためてこのひきだしを眺めていたら思い出しました。
あの時の風景と料理の味。

わたしのひきだし。[3] 平野妃奈

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只今年中さん5歳になったばかりの「俺」は
幼稚園に入園してからぐんぐんと男子道を歩んでいる。
それまではお姉ちゃんの友達の中に混ぜてもらい
遊ぶことがほとんどだったが、
幼稚園に通うようになって
かっこいい刺激的な男友達の影響から一気に
「ぽーちゃん」の呼び名を捨て
「俺」へとなっていった。
まだ3歳児頃に「俺」と自分のことを言うようになり
「僕」とは一切言わずだった。

そんな「俺」があれよあれよとハマっていったのが
「こま」である。

幼稚園には大きなこま板がある。
本来は年中さん頃からこまをして遊ぶらしいが、
上の兄弟関係が多かった「俺」のクラスでは
こまをまわせる子が数人いて、
その中に「俺」が最も尊敬するダチも
びゅんびゅん回していた。
初めはなかなかうまく巻けなくて、
本当に家では悔しくて泣きながら練習していた。
旦那も俺の為にこま板を作ってあげ、
「俺」のやる気はみるみる増していって、
早々にこまを回せるようになった。
誰よりも切れが良く、ものすごいスピードでこまを回す。
回し終わった後はひもをくびに掛け決めている。

そんな「俺」が大事にしているこまのひきだし。
誰よりも負けん気も強いけど、
根は真面目で几帳面で片付けも大好き。
旦那と一緒に作ったこま入れ。
嬉しくて嬉しくて自慢げな「俺」。

わたしのひきだし。[2] 横里隆

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自宅の仕事机のひきだしです。
事務所のひきだしはあんまり開けないので
こちらにしました。
ものを捨てられない性質の私のひきだしは、
ほっておくとごちゃごちゃのカオスになってしまうので
数年前に購入したひきだし整理ボックスを使っています。

ひきだしの中でいちばん使うのは一筆箋。
メールの時代とはいえ
郵送物にちょっとした言葉を添えるときに便利です。
お気に入りは
社名の上ノ空(うわのそら)にあわせて購入した
「空色ノキモチ」というもの。
雲の上を言葉が漂うようで素敵です。

それにしても、やっぱり用途不明&
意味不明のものが多いです(汗)。
なぜか複数のお守りが‥‥。
いただきものも含め、
たまってしまっても捨てられない。
みんなどうしてるのかな?
ま、いつまでも守ってもらえるならいっか。
そうそう、「雨ニモマケズ複製手帳」も
私にとってはお守りみたいなものです。

あと、自分がペーパーナイフ好きってことに
気づきました。
ほとんど使わないのに4本も!
彼らのすらっとしたたたずまいが好きです。
加えて、むかし高山で買った
革の巻きもの(端切れ)が5本も!
何に使ったらいいかわからないけど、
きっといつか何かになるんだろうな‥‥
ならなくてもいいけど。
ミニカーのタイヤやパチンコ玉は本当に意味不明。
でも捨てられない。

整理されているようでされてない、
私のひきだしでした。

わたしのひきだし。[1] 坂田阿希子

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私はかなり筆不精のほうです。
お手紙をもらうのは大好きだし、
書くことは嫌いではないのですが、
ついメールや電話で済ませてしまうことが
多くなってしまいました。

これは、そんなわたしが思い立った時に
すぐに手紙を書けるように、のひきだし。
一筆書きのような小さな紙や
便箋に封筒、書きやすいペンに糊。
そして切手も用意しておくと、
思い立った時にすぐに書ける。
そして切手を貼ってすぐに出せる。
以前よりもこのひきだしのおかげで
少し筆不精が改善されました。

請求書を出すのも本当に億劫なのですが、
ハンコもちゃんとこの筆不精セットに
しまうようにすると、
少しだけ便利になったように思います。

最近のブームは紙石鹸(右上)。
手紙と一緒に一枚入れると
開封した時にいい香りがする仕組みです。
必ず必要なのが老眼鏡。
すっかり老眼が進んでこれなしでは手紙は書けません。
何個も持っているのに、
なぜかいつも探している老眼鏡。
今度は老眼鏡のひきだしをつくりたいくらいです。

わたしのつかいかた

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仕事机まわりにあると、何かと重宝する小ひきだし。
でも、文房具を入れるためのものだけにしておいては
もったいない。

たとえば豆皿を入れるとこんな風。
ひきだしを開ければ一目瞭然。
「片づく」という以外に、
見て楽しい、しょっちゅう開けたくなってしまう、
自分だけの小さなギャラリーのような感覚にもなります。
私は1、2、3段目に、豆皿、
4段目にそれよりひとまわり大きな皿、
5段目にお猪口を入れていますが、
カトラリーもいいなぁとか、
リネンのティーナプキン
(ナプキンよりひとまわり小さなもの)もいいなぁなどと
夢が広がっています。

帯揚げや帯留め、帯締めなど、
着物の小道具入れにしても。
ブルーやグレーなどダークな色合いと、
ピンクや生成りなどのあたたかな色合いの帯締めを
それぞれ別々のひきだしに。
いざ、着物を着る時に、さっと取り出せてとても便利です。

手帳や万年筆、お財布、通帳、カード、
診察券、お薬手帳、500円玉貯金、切手、手紙‥‥。
なくすと困る身の回りのあれこれも、
小ひきだしに入れてすっきり。

でも一番上だけは、
「明日身につけていきたいもの」の準備をするために
余裕をもたせて。
眼鏡、腕時計、リング‥‥、
持ちものはその日によっていろいろですが、
前の日にここに準備しておくと、
出かける時の慌ただしさがずいぶん減りますよ。

(伊藤まさこ)

「杉工場」でつくりました。その2 伝統をたいせつにしながら、今のものをつくる。

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杉良子さん、明乃さん親子に、
若き職人の永井さんがくわわってはじまった
杉工場の「特注」部門。
知人が頼んでくれた特注の椅子からはじまった
そのプロジェクトは、やがて、
いろいろな家具の相談を受けるようになりました。

良子さんは言います。
「既存の机のサイズを変えてほしいとか、
そういう意味での特注の依頼はそれまでもあったんですが、
ゼロから考える家具づくりはしていませんでした。
それが永井が来てからできることになり、
とくに宣伝をしたわけでもないのに、
1年間、途切れずに注文をいただいて。
そんななかに、伊藤まさこさんからの依頼があったんです」

伊藤さんが持っていた
古い和家具の「小ひきだし」。
前後(表裏)がないデザインで、
どちらからも引き出すことができ、
段をそのまま抜き出せば、
トレイとしても使えるタイプです。
アクセサリー、郵便物、文具、工具‥‥
使い方はひとそれぞれの、
むかしはどの家にもひとつはあったような、
ちいさな家具。
東京のお店で偶然みつけた古いものを
使っている伊藤さんですが、
それをベースに、「weeksdays」らしい
小ひきだしがつくりたいというのが
「特注」のリクエストでした。

「そういう依頼をいただいたのは、
じつは、はじめてのことだったんです」
と良子さん。
「この小ひきだしの印象を決めるのは、
やっぱり『顔』。とくにひきだしの取っ手のかたちですね。
これが変わることで、表情が変わってくるので、
そこを大事にしたいと思いました。
けれどもそれは私達が決めることではなくて、
まさこさんがお好きな顔にしたい。
それで最初のサンプルは、
何パターンかをあえて作りました」

取っ手の丸みの角度、
天板と側板の組み方、
それぞれの部材の薄さ、
トレイの前板と端板の組み方、
底板の仕様、
台輪の飾りの部分の、角の削り方‥‥
ほんのちょっとしたことが、
おどろくほど全体の印象を左右します。

サンプルを前に、伊藤さんの判断は明確。
いっしょに杉工場にうかがった夏、
見本を前に「これがいいです」と、すぐに決まりました。
原型となった骨董の小引き出しは、
天板と側板が「石畳組み接ぎ」という技法で、
和家具の意匠にもなるデザインのひとつでしたが、
そこはあえてスッキリと目立たないようにしました。

さらに、ひとつずつのトレイを支える
内側の桟(さん)は、
接着剤と金具を使って留めるのですが、
その金具を、実用本位のタッカーだけではなく、
うつくしいが柔らかいため
加工のたいへんな真鍮の釘も使用しています。
部材は基本的に無垢材のはぎ合わせ。
トレイの底板は反りやくるいの出ない合板ですが、
抜き出したときのうつくしさを考えて、
表面に突板(薄く割いた木)を貼っています。
この小ひきだし、
ほんとうに細部まで心を砕いたつくりになっているんです。

さらに、天板や側板の厚みは、
じょうぶにしたければ厚くするところを、
腰掛けるほどの強度は必要がないわけですから、
「過ぎることのない」ように調整。
贅沢はしすぎず、けれどもうつくしく。
自己満足におちいることがないデザインは、
ベースに杉工場の長い歴史があり、
良子さんと明乃さんの感覚、
そして永井さんのセンスと技術、
さらには杉工場の熟練の職人のみなさんの
「手と目」があってのことなのでした。

「こういうものって、違和感がひとつでもあると、
目が拒否するというか‥‥。
そこをちゃんとクリアしてると、
スーッと自然に入ってくるし、
いやな気持ちがしないんです。
そこに、わたしたちのものづくりの、
口にできない共通項があるんですよ」

さあ、この小ひきだしをどう使いましょうか。
明日からの連載では、伊藤まさこさんに、
そのアドバイスをいただくことにしましょう。
(ちなみに、杉家では、
この小ひきだしのサンプルをもう使っているそう。
4人家族それぞれに来る郵便物を、
1人1段、まいにち仕分けて入れる
「家庭内郵便ボックス」になっているんですって!)

「杉工場」でつくりました。その1 老舗からうまれた、あたらしいプロジェクト。

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福岡県の筑後地方、うきは市。
耳納(みのう)連山のふもと、
すぐ東は大分の日田という土地に、
今回の「小ひきだし」の製作を担当してくださった
杉工場があります。

創業は、明治19年。
杉工場は「すぎこうじょう」と読みますが、
ふるくからの通り名は「すぎこうば」、
地元では方言まじりに「すっこうば」とも呼ばれている、
ことし創業132年を迎える家具メーカーです。
現在の社長は、4代目になる杉寛司(ひろし)さん。
そう、杉材を使うから杉工場、なのではなく、
杉家の家業ゆえ杉工場という名前がついているのですね。

杉工場は、創業当時、
箪笥などの家具を手がけていましたが、
やがて学校で使われる跳び箱や肋木(ろくぼく)、
平行棒や平均台など、木製の体育道具を手がけるように。
さらに机や腰掛などの学習用具、
家庭科の調理台や理科の実験台、
そしてブランコやシーソー、滑り台などの遊具まで手がけ、
昭和初期には「学校用家具工場」として
当時の文部省からの推薦を受けていたほどです。
あんがい、私たちのなかにも、
あるいはおとうさんやおかあさん、
おじいちゃんやおばあちゃんが、
それと知らず学校で
杉工場の家具や遊具を使っていた、
ということも多いのかもしれません。

時代がかわり、戦後しばらくすると、
家庭用の学習机や椅子をはじめ、
テーブルや本棚などの家具に主力がうつります。
平成に入り、生産拠点を海外にもつくりましたが、
平成20年からは「日本国内のみ」での生産に移行。
“永く使える家具”をめざして、環境や健康、安全に配慮した
家具づくりをつづけています。

現在も毎日いそがしく工場を稼働させている杉工場ですが、
工場といっても、自動的に
家具ができあがるようなものではなく、
ラインの各持ち場に熟練の職人が立ち、
人の目、人の手を信頼してのものづくりをしています。
杉工場の家具が、きちんとした規格をたもちながら、
どこかあたたかみを感じさせるものに仕上がっているのは、
そんな生産体制によるところが大きいようです。
シンプルで品質の高い杉工場の家具は、
和洋のどちらのテイストの部屋にもとけこみ、
また、人の手、肌にもよくなじみます。
デザイナーが先頭に立った強いデザインではなく、
アノニマス(匿名)なものでありながら
どこにでもあるわけではない、
杉工場らしいトーンが保たれているところが、
多くの人に(インテリアの好きな人にも)
愛されているひみつなのでしょう。

さて! 今回「weeksdays」が
「小ひきだし」を依頼したのは、
まさしくこの杉工場‥‥なのですけれど、
担当してくださったのは
「わたしたち、社内ベンチャーみたいな存在なんです」
と語る3人です。
社長夫人である杉良子(りょうこ)さん、
その娘である杉明乃(あきの)さんのふたりが
「営業企画」を担当、
着任1年とすこしという家具職人である
永井覚紀(あきのり)さんが参加して、
社内であたらしいものをつくるチームを発足したのでした。

じつは良子さん、
社長の寛司さんと結婚してからしばらくは、
まったく家業にかかわらない立場だったそう。
けれども外部のデザイナーのかたから
「良子さんも商品開発をしてみたら?」と提案をうけ、
学習机などの杉工場の十八番ともいえる家具とは
まったくちがう家具をつくりはじめたのだそうです。

「当時、東京の大学に通っていた娘のワンルームに
置けるような家具をつくりたいと思ったんです。
それで楓(かえで)材、メープルですね、
それが白くてきれいだったので、
『木と風シリーズ』をつくりました」

これがいまも販売をつづけるほどのヒットに。
やがて、大学を出てから数年間、
九州で「かなり堅い仕事」をしていた明乃さんに、
良子さんが声をかけます。
もともと休みのたびにお手伝いはしていたそうなのですが、
杉工場にギャラリーをつくり、
展覧会をはじめるというタイミングで、
「手が足りないので手伝って」
と誘ったのがきっかけだったそう。

「わたし的には、娘のやっていた仕事は、
将来的に考えたら面白くはないだろうなと思ったんです。
堅実な仕事だけれど、それでいいの?
うちのほうが面白いよ? って(笑)」

時を同じくして、良子さんは、
福岡で働いていた永井さんを「見つけ」ます。
工芸品を扱うギャラリーで、
のびのび、生き生きと働いていたのが永井さんでした。

「ひとりじゃ何もできないなあ。
そう思っていたところに、家具づくりの経験があり、
ちょっと面白い才能を持った彼があらわれたんですよ」

永井さん、じつはもともとが建築畑。
京都の大学で建築とデザインを学び、
卒業後、北海道の著名な木工家具メーカーに就職します。
そこで「試作開発」という、
あたらしいデザインをどんどんつくっていく
仕事に就き、多くの家具を手がけました。
北海道でのものづくりの暮らしは
とても楽しかったといいますが、ふと
「30歳になる前に、違う世界も見なくちゃ。
もっとインプットしなくちゃ」と思い立ちます。

学生時代にアルバイトをしていたケーキ屋さんの
全国の百貨店をまわる催事の仕事をしていたとき、
こんなことが。
「訪れた故郷の鹿児島で、
父の友人から『お前の息子、面白いらしいな。
輸入の仕事をしないか?』って誘われたんです。
海外に連れて行ってやるぞ、って。
それは面白そうだと思ったら、
すぐにその仕事が部署ごとなくなってしまった。
やっぱり家具に戻ろうと考えたタイミングで、
知り合いのギャラリーが
期間限定で福岡にできることになり、
手伝うことになったんです」

そのお店に、杉工場のイベントのフライヤーを
置きにきていたのが杉良子さんたちでした。

「良子さんたちがやっている仕事のことを知り、
びっくりしました。
福岡でこんなふうに自由な家具づくりができるなんて
思っていなかったんです。
それで、勤めていた店が閉店するタイミングで、
ぜひ参加させてくださいってお願いをしました」

日本中をぐるりとまわって、いろいろな仕事を経験し、
もういちど好きな家具づくりに
携わることになった永井さん。
偶然にも、永井さんが来た昨年の1月から、
杉工場に「特注家具」の注文が増えはじめたといいます。

(つづきます)

小ひきだし

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出したらしまう

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「どうして家の中が散らかっていないの?」
我が家を訪れた人から、
よくこんな言葉をかけられます。

どうしてだろう? と考えると、
答えは簡単。
「出したら、もとの場所にしまうから」
なのでした。

今でこそ、こんなことを言っている私ですが、
家の中の行き場のない、
あれやこれやが散らかっている時もありました。

使っていない鍵、
取れてしまったボタン、
昔、撮った証明写真、
何に使うか分からなくなってしまった充電器‥‥。
あなたにも、ああそうそう、と
思いあたるふし、あるでしょう?

ところがある時、古道具屋で見かけた小ひきだしを
ためしに買って帰って使ってみたら、
これがなかなかいいのです。

ひとつ、またひとつと買い足して、
大中小3つの小ひきだしがそろった頃、
「出したらしまう」がすっかり身についていました。
ものの置き場所を決めると、
こんなに部屋が片づくんだなぁ。

今回、weeksdaysで紹介するのは、
杉工場と作った小ひきだし。
私が持っている古い小ひきだしのよいところを集めて、
さらに使いやすく、
そして見た目も美しく仕上げてくれました。

出したらしまうを身につけて、
春に向けて、
すっきりさっぱりした暮らしをしませんか?

ニッポンで展開するということ。

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伊藤
DEAN & DELUCAが40年前にできたときは、
アメリカ、ニューヨークでも
「おおっ!」という感じだったでしょうね。
さぞかし話題になったことでしょう。
デルーカさんたちのまわりにも
きっと感度の高いかたがたがいらしたことでしょう。
横川
アーティストも多かったでしょうし、
アーティストと一緒にいた投資家、芸能関係‥‥
常連さんの中にはそんな人々が
たくさんおられたとよく話に出てきます。
感度の高い人が、「あ、いいよね」っていうのを
見出して、そこから自然に広がっていった。
すごく、すごくいいスタートだったんだと思います。
伊藤
横川さんたちがDEAN & DELUCAを
はじめて日本につくったとき、
細かいことは言われなかったんですか。
そういう場合って、本国と揉めるみたいな、
「こんなはずじゃない」と喧嘩になって
やめざるをえないこともあると聞きます。
横川
有難いことにほとんど何も言われなかったです。
うちはそういう意味ではラッキーでした。
最初は悲劇だと思ったんです。
契約後ニューヨークの本店に行くと、彼らは
「え、日本でやるの? 俺たちの店を?」
っていうぐらい誰も知らないんですよね。
当時はもうデルーカさんもディーンさんも
実務からは離れていたのと、
ぼくらとの契約も本社のオーナーが独断でしたことだから、
現場のお店の人たちは全然知らないし、
ぼくらは「何しに来たの?」って言われたくらい。
「日本で1年後にこのくらいの店をオープンするから」
って言うと、「おお、そうか、頑張って」。
「いや、頑張ってじゃなくて、教えてよ」
‥‥ところが、何もないんです、記録が。
1977年に店ができた当時の写真もなければ、
どういう哲学でやってるのか、
どういうルールなのか、
商品のいい悪いは誰が決めてるのか、
全ては経験と歴史の積み重ねになっていて、
何も記録がない。でも唯一ひとりだけ、
DEAN & DELUCAの申し子みたいな
バイヤーがいたんです。
マイケルさんといって、彼だけが頼りだった。
彼と仲良くなったことで、
「なぜ?」を何回も繰り返し、歴史を紐解くことで
徐々に言葉となり考えがまとまっていきました。
POPやショーケースの大きさや形は
全て現場で一から測って図面を描き起こしました。
サンプルも貰えないし、社割もない。
定価で買って日本に持って帰って、
ラベルを見ながら一軒一軒
ベンダー(製造元)に問い合わせて交渉する。

「DEAN & DELUCA JAPANというんですけど」
「え、JAPANなんてあるの?」
って毎回言われながら。
だから、最初は悲劇でしたけど、
でも自分たちでそこからやらなきゃいけなかったことで、
ほとんど自分たちで作ったのと
同じぐらいの労力をかける事ができた。
だからみんなの血になっているんです。
そこからは言われなくても
自分たちで判断できるようになっていきました。
伊藤
マニュアルがないってこと多いですものね。
横川
ないです、ないです。
伊藤
お店を見ろってことですよね。
横川
そうなんです。それが正しかった。
伊藤
技術は教えるものじゃない‥‥。
横川
見て学べ、見て盗め。
そうやってまずは自分たちで必死に試行錯誤した後に、
数年してから改めてデルーカさんとゆっくり会ったことで、
さらにルーツ(起源)や
フィロソフィー(哲学)の理解が深まりました。
伊藤
なるほど、
デルーカさんにますます興味が出ちゃった。
どういう感じのかたなんでしょう?
横川
元々学校の先生だっただけあって
ぼくらの先生のようでもあり、
もう今70代なんですけど、
アーティスティックで思想家なのに
お茶目なところもあったり
ものすごい包容力もあって、とっても尊敬しています。
これ、ディーンさんとデルーカさんです。
77年当時の、
デルーカさんが30代半ばのときの写真です。
ひと世代上のディーンさんと出会い、
先輩の知性や感性に刺激を受けながら
バイヤーでありPRマンとして
ブランドの顔として立っていたようです。
今は授かったばかりのお子様も一緒に、
SOHOの素敵なペントハウスに住まれていて、
たまに伺いますが本当にセンスの塊みたいな生活なんです。
周りにいる人も物も空間も。

▲創業当時のディーンさん(左)とデルーカさん(右)

伊藤
お話をうかがって、いろいろ腑に落ちました。
わたしがDEAN & DELUCAと一緒に
ものづくりがしたいと思った最初の気持ちって、
安心感がある、ということとともに、
「かわいい」ということも大きかったんです。
ちっちゃい頃、父がアメリカ出張から戻ると、
お家とうさぎの型のクッキーを
お土産に買ってきてくれた。
父が伊藤家に入れてくる外国の風、
すごく記憶に残っていて、
横川さんにお願いしたら、
あの思い出ごと込めたすてきなものが

つくれるかもって思ったんです。
横川
最初に、缶の話になったんですよね。
とにかく最初に「缶がいいのよね」
とおっしゃっていた。
缶を喜んでいただけることはあるんですけど、
まさこさんも喜んでくださるんだって、新鮮でした。
伊藤
缶、好きなんです。
横川
それでジャムを試食していただいたら、
プライベートブランドといって、
自分たちでオリジナルで作っているものを
「おいしい!」って言ってくださった。
ものすごく、うれしかったですよ。
ぼくらが美味しいと思うものを販売しているし、
いろいろ年を重ねながら試行錯誤して
たどり着いたものですが、
逆にぼくらの中で普通になってきていたのを、
改めて「おいしい!」って言われて、
ほんとうにうれしくて。
伊藤
最初から、マーマレードとかでも
皮に主張があったりとか、
個性があっていいなって思ったんです。
横川
苦みがあったり酸味があったり。
伊藤
でも、すごくいい意味で、普通で、
ストライクゾーンが広くて、
子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで、
「ちょっとこれ苦手」と言う人が
いない味だなと思ったんですよね。
それがすごくよかったと思っています。
わたしが「ストロベリーはもうちょっとベリー感を」
とかって言うと、次のサンプルは絶対もう
「これです、これ!」と完成していたのにも
おどろきました。
横川
そこからクッキーとジャムの、まさかの掛け算で、
これができあがりましたね。
まさこさんがジャムをクッキーにつけて食べたい、
そのためにちょっと硬いほうがいい、
というような話になったり、
「へえ!」って思うことがたくさんありました。
ぼくらだけじゃ絶対出てこないアイデアばかりです。
伊藤
それも父の思い出で、
アメリカ土産のクッキーって、
フランスっぽいというよりは、
ちょっとだけ硬くて、それもまたおいしくて。
このジャムだったら
あのクッキーにつけて食べれば
きっとおいしいんじゃないかな? って。
横川
クッキーがスプーンのかたちになり、
シンプルだけれどかわいいとおっしゃってくださった
缶に入れてパッケージしたことで、
ちょっとしたかわいらしさも出ました。
ちゃんとDEAN & DELUCAの商品として
自信を持ってお届けできるものができました。
伊藤
デルーカさんに食べてほしいな。
横川
そうですね。お届けしておきますよ。
伊藤
ぜひ!
これから、お店はどうされていくんですか。
もう変わらず、よいものを集めて?
横川
ちょうどお正月に、その話を
社員のみんなとしてたんです。
いい意味で自分たちをもう一回磨き直そう、
既存を磨き直そう、というふうに考えています。
お店の数も、チェーン店ほどじゃないにしても、
それなりに数も増えて、商品も充実してきました。
ぼくらは「人がいないとできないこと」を
やってるんですけど、
だからこそ常に人自身の考える力を
磨き続ける事が必要だと思うんです。
創業時に挫折した生鮮食品も取り扱ってみたいです。
最近、小さいですけど、
広尾にもお店を開けたんです。
メイン道路の外苑西通り沿い、広尾プラザです。
今までは駅とか百貨店が多かったんですけど、
もっと生活に近いところで、
DEAN & DELUCAとして
長く続けられたらいいなと思って。
今でもお惣菜をつくるために
全店にキッチンがあって、
全店に料理人がいて、そこで作っています。
これまではおおむね
全店統一メニューでやってたんですけど、
統一じゃなくていいのかもしれないねって
話しています。
スタンダードなラザニアは変える必要ないけど、
料理人がいるんだから、
季節のサラダはそれぞれシェフがやればいいし、
季節で、地域で、値段も内容も違って
いいんじゃないかなって。
それぞれの店にちゃんと職人がいて、
目利きがいて、お伝えできて、お届けできるように
さらに磨きをかけたいねって考えています。
そういう意味での「もう一回磨き直そう」。
商品一個一個もね、長く活躍してくれている選手は、
いい意味でもっとブラッシュアップしていこうって。
そうすれば、より愛情を込めて
扱うことができるようになると思います。
それと、ぼくらは年末に
おせちを販売しているんですけれど‥‥。

▲2018年秋にオープンしたばかりの広尾店

伊藤
おせち?! イタリアンなんですか。
横川
和洋折衷なんです。
三段のお重になっていて、
壱の重が九つの升目に和のおせち。
黒豆とか数の子とか、だし巻き卵や栗きんとんなど、
日本の各地のつくり手さんから届く伝統の祝い肴を。
弐の重は同じ升目に
うちのシェフたちがつくる
サーモンのマリネとか鰯のコンフィ、
豚のリエットなどのオードブルやキャビアも詰めて、
参の重はお肉料理やパイなどの
メインディッシュになってるんです。
ちょうど10年ぐらい前に始めたんですよ。
このときも、おせちのルーツを一から勉強して、
食材や料理に意味があること、
地域ごとの歴史があること、
その上で自分たちのこだわりやうちらしさを詰め込んで、
クラシックだけど新しい
真っ白な三段のお重の形になったんですね。
十数台から始めて、
今、およそ500台ぐらいまでになりました。
当たり前ですけど、冷凍することなく、
29日からつくりはじめ、30日の夜中に詰めて、
出来立てを31日にお届けしています。
もうこの数より増えると、できないんですよね。
毎年、お祭り事のように
一年を無事に終えられることに感謝しながら
みんなで作るんです。
お重は翌年再利用できるので、
半数以上のかたがリピーターで、
前年までに購入されたお重をお持ちになります。
環境のことだけじゃなくて、
こういった昔ながらを続けるということを大切にして、
毎年この再利用の取り組みを続けています。
すごくありがたいことだと思っています。
伊藤
はい。今年の年末はお願いしようかな?
横川
ぜひ!
伊藤
横川さんは、最初にうかがったライフスタイルショップ
「GEORGE‘S」や「CIBONE」をはじめ、
いろいろな事業を展開なさっていますよね。
食まわりも今後なにか増えるんでしょうか。
横川
2020年をめざして
いくつかのプロジェクトが進んでいますよ。
せっかくたくさんの素晴らしい
つくり手のみなさんにお会いできるので、
こだわりの食材や職人さんと
お店やイベントもやりたいなと。
この間は東京に毎朝その場で
モッツァレラやブラータというチーズをつくる
GOOD CHEESE GOOD PIZZAという
レストランをつくったんですよ。
デザインのほうも、このあいだ、
HAY TOKYOという
デンマークのデザインブランドのお店を
表参道のGYREのB1階に
期間限定でオープンしました。
伊藤
うわぁ。横川さんの動向、ますますたのしみです!
‥‥なんだか、わたし、今日、
「はい」、「へぇー」ばっかりだったかも?(笑)
でも、いいや、横川さんのこと、
DEAN & DELUCAのことを知ってもらうのに、
とってもよかったと思います。
たくさんお話しくださってありがとうございました。
横川
こちらこそ、ありがとうございました。
これをきっかけに、いろんなたのしいもの、
これからも一緒につくりましょう。
伊藤
はい、ぜひ!

横川さんにお会いして

伊藤まさこ

DEAN & DELUCAに一歩足を踏み入れると、
気づかぬうちに、
自分がごきげんになっている。
このわくわくした気持ちは、
いったいなんなのだろう?
ずっとそう思っていました。

「おいしいものは人を幸せにする。
私たちはそれを伝えたい」

デルーカさんが横川さんにおっしゃった、
この一言で
ああ、そうだったのかと腑に落ちました。
このものすごくシンプルな言葉は、
DEAN & DELUCAという店を物語っている。
だってその思いが店中に漂っているもの。

本国の店の形をそのまま持ってくるのではなく、
受け継がれているのは、
ディーンさんとデルーカさんの哲学。
日本だから、
日本でなくてはできない店作りを、
これからもたのしみにしていますね。

デルーカさんに会いに。

未分類

伊藤
DEAN & DELUCAの日本での展開に悩み、
ニューヨークに相談に。
デルーカさんは、どんなアドバイスを
くださったんですか?
横川
彼はこう言いました──。
「25年前に始めたとき、
イタリアとかヨーロッパの
本当に歴史のある食文化を
ちゃんとアメリカの人に伝えたかった。
おいしいものは人を幸せにするって
本当に知ってたから、それを伝えたかった。
君たちは、ヨーロッパに負けないくらい歴史のある国だ。
素晴らしい食文化があるのだから、
アメリカなんか真似しないで、
共感できるヨーロッパの
地中海気候風土の食文化を探りながら、
日本の食卓に世界のおいしいものを
素直に届ければいい。
アメリカなんか経由しなくていいんだよ。
DEAN & DELUCAは別にアメリカじゃない。
DEAN & DELUCAはDEAN & DELUCAだ。
フィロソフィーを共有すれば、
あとはその思想で世界を見ればいいんだ。
パスタやオリーブオイルばかりでなくて、
足元にある日本の蕎麦も醤油も味噌も、
絶対に置いたほうがいいよ」
そう言われて、ぼくら、その当時までは、
日本食を並べるというのが、
なんだか気恥ずかしくてできなかったんです。
でもその言葉で曇ってたものがパッと晴れて、
和菓子を置き、醤油、味噌、お酢を置き、
パスタの横に蕎麦を置きっていうことが
できるようになった。
そこから、でしたね。
伊藤
お客様の流れも変わりましたか。
横川
変わりました。変わって、しかも偶然にも、
バッグが売れるようになったんです。
資金がもう尽きそうだというギリギリのとき、
最後の挑戦だと日本食を置いた頃に、
バッグが売れはじめた。
「もっと頑張れ」と言われてるかのように、
後ろから神風のように、ブームになったんです。
あのおかげでぼくらは生きられた。
思いを曲げずに、伝わるまで時間がかかっても
地道にやろうっていうことをやり続けられたんです。
伊藤
デルーカさんと会い、その哲学を聞き、
悩んでいた状況から、パッと霧が晴れた。
当時、横川さんはおいくつぐらいだったんですか。
横川
DEAN & DELUCAを立ち上げて
5年目に差し掛かる頃ですから、
34歳ぐらいですね。
伊藤
年齢は関係すると思いますか?
もしそのときもっと若かったら、
デルーカさんの言葉を素直に聞けず、
日本食を置くという判断が
できなかっただろう‥‥とか。
横川
そうかもしれないです。
ちょうど、社会人になって10年目ぐらいで、
海外に憧れグルグルやってるうちに、
日本をちゃんと知らない自分が
ちょっと恥ずかしくなった時期でもあったし。
伊藤
外国にいた時間が長いですよね、
横川さんは。
横川
高校時代に1年オーストラリアに住んで、
就職したあと、また1年の半分くらいが
アメリカと行ったり来たりだったんです。
そんなふうに海外の生活を何年か経験して、
行くたびに日本のこと聞かれるのに、
実は日本のことをあまり答えられなかった。
だからまた余計に海外に夢中になって、
海外のものを日本に持っていくことで
自分をごまかしていたところが
あったのかもしれませんね。
それが30代半ばになって、
少しこう、浮いてた片足が着いて。
ちょうど世の中の傾向としても、
「日本をもっと知ろう、日本をもっと世界に届けよう」
みたいな気持ちに向き始めていたと思います。
そのときのことは今でも覚えています。
伊藤
人を集めるのも簡単じゃないですよね。
「経験者求む」といっても、
そんな経験をした人はなかなかいないでしょうから。
横川
それこそ「外食はやったことあるけど、
中食ってデパ地下でしょ?」みたいなイメージで、
「そもそも料理人が働くとこじゃないよね。
ずっとバックヤードで揚げ物揚げてるんでしょ?」
みたいに思われたり、
「食物販って、どこで? スーパー?」と言われたり。
ぼくらも説明がうまくできなかった。
だって、同じものがないから、
だからこそ今があるんですけど、
最初、理解してもらえるまでは大変でした。
それでも、ありがたいことに、
1回中に入って、楽しいと思った人とかお客様が
「一緒にやろう」みたいに人が人を呼んでくれて。
そこからはチームの渦のような力がすごかったです。
みんな、会社がどうこうとか、働き方どうこうとか、
もう本当にそんなの関係なく、
ウワーッと勢いにのってやってた(笑)。
当時からのメンバーは、今も多く残っています。
伊藤
世の中の食をめぐる環境も、
お仕事を始められてからずいぶん変わったでしょうね。
そんななか、ぶれずになさってきたこと、
すごいと思います。
横川
DEAN & DELUCAをはじめていっときして
中国餃子の話とか、狂牛病の話とか、
食べ物を通して不安になるような事件・事故が
けっこう起こりましたね。
そのあと震災があって、いろんな意味で
時代がどんどん本質に向かっていったし、
そこに必ず食はあった。
安心安全みたいなことは別にぼくら、
とくに言ってないんですけど、
逆にいうと、それが当然ということを
ナチュラルにデルーカや
作り手の人たちに教わったんです。
その原点は、量じゃなくて
当たり前に質が手元にあった田舎の市場です。
都会を見ないで、田舎に学びに行きなさいって
教えていただいた、そこからはじまってるので、
ぶれることはありませんでした。
伊藤
素晴らしい方たちですね。
横川
そうなんです。人としてとても尊敬しているし、
何ていうんですかね、師匠みたいなところがあって。
師匠というか、おじいちゃんかな?
伊藤
ディーンさんもデルーカさんもご健在なんですか。

▲ディーンさん(右)とデルーカさん(左)

横川
デルーカさんはご健在です。
ディーンさんはもう一回り上で、
ぼくらが始めて3年ぐらいのときに
残念ながら亡くなられちゃったんです。
ディーンさんのほうが怖いんですよ。
デルーカさんはもともとチーズ屋から始めて、
ディーンと出会ってDEAN & DELUCAになるんですけど、
ディーンさんはもともと編集者なんです。
それこそオペラから芸術から食に至るまで、
ものすごく知識と教養のある方で。
伊藤
それは知らなかった。編集者だったんですか。
横川
そうなんです。
「君はこんなことも知らないでここにいるのかい」
ってこと上からドーンと言われる感じ(笑)。
伊藤
お2人はどういう役割分担を?
横川
DEAN & DELUCAは「食のビートルズ」だと
昔「ニューヨーク・タイムズ」に
書かれたことがあるんです。
ディーンさんはDEAN & DELUCAにおいて
クリエイティブディレクターとコンダクター。
そのパートナーのジャックさんがアートディレクター。
デルーカさんはマーチャンダイザーで広報担当。
イタリア系なので元気でおしゃべりなので。
で、もう1人はフィリップという料理人で、
とにかく感度の高い4人の
セッションのようなお店だったそうです。
──
仲のいいチームなんですね。
横川
そうなんです。
アートディレクターのジャックさんがいたから
DEAN & DELUCAのこのロゴが生まれたし、
食が主役で、それ以外のすべてのデザインは
そこに恥じずに静かに支えればいいという、
ミニマリズムのデザインを貫いた人なんです。
当時のぼくらが
「なんかDEAN & DELUCAっていいよね」
って感じたのは、ディーンさん、デルーカさんの後ろに
ジャックさんの力もあったんですね。
それはあとから知るんですけど、
食の世界にここまでの人が一緒にいるってことが
それまで、なかったんだと思うんですよね。
そんな4人組が、
周りにはアートギャラリーばっかりの
倉庫街のソーホーに突然生まれたわけです。

紆余曲折の船出。

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伊藤
ニューヨークのDEAN & DELUCAは、
最初から今の場所にあったんですか?
横川
1号店はソーホーなんですけれど100坪ぐらい、
いまのミッドタウンにある六本木店ぐらいの
大きさだったんです。
それが今、4倍ぐらいの面積になっています。
ブロードウェイに面して今の場所に移動したのが
創業して10年後のことだったそうです。
伊藤
そうなんですね。
横川
当時、ロケーション的にもソーホーが
ドッと世界的に注目されはじめていた。
だからロケーションもタイミングも
いろんなものがバチッと合って、
一気に話題になったんです。
1軒のグローサリーが世界中に知れ渡った。
すごいことが起きたんですよ。
伊藤
本国から日本出店の話を持ってきてくださったとき、
彼らはどういう状況だったんですか。
つまり海外進出をすでにしていて、
次は日本にも、という状況だったのかしら。
横川
いや、海外進出もしてなかったですし、
その時点でも本当は
するつもりもなかったそうなんです。
いまだってDEAN & DELUCAは
アメリカに6軒しかありません。
中でも、ソーホーと、ナパのお店を知ってる人はいても
それ以外はほとんどどこにあるかも知らないくらい。
伊藤
え?(笑)
横川
DEAN & DELUCA本体は
日本に進出するつもりがなかった。
でもその商社の、アメリカ駐在員が、
すごくやんちゃな人で、
DEAN & DELUCAが大好きで、
これをなんとか持ってきたいって思ったんです。
その商社は主に繊維が強い会社だったんですが、
「これからは絶対、食だから、
絶対日本に持っていきたい」と、
DEAN & DELUCAの当時の社長を口説いて、
「そこまで言うならば」みたいなふうに
とくに準備がないことも承知でOKをもらった。
そのときの条件が
「食べ物屋であること」だったんですね。
でも有難い話でしたが、
ぼくらはそんなことができる規模も経験も
なかったわけです。
伊藤
それでお父さまに相談を?
横川
そうなんです。
父も外食の次に
ライフスタイルが大切だと考えていたので
話を聞いた途端に「やろう」と一つ返事だったんです。
ぼくはどっちかというとその当時
まだ家具屋のほうが大変だったので、
「手伝うよ」ぐらいの気持ちだったんです。
「とうさんがやったら? 規模が違うから。
商社とか、わかんないし」って(笑)。
ところが、ありそうで無かったこの業態は
想像以上に難しくて、
立ち上がって半年で私が引き継ぐことになったんです。
名も無き家具屋のぼくらが
巨大な商社と合同で会社をつくることになりました。
それがDEAN & DELUCA JAPANです。
伊藤
ようやく船出。
東京の1店舗目は‥‥。
横川
丸の内です。
新丸ビルがまだできる前の、
仲通りがまだオフィス街だった頃の丸の内で
カフェをはじめました。
その半年後に渋谷の「東横のれん街」という、
日本で一番古いデパ地下の発祥といわれる
本当に老舗しかいないような
屋内の食品街に2軒目。
3軒目が、品川ですが、
まだ新幹線の駅が開通する前の港南口です。

▲創業当時の丸の内店

▲渋谷店

伊藤
当時の品川駅の港南口は、
いまとはぜんぜん違う、
殺風景とも言えるくらいの印象でしたよね。
そこに!
横川
そんなとんでもないとこに店を開けたので、
最初、全然お客さんは来ませんでした。
でも、今になってみると、
ありがたくいただいた場所だったと思います。
伊藤
場所は、どうやって決めたんですか。
丸の内も品川も、いまの活況を見据えて?
横川
それが一流商社のすごいところなんです。
そこに出そうと提案してくれた
先見性はすごいなと思います。
丸の内やJRが考えていること、
10年先ぐらいを見据えた開発のことをわかっていた。
今やみんなが出店したいっていう場所に、
いいご縁でそのままいさせていただいてるので。
伊藤
そんな3店舗の立ち上がりは
順調な立ち上がりだったんですか?
横川
いやいや、とにかく大変でもう火の車でした。
家具屋を当時15店舗ぐらいやってたんですけど、
その全利益を回しても回らないぐらいの赤字経営でした。
3店舗しかないのに。
伊藤
多分、DEAN & DELUCAのようなお店を
待っていた人は多いと思うんです。なのに‥‥。
横川
そうなんです。
待っていてくださったかたは多かったんですけど、
場所が丸の内の果てのほうと、
新幹線が停まっていない品川でしたから。
のれん街は売れていましたが、
その2店舗は全然ダメ。
とくに大きな品川が一番厳しかった。
でも、立地ということだけではなく、
ぼくらが本場のDEAN & DELUCAに憧れ過ぎて、
ニューヨークのまんまやろうとしたことが、
ダメだったんだと思います。
伊藤
「まんま」というと?
横川
イタリア系アメリカ人が
ニューヨークで感度の高い人びと向けに
選んだものをそのまま持ってきたわけです。
例えばコーヒーはそもそもサイズが大きいし、
アメリカから2か月もかけて船便で来るので、
鮮度も落ちている状態でした。
惣菜は「グラム」じゃなく「パウンド」で量るし、
POP(展示する説明文)は全部英語。
当時は野菜も肉も魚もやったんですけど、
肉はそれこそ鳩が羽毛をむしられた状態で並んでて。

▲生鮮食品を扱っていた、当時の品川店

伊藤
その記憶、ないなあ!
横川
ほんとうに最初の頃ですね。
ジビエがへっちゃらで並んでて、
魚も切り身じゃなくて、
一尾ずつダーッと並んでて。
伊藤
あ! それは覚えています。
格好いいけど買いにくいんですよね(笑)。
横川
今だったら、みんなに
インスタグラムにあげてもらいたいくらい
格好よかったんですよ。
でもね、ぼくが建築出身だったので、
そういうところから入っちゃったのかも。
やり過ぎちゃった。
それこそ料理する人からしたら、
「どうすんの、この鳩」みたいな(笑)。
伊藤
それに、量も多い。
横川
やっぱり食生活もリズムも、
コーヒーだって飲む量も頻度も全部違うのに。
好きか嫌いかといわれたら好きだけど、
アメリカ人が飲むほどの量は飲まない。
かつ鮮度に対してはもっと敏感。
となったら、量を小さくして、
単価も下げて、買い回ってもらわないと。
「この大きいのがアメリカっぽくていいよね」
って言ってるのは旅行してるときだけで、
普段の生活はそうじゃないよねって。
伊藤
そうです。持て余しちゃったりとかするし、
毎日コーヒー飲みたい方は
半分の値段で2回に分けて買うほうがいいですもんね。
横川
そうそうそう。そんなことをちょっとずつ
調整していきました。
最初はコーヒーを変えて、お塩の量り売りを始めて、
そのうち、今回、一緒につくらせていただいた
ちいさなサイズのジャム瓶が生まれたんです。
そうそう、その日本発のコーヒーですが、
トーキョーブレンドという、
ピンク色のパッケージだったんですね。
これまたすごく揉めたんです、アメリカと。
シルバーかブロンズか黒か白、
それがブランドカラーなのに、
東京は「ピンクだ」って。
なぜかというと「桜だから」。
海外の人が東京に来たときに、
逆に東京のお土産として買って帰ってうれしいねって。
これが思った以上に売れたんですよ。
アメリカから輸入したコーヒーはみんなでかいのに、
トーキョーブレンドだけちっちゃくて、
ほかは全部ホールビーンなんですけど、
それだけ挽いてあってすぐに使えるし、
日本でローストしているから当然フレッシュで。
その経験で「ああ、やっぱり」となって、
コーヒー豆のシリーズのサイズを
全部小さく変えました。
伊藤
そこからは、事業は上向きに?
横川
いえ、まだまだでした。
ミッドタウンにある六本木店ができたのが
それから5年後なんですけど、
全然うまくいかなくて、
デルーカさんに会いにニューヨークに行ったんです。
「日本でうまくいかないんだけど、
何故なんでしょう」って。
すると彼はこう言ったんです。

「日本でやりませんか?」

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伊藤
丁度その頃雑誌でもCAFEが特集されたりと、
話題になるお店が増えていた頃ですよね。
横川
そうなんです、個性あるカフェが人を惹きつけ
話題になっていました。
オーナーが惹きつけるのか、
そこに来ている人たちが
お店の空気を作っていましたね。
それでちょっとしたブームになって、
話題のカフェの前に
1時間も並んで入るみたいなことに。
伊藤
それまで、そういう店がなかったですもの。
横川
そのような流れの中で、
うちのお店づくりを相談したり
北欧や東欧、ミラノやニューヨークなど、
いろんなところに買い付けやリサーチに一緒にいきながら、
色々なことを教えてもらっている方から
「DEAN & DELUCAが日本でやりたいという話があるんだけれど、やらない?」て。
伊藤
!!!
そういうことなんですね。
横川
そりゃやりたいけれど、
家具屋を始めてまだ3年目ぐらいですから、
資金も余力もない。
そこで父に相談したんです。
伊藤
ここでお父さまが登場!
横川
そうそう。
外食はやりたくないけど、
これは中食(なかしょく)だし‥‥。
伊藤
外食と中食は違うんですね。
横川
そこで食べるのが外食、
お惣菜を持って帰るのが中食です。
家具屋をやっていると、
家でご飯を食べることって大事で、
自分の好きな家具・雑貨・空間・音楽が
自分の家にあるとしたら、
きっと自分の家で料理したくなるし、
なかなか自分だけじゃ作れないときは、
おいしいお惣菜があったらうれしい。
男でも料理したくなっちゃうようなスーパーとか
グローサリーがあったらいいよね、
みたいな思いがありました。
だから「なんでDEAN & DELUCAみたいなお店が
日本にはないのかな」って思っていたんです。
伊藤
なかったですよね。
ああいうものは、外国に行かないとなかったです。
わたしは、マーサ・スチュワートの本だったかな、
メディアを通してDEAN & DELUCAを知り、
こんなにかわいい、
こんなにワクワクするお店があるんだ!
と思って、おどろきました。
横川
DEAN & DELUCAに限らず、
市場と街がそんなに離れていない感覚は、
外国のほうが強くありましたよね。
日本はスーパーマーケットの流通が
うまくいきすぎたのかもしれません。
そこがものすごくドライに広がっちゃった。
向こうは昔ながらの生々しい市場っぽい、
食材がとにかくそのままの姿で
山盛りに積み上げてあるみたいな、
そんなスーパーが当時もあったし、
それがより洗練されて、
セレクトの妙が立っていたのが
DEAN & DELUCAだったと思います。
伊藤
ニューヨークでもやっぱり先端だったんですよね、
DEAN & DELUCAって、きっと。
あちらでも、食のセレクトショップというのは、
それまで、あまりなかったと思います。
横川
なかったんだと思います。
ニューヨークは、ある程度
人種ごとに住むエリアが決まっていて、
ジューイッシュの人たちが多いエリアとか、
イタリア系の人が多いエリアとかいろいろある中で、
ソーホーという、もともと倉庫のエリアが、
いろんな人種の混ざり合った
アーティストエリアになっていくところだった。
そこに、もともとイタリア系だった
デルーカさんが来た。
リトル・イタリーだと
イタリア系食材しか並びませんが、
開拓エリアだったから、
感度のいいお客さんに向かって
美味しいものを並べた。
ジューイッシュ、イタリアン、
フレンチとかではなく。
伊藤
食の感度の高い人が、
それまで地域ごとに探しに行っていたような
めずらしくていい食材が、
ソーホーのDEAN & DELUCAに集まったんですね。
リトル・イタリーに行かないといけなかったものが、
ここで手に入る、みたいな。
横川
地域ごとにはマニアックないい店が
たくさんあったんですけれど、
そのボーダーを超えて、ライフスタイルで
セレクト‥‥というよりも、
編集をする、みたいなことを、
彼らは、初めて「食」でやったんだと思います。
伊藤
美意識と、おいしいということを軸に、
国境を取り払って。

DEAN & DELUCA

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建築の「コンテンツ」をつくりたい。

未分類

伊藤
昨年から横川さんの率いる
DEAN & DELUCAのチームのみなさんと
いっしょに商品開発をすすめてきて、
ほんとうにおどろいたんです。
「こんな感じかな‥‥」というわたしの
かなりあいまいなリクエストに、
「こういうことですね!」と、
最初から明確な提案をしてくださって。
横川
ああ、うれしい、よかったです。
ぼくら、ドキドキしながら試作をしていたんですよ。
伊藤
そもそも、横川さんが日本で
DEAN & DELUCAを運営しているということや、
日本側のチームがここまできちんと関わって
お店や商品をつくっていること、
あまり知られていないですよね。
DEAN & DELUCAが日本に上陸して
何年になるのでしたっけ。
横川
15年になりました。
伊藤
15年! そんなに。
横川
そうなんです。
でも、まさこさんたちみたいに、
ニューヨークのDEAN & DELUCAを
むかしから知ってくださってる人たちからしたら、
相当、後発組なんです。
なにしろブランドそのものはもう40年になるので。
かくいうぼくも、DEAN & DELUCAのファンでした。
周りの人がDEAN & DELUCAのバッグを
ニューヨーク土産にしたり、
どんなに素敵な店か、話を聞いたりしていました。
ぼくは当時デザインの仕事をしていたので、
買い付けでニューヨークに行ったとき、
やっと訪ねることができたんです。
伊藤
デザインをなさっていたんですか?
そもそも「横川さんって何者?」って、
お読みになるかたも、疑問かも。
ただの実業家じゃなさそうだって。
横川
あ、ごめんなさい(笑)。
ぼくが何者かっていうと、
もともと大学で建築を勉強していたんです。
都市計画をやりたくて、
高校生のころから目指していたんですね。
でも、学校では建物を建てる勉強しかしない。
建物の中にどういう暮らしがあるのかとか、

どういう人の生活があるのかとか、
いまでいう「コンテンツ」ですね、
その発想のない人たちが
建物を建てて街をつくっていることに
非常に違和感があって。
料理を作ったことない人が
調理道具をつくってるみたいなことですから、
おかしいって思ったんです。
たまたま父が外食の仕事だったこともあり、
やっぱり中身に興味が湧いてきて、
建物の中身を作るほうをやってから
建築の仕事に戻ろうかなと思いました。
大学を出たときちょうどバブルもはじけて、
あまり建築の仕事の求人もなかったので、
といって急に飲食にも行けないから、
家具・雑貨の業界に入りました。
じつはぼく、アンティークの家具屋で、
高校のときから働いていたんです。
そこでは当時の
ブリティッシュ・アンティークをはじめ
ヨーロッパのものを扱っていました。
港区の素晴らしい邸宅に家具をお届けするんです。
ぼくの担当は磨きの仕事だったんですけど、
そういうインテリアの世界が好きだった。
だから家具屋に勤めたんですね。
ところが家具屋さんって全然お客さんが来なくて!
数年して、経営の見直しがあり、
20店舗くらいあったお店の
立て直しをしようというとき、
いろいろあって、自分が代表になり、
独立したんです。
それが「George’s」というインテリアショップです。
いまも続いていて、今年で30年になるんです。
伊藤
なるほど!
横川さんがDEAN & DELUCAのほかに
「CIBONE」(シボネ)という家具インテリア、
生活雑貨のお店をなさっていることは知っていましたが、
その原点が、そこにあったんですね。
横川
そうなんです。
伊藤
食品関係は、いつから?
横川
自分たちでお店をはじめてからも
最初はなかなかお客さんが来てくれなくて、
「お店に立ち寄るきっかけとして、
横にカフェがあったほうがいいね」と。
そこで、家具とか雑貨だけでなく
もう少しリアルに生活やスタイルを意識して
お店をつくりたいと想像する中でCIBONEが生まれ、
その隣にカフェをつくったときからです。
伊藤
それが何年ぐらい前のことですか?
横川
17、8年ぐらい前です。
ぼくはまだ27歳でした。
伊藤
お父様が外食のお仕事だったということですが、
同じ「食」でも、そちらに行こうとは
思わなかったんですね。
横川
今では食の仕事は大好きですけれど、
当時は父親に反抗して、
外食を仕事にしたくなかったんです。
それより
「これからは、デザインだ」って。
父からも手伝えと言われたことはなく、
逆に「関わらせない!」って(笑)。

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