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ほぼ日刊イトイ新聞

2020-04-12

おしらせ

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ともだちどうしが集まりたがっている。
 ぼくだって、そういう気持ちはたっぷりある。
 リモート会議だとか、リモート飲み会だとかする方法も、
 あることは知っているし、ぼくの想像していたよりも、
 ずっと豊かだということも、わかるような気がする。

 ただ、いまの段階では、まだ、この「望まぬ孤独」を、
 「あってよかった孤独」の時間にしたいと思っている。
 テレビやインターネットの情報も減らすけれど、
 人とむだ話するたのしい時間も、あえて、
 もう少しがまんをしてみようかと思いはじめている。

 人は人と集まりたいのだ。
 集まりたいに決まっているのだ。
 集まることで、じぶんやじぶんたちの美点やら、
 気のおけないアホさやら、意外に尊敬できることやらを、
 言い合ったり認め合ったりできる。
 じぶん自身にも理解できてないような考え中のことも、
 家族に聞かれても困るようなないしょ話さえも、
 仲間たちと集まってあれこれ交換しあいたいのだ。
 それはもう、世界中がやりたくてもできないでいること。
 阪神ファンも、浦和レッズファンも、アニメのオタクも、
 アイドルのファンも、食べ歩き仲間も、お笑いマニアも、
 右翼も左翼も、宗教の信者も、ダンスのチームも、
 だれも集まれないまま、できるかぎりじっとしている。
 デモや集会が禁じられているのとはちがう。
 「集まらないほうがいい」と自主的に判断しているのだ。

 仲間同士、身内同士、同じ趣味の集いというのは、
 言ってはいけないことも言えるし、憂さ晴らしにもなる。
 閉じた世界ならではの言いたい放題ができる。
 それが、すべて自粛で、言えないでいるから、
 他人のたくさん見ているところに漏れ出すことになる。
 世の中がギスギスしてきてネットが荒れるのも、
 集まりが不可能になっているせいもあると思う。

 しかし、こういう状況で、どういうふうに過ごせるのか。
 ちょっとじぶんに試練を与えてみたい気もするのだ。
 集まれなくても「おちついて、やることをやる」。
 そういう練習をしてもいいんじゃないかと思うのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
集まることをたのしめるのは、ひとりを知っているから。


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