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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-02-22

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・じぶんがいつの時代に、どこで生まれたかということは、
 じぶんで決めたことじゃない。
 生まれてから、「あ、そうか」と知ることである。
 この時代に、ここに生まれてよかったなぁと、
 少しでも思える人はおおむね幸運だったのではないか。
 同じ時代でも別の場所で生まれたら人生はちがっていた。
 同じ場所でも別の時代に生まれていたら、これもちがう。
 ねぇ、じぶんで決められなかったことなのに、
 ものすごく大きなちがいになるんだよなぁ。

 いまも、どこかで新しいいのちが生まれている。
 日本のどこかで生まれたこどももいるし、
 たとえば南米のどこかで生まれたこどももいる。
 ロシアで生まれる、アメリカで生まれる、
 どこでも新しい人がおぎゃーと生まれ出ている。
 やさしい両親のところで生まれた人、よかったなぁ。
 困った親のところで生まれた人もいるにちがいない。
 不公平じゃないかと思うかもしれない。
 たぶんそうなんだ、ほんとに不公平なんだと思う。
 いつ、どこで生まれるかは、ぼくにも、きみにも、
 だれにも、どうすることもできない不公平だろう。
 いままでもそうだったし、これからもそうだろう。

 じぶんが、あの時代のあの場所で生まれてたら、
 と想像したことがあるだろうか、ぼくはある。
 たとえば、新しい大河ドラマがはじまるたびに、
 この時代に、じぶんはどう生きていただろうと思う。
 なにかのドキュメンタリー番組を見たときも、
 この国に、ぼくは生きていられるだろうかと考える。
 だいたい、世界の国のことばをぼくはしゃべれないから、
 ついついそのことを勝手にストレスに感じて、
 もうそれだけで臆してしまうのだ。

 なんでこういうことを書きはじめたのか、
 ぼくにもよくわかっていない。
 ただ、前々からよく思っていたことなのだ。
 どういう時代に、どこで、どんな家に生まれたのか。
 これが、どれほど大きなことなのか、人は忘れている。
 いま、こうしてこの短文を読んでいられる人は、
 いろいろあるかもしれないけど、やや運のいい人だと思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
もうひとつあったな、ハエじゃなく人間として生まれたこと。

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