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ほぼ日刊イトイ新聞

2023-12-07

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・いろんなことを言ったり書いたりする場合、
 だれに向けて言ったり書いたりしているのか、
 それほどはっきりしてないことも多い。
 しかし、たいてい、半分はじぶんに向けて言っているのだ。
 いまも、「不安定」についての短文を書こうとしている。
 書きはじめる前に、あっ、
 これはじぶんに言っておきたいことなのだなと思った。

 「行動は判断の停止である」ということばがある。
 高校生くらいのときに知って、おおすげぇと思った。
 当たり前といえば当たり前のことではある。
 ずっと判断を続けていたら、行動に移すことなどできない。

 それと似ているような気がするのだが、
 「不安定が動きをつくる」ということを感じている。
 むろん、これも当たり前のことではある。
 人が歩くというだけでも、一方の足を前に上げて、
 片足だけが地面に着いているという状態がある。
 前に倒れそうな一本足の状態が繰り返されるのが、
 歩くという簡単そうな行動である。
 動かず止まっているだけならある程度の安定はあるが、
 歩くだけのことでも不安定が必要なのだ。
 これが走るという行動になると、もっと不安定になる。
 両足が地面に着いていない瞬間が繰り返されるのだ。
 こんなことを、だれかに教えたくて言ってるわけでもない。
 やっぱりじぶんに向けて「覚えておけ」と言ってるのだ。 
 人は(つまりわたしは)「安定」を求めるように生きる。
 ただ、最終的な安定とは
 生きものとしての活動を止める「死」だ。
 不安定をどんどん取り込んでいくことが生きることだ、と。
 そういうことを、じぶんに言っておきたいのである。
 走るどころか歩くだけでも、不安定なのだ。

 不安定から安定へ、安定から不安定へという循環が、
 動くということ、活動するということ、生きること、
 遊ぶということ、集うこと、交わるということ、
 すべての場面で行われているはずなのだ。
 そこまで考えていても、不安定に対する「怖れ」があって、
 人は(つまりわたしは)それを選ばないようにしてしまう。
 だから、こうやって書いておきたくなるんだろうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
だいたい二足歩行の不安定さから、人類は変化してきたんだ。


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