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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-09-19

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「成功するか失敗するかに関係なく、やる」
 ということがある。
 考えてみたら、有名なクーベルタン男爵の
 「勝つことではなく参加することに意義がある」
 ということばも、もしかしたら、
 似たことを言っているのかもしれない。
 「やったほうがいい」と信じてやることは、
 勝ち負けも損得ももちろん超えて、
 心に大きく満たされるものがある。
 子どもが勝手に遊んでいる姿というのも、
 「成功するか失敗するかに関係なく、やる」
 ということの連続だ。
 うまく描けなくたって絵を描くし、
 きれいになるとか考えもせずにお化粧してしまう。
 書き順やら鏡文字やらを気にせず文章を書く。
 いま見ているダンスをそのままいっしょに踊る。
 歌詞をまだおぼえていない歌を歌う。
 たぶん、いずれ、大人に近づく過程で、
 「うまくできないからやらない」であるとか、
 「バカにされるからやりたくない」とかも言い出す。
 あれこれ考えずにやっている状態はかっこいい。
 そう、心がよろこんでいる感じが伝わってくる。
 「これが正解かしら」「これで上手に見える?」
 なんて様子見ながらやっていることはたのしそうじゃない。

 それなりに勝手なことをやっているようなぼくでも、
 実際にはそうとう不自由に、あれこれ疑いながら、
 恐る恐るやっているようなことばかりである。
 いや、「ばかりである」というのは話を盛りすぎだけど、
 子どもの「遊んでいる」からは、ずいぶん遠いと思う。
 それでも、さまざまな場面で、
 「これはやったほうがいい。やろう」と思うことを、
 ときには無謀に、ときには慎重にやってきた。
 そういうことには、成功だの失敗だのにほんとに関係なく、
 つくづくやってよかったと思えるうれしさがあるのだ。
 思えば、たとえば「ほぼ日」なんてものを
 「やる」と言って「やりはじめた」ことも、そのひとつだ。
 じたばたしながら「MOTHER」シリーズをやったことも。
 いま現在も、「やる」つもりのことが、いくつかある。
 おそらく、これは「やる」ことになるのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「分別(ふんべつ)」とは、ありがたくも残念なものだな。


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