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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-07-18

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・たぶん、日常的に文章を書いている人なら
 思い当たるだろうが、どんなときでも、
 なにかに対しての不平不満だとか、賛成できないことなら、
 いくらでも探して書くことができる。

 だいたい、世の中というのは不都合でできているのだ。
 好きなときに好きなものが食えるわけでもないし、
 他人はあなたの言うことを聞いてくれないし、
 お天気ひとつにしたって、思い通りになるわけもない。
 身体はあちこち痛かったり渋かったりするし、
 やった仕事をほめてくれる目の高い人もいない。
 だいたい人は、あなたをちやほやしてくれないし、
 あなたの好きな人は、あなたのことを好きでもない。
 というような調子で、気に入らないことを探してたら、
 なにかの小文を書くためのネタなんて、
 魔法の壺からもくもくと無限に出てくるだろう。

 だけど、この壺のなかに手を突っ込んじゃだめなのだ。
 いったんそれをやると、それは、もう、
 癖になっちゃって、やめられなくなってしまうのだ。
 書いても書いても、なにもよい変化などありはしない。
 読んでよろこんでくれる人が数人いたとしても、
 だんだんもっと強い刺激を求められはじめる。
 社会や人間の「アラ探し」はいくらでも続けられるが、
 やってるほうも、読んでるほうも、たのしくはない。
 なぜそんなことをしているのかわからなくなったりする。
 しょうがないから、世のため人のためだということにする。
 世界中が、こんなにろくでもないことばかりなんだから、
 「言わずにはいられない」ということにするのだ。
 だって、世の中というのは不都合でできているのだし。

 書くことがないなら、書かなければいい、ほんとはそうだ。
 それでも、おれもひとつ言いたい、なんて思うから、
 書きやすい不平やらを書き出してしまうのだ。
 これがやめられなくなる魔法の壺だとも知らずに、
 手を突っ込んでネタを取り出してしまう。
 静かに黙っているということが、どうしてできないのか。
 たぶん、なにか言う以外に、できることを思いつかないか、 
 なにか言わないで欠席扱いされるのが、怖いんだろうね。
 というようなことを書いて、さて、今日を過ごすのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
自然の移ろいに心が動いてない、というのは重大な欠落だね。


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