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2018-02-23

おしらせ

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・うっすらと悲しいことがあるとき、
 人はうれしくもない大食に走る。

 そういうことを発見した。
 「人は」、と書いているけれど、「おれは」である。
 他の人がどうであるか聞いて回ったわけでもないが、
 どうも、おれだけじゃないなと感じたので、
 「人は」のままでツイートしてみた。
 ちょっと共感がほしかったのだと思う。
 「わたしもです」という声が重なったら、
 やっぱりなぁとうれしいのではないかと期待した。
 そして、やはり反応はあって、
 それなりの人数の人たちと即席の共感ごっこができた。

 ほんとうに悲しい、ずしんと悲しいことがあるときには、
 なにかを食べようとする余裕がないかもしれない。
 「うっすらと悲しい」と表現したこころのありようは、
 「なんだかさみしい」とか「漠然と不安である」とかと、
 同じようなものなのだという気がする。
 そういうなかには、「金に困っている」とか、
 「じぶんの好きな人がじぶんを好きだと思えない」とか、
 「やってることに才能がないのではないか」とか、
 わりかし即物的な原因などもあるだろう。
 そんなとき、人は「うっすらと悲しい」感じになる。
 攻撃的な人なら、なにかに怒りをぶつけるのだろう。
 しかし、怒ってもしょうがないと思う人は、
 なにかしらで、「うっすらと悲しい」という
 こころの空き部屋を埋めようと、テレビを見たり、
 いわゆる娯楽で気を紛らわせようとする。
 そして、もっとしっかりと空白を満たしたくなって、
 空白を空腹と置き換えて、なにかを食べる。
 意欲的においしいものをつくったり食べに行くよりも、
 そのへんですぐ買えるものを手に入れる。
 少しおいしいと思うし、空腹はなくなったのだけれど、
 やはり埋まらない空白がぽっかり残る‥‥ので、
 もっと食べることになって、実際に食べる。

 (おれを含めた)人は、
 うっすらと悲しいことがあるとき、
 うれしくもない大食に走る。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
増えていく体重は、うっすらとした悲しみの重さなのか。


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