06月25日の「今日のダーリン」

・ほんとうにたくさんの人が死ぬ。
 生まれる人もたくさんいるのに、
 そのことを忘れそうになる。
 どこかでひとり生まれたからといって、
 だれかが死んでいいということにはならない。
 でも、人はかならず死ぬということについては、
 ひとつの例外もない。

 こんなことを書いているぼくも死ぬし、
 「そうだな、イトイもそのうち死ぬな」
 と読んでいるあなたもやがてはかならず死ぬ。
 そういう意味では、みんなみんなおなじだ。

 お墓の前で泣かないでくださいという歌があった。
 そこにわたしはいません、ということばが続く。
 あらま、亡くなった人がいない場所で、
 ぼくらは祈ったり泣いたりしてきたのか。
 そう言われても困るとかも思ったし、
 たしかにそうかもしれないとも思う。
 
 ではどこにいるのかと考えたくもなるのだけれど、
 どこにいようがいるまいが、かまわない。

 その人が生きたせいで、ここにあるもの。
 そいつが、生き続けているのだ。

 こどもがいたら、こどもはまさしくそういう存在だ。
 その人が買ったもの、つくったもの、書いたもの、
 その人が語ったことば、怒ったもの、悲しんだもの、
 その人が抱きしめたもの、その人が育んだもの、
 その人が別れたもの、その人が歩いた道、
 その人が吸った空気、その人が祈ったこと、
 すべて、そのまま、その人が死んだからといって
 いっぺんに消えたわけではない。
 そして、ものも、ことばも、場所も、思いも、
 その人が死んだあとも、続きを生きている。
 
 それを「あの人は生きている」と、言っていいと思う。
 お墓にいようがいるまいが、どこでも続きをやっている。 
 ぼくが死んでも、そうなると思うと、なんだかうれしい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生きているうちは、じぶんがじぶんの続きをやっている。