糸井重里
・さみしい気持ちについて書くのはいいものだ。
冬の午後に、建物の外に出たら、
え、もう暗くなってるよというようなことがあって。
それは、もう、よくあることなんだけど。
大人になってからでも、
夕方のこの暗さってさみしいなと思ったんだ。
子どものころには、もっとさみしかったのだけど、
年齢が増えていっても、ずっと直ってない。
まさか老人になってさえ、こんな気持ちになるよと、
子どものころのじぶんに教えてやりたいよ。
子どもの時代には、夕方がさみしいなんてことは、
だれにも話したことはなかった。
さみしい気持ち、ちょっと泣きたいような、
つまらないような、怖いような、あかるくなれない、
そういう気持ちには、ときどきなっていたけれど、
それが、夕方のさみしさだなんて知らなかったしね。
ともだちと、あんなにたのしく遊んでいたのに、
なんとなく終わってしまって、夜がはじまりそう。
歩いている道すがら、よその家から声が聞こえたり、
ラジオとかテレビの音が聞こえてくるのは、
ちょっとありがたかったんじゃないかな。
なんだか知らないけど、なにかしらあるって感じで、
さみしさを紛らわす役割をしてたのだろう。
でも、何度そのことを言ったかわからないけど、
「雪の降る街を」という歌はつらかった。
聞かせないでほしいと思っていた。
いまにして思えば、さみしい気持ちになるからだ。
「ペチカ」とか「冬の星座」とかもいやだった。
どうしてわざわざ人をさみしくさせるような歌を、
こんなにいくつもつくるのだろうか。
ちょっとうらみがましく、そんなことも思っていた。
しかしね、いまも、じぶんが、
さみしい気持ちについてわざわざ書いているのは、
人とさみしさを分け合いたいからじゃないか。
みんな、それなりにさみしい気持ちが好きなんだよ。
いやだとかも言いながら、それを話したりするのがね。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
さみしい話を思い出したら、メールでもください。読みたい。






