第13回
テレビは「わからないもの」だった。
石坂
かつては、スターと
それ以外の役者との差がきちんとあった。

高峰三枝子さんは
映画界にスカウトされて入って以来、
蒲田の松竹の撮影所の近くの一軒家から
出ちゃいけませんと言われ、
車が迎えに来て、運転手さんがいて、
食べたいものを作ってくれる人がいて……。

実家に帰るにも特別の許可をもらわないと
帰れなかったらしいですよ。
スターは実生活を知られてはいけないから。

高峰さんに話を聞いた時、
めちゃくちゃ高い
宝石をいっぱい持っていたんです。
舞台でやる時は、ちゃんと
同じ宝石のニセモノを作ってもらって
持っていくらしいんですけど、
どのぐらいするかを聞いたら
「二億ぐらいかな?」

……結婚相手も、どうも映画会社が
そろそろ結婚してもいいというまでは
決められなかったような、
そういう生活を送っていたんだそうです。

毎日毎日暮らしてるうちに、
床の間に札束がだんだんだんだん高くなっていく。
床の間の掛け軸が見えなくなるほど
札束が積まれると、映画会社の撮影所長が来て
「これ、置いといてもしょうがないから、
 なんか買っときましょうか?」というから
「はい」と答えると、
宝石を買ってきたり、土地を買ったりした、
というらしくて……すごいよね。
糸井
へぇー……!
それは映画というおたのしみが
日本中を制覇していた時代だ。
石坂
うん。
糸井
石坂さんが、最初はテレビの役者として
やっていくかどうかよりも先に、
まだテレビ自体の運命がわかんない、
という時代があったんだ?
石坂
テレビって、わかんなかった。
芝居っていうのはなくならないだろうし、
映画っていうのもなくならないだろうけど、
テレビというのは、
ヘタするとどうなるか
わからないぞという不安はありました。

テレビはおもしろいけど、
いつかそのおもしろさのネタが
尽きてしまうだろうと思っていたんです。
TBSにいると、あまりにもみんなが
バカなことばかりを
真剣に話しあっているから……。

「カメラを屋上から放り投げて、
 どこまで映像が映るかを撮ろう。
 途中で壊れるだろうけど、
 壊れる前までの映像は使えるから」

まだカメラがめちゃくちゃ高い時代です。
記念写真だって
そんなにたくさん撮らない時代に、
あまりにも自由なことばかりやっていたから、
正統というものがどんなものなのか、
わからなかったんですよね。
おもしろいことはおもしろかったんですけど。
糸井
芸名がついたのが、
『潮騒』をやったときだったんですね。
石坂
ぼくの
「武藤兵吉」という本名をタイトルに出すと、
どうも『潮騒』のストーリーにひっかかると
演出家が言っていたそうです。

なんか陸軍の兵隊が出ているみたいでイヤだ、
三島由紀夫風ではないと……それでみんなに、
なんか芸名をつけなさいと言われて、
石井ふく子さんが「私が考えてやる」と。

それで「石」のつく名前を
考えてくださったんです。

だから石坂浩二の「石」は、
石井ふく子さんの「石」ですね。

TBSの前のお寿司屋にいきなり呼ばれて
「あんた、今日からコレだよ」
……五つぐらい名前をつけたらしいんだけど、
大空真弓さんのお父さんに
姓名判断をしてもらったら、
この名前が金色に光って
下からあがってきたからという説明を受けまして。
糸井
(笑)わからない説明!
石坂
この名前でもしもダメなら、
あんたが悪いんだから、と言われて(笑)。

『潮騒』に出たあとには、
『父と子たち』という
宇野重吉さんと高橋幸治さんと私の
三人しか出ないような、
地味なドラマに出ました。

それは芸術祭の文部大臣賞を
受賞したのですが、
そのドラマをNHKの吉田(直哉)さんという
ディレクターがごらんになっていて、
緒方拳さんが豊臣秀吉役をやった
大河ドラマの『太閤記』では、
高橋幸治さんは織田信長になり、
私は石田三成になったんです。

大河ドラマには、その前にも
『花の生涯』や『赤穂浪士』にも
半年ずつ出ていたんですが、
一年通して出るのは
『太閤記』がはじめてでした。

オリンピックの次の年の放送で、
冒頭にはできたばかりの新幹線が
走る映像があって
「一六〇〇年、この関ヶ原でなんとかかんとか……」
とナレーションが入ってました。
 
2015-05-05-TUE
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