気仙沼のほぼ日便り

まちづくりサークル「気楽会(きらくかい)」の
気仙沼の魅力的な人々に出会う
「ひとめぐりツアー」をご紹介します。
気楽会は、地元の20〜30代が中心となって、
「気仙沼を楽しむ」
「気仙沼を楽しくする」活動を行うため、
2006年に結成された会です。
震災前は南気仙沼駅に「観光案内課」を設置し、
はじめて気仙沼を訪れる観光客への
案内を行なったり、
気仙沼ホルモン全店マップの
制作を手がけたりしてきました。

ひとめぐりツアーは、
気楽会が震災後に企画した活動で
気仙沼の街を半日かけてゆっくりと歩き、
街の景色を肌で感じながら、
気仙沼人と出会い、会話をしていくものです。
私はこれまで、通算3回参加しました。
はじめは、昨年の9月。
被災した街を案内する、
手探り状態で始まったこのツアーが
「トライアル」と題して行った、
第ゼロ回開催の時、
ほぼ日の乗組員数名と一緒に参加しました。

そのころ、まだ街には、
津波で押し流された家屋や船が
いたるところにあり、
気仙沼のみなさんが震災の話を教えてくれるその声も、
がむしゃらに日々をやり過ごしてきた様子が
強く感じられたように思います。

みなさんが、被災後の気仙沼を
はじめて車ではなく歩きで眺めた時、
自分の頭のはるか上の高さを、
津波で流された家々が通過していったということや、
電気も、水も出ない環境で、
ガソリンもなく、
同じ場所を歩いていたのだということが、
頭の中をめぐりました。

今年5月のツアーでは、
震災からの1年を経て、
数々の問題にぶつかりながらも、
できることを始めようとしている皆さんの姿を、
見せていただきました。
前回のツアーよりも、
一段とパワーアップしているように感じられるほど、
いつでも前を向いているその姿勢に、
逆にこちらが励まされてしまう。というのは、
ツアーに参加されていた方の感想でもあります。

そして、ツアーの回を重ねるごとに、
街のいろいろな建物が撤去され、
「何もない場所」が増えてきたということも感じます。
何もなくなった街を見て、
元の姿や、被害の様子を想像するのは
とても難しいことです。

一方で、津波で粉々になった建物や家具は、
細かく分類されながら、
一つの場所に集められています。
交通量の多い道路から
少し離れた場所にある集積所の前に立つと、
その量に圧倒されます。

まるで、ひとつの団地、
あるいは大型ショッピングモールのような大きさで、
大きな塊となって積み上げられているのです。
そんな光景は、気仙沼だけでなく、
被害を受けた沿岸部の
どの街にもあります。
街が片付いてきた、と言われれば
それは間違いではないのですが、
大きな山を形作っているひとつひとつは、
家や学校、勤務先として建っていたものであり、
生活に使われていたものであり、
だれかの所有物でもありました。
それらはすべて、街の一部であったのだ思うと、
ただただ「街を失ってしまったのだ」
という喪失感に打ちのめされます。
津波がきても、
もう二度とこういうことが起きないように、
今、そこに住んでいた人たちは
一生懸命知恵を絞っています。

私は、震災当日東京にいました。
その時のことを知らない私にとって、
このツアーに参加して、
積み上げられた街、
被災を受けた店舗、避難したビル、
目の前で家族が流されていった場所、
そういうところで、その当事者たちから聞く言葉は、
とても貴重なものです。
何も知らなかったからこそ、
こうした言葉や、残された写真によって、
震災時の事、それから今までの出来事を
自分のなかにどうにか留めておきたい
という気持ちがあります。

被害の規模の大きさを数で表すのは難しいのですが、
「気仙沼で出会う人は、
誰しもが大切な人や物を失っている」という感覚が、
この街の受けた被害の大きさだと私は思います。

それでもなお、この街の人が外から来た人たちに
「元気で明るい」と言われるのは、
いったいなぜなんでしょう。
気楽会のツアーでも、
まさに「元気で明るい」
たくさんの魅力的な気仙沼人と、
出会うことができます。

気仙沼に住むようになって思い当たるのは、
この街が根っからの海の街、
港町だからではないかということです。

海の近くに住む人達は、
海に出ていく男たちはもちろん、
男たちの不在の家を守る女たちもまた、
力強く、しっかりと、元気でいなければなりません。
そういった気質に加え、
この街が大きな港町であるがゆえ、
外からの人に対する懐が大きいところがあると思います。

特にその交通の便の悪さから「陸の孤島」
とも揶揄される気仙沼ですが、
その分、外から来てくれる人々への
ウェルカムモードはかなり強力です。
がっしりと肩を捕まれ、
「よく、来たごだ!」と言われて、
ウンウン頷かれたりします。
はじめて会ったのに、
「食わいん!」
と言ってお魚や貝をくれたり、
「上がってがいん!」
とドヤドヤと背中を押され、手をひかれ、
気づけばその人の家の茶の間で
ご飯をたべているような時もあります。
この街は、来てくれる人にはこれでもかというほどの
もてなしをする(されている)気がします。

そんなふうに大歓迎されることって、
なかなか無いと思います。
私ははじめての経験でした。
もし、みなさんが気仙沼に訪れるなら、
帰り際、ちょっと寂しくなるくらいが、
気仙沼の良さを味わえた、
いい旅だったといえるのではないでしょうか。

「たくさんの知り合いができれば、
その地域に何度も通いたくなる」
というのが、このツアーのコンセプトでもあります。
私も、気仙沼に来るようになって、
たくさんの方とお会いしました。
そして、結局この街に住むことになりました。
それから、外から気仙沼に訪れる方々とも、
たくさん友達になりました。

どうぞまた来てくださいね。
これからいらっしゃる方も、待ってますので、
どうぞ来てください。
という気持ちで、私は気仙沼にいます。

さて、気楽会のツアーの受付については、
気楽会のブログからご確認ください。

ちなみに気楽会の代表は、
ほぼ日にもたびたび登場している
コヤマ菓子店の小山裕隆さんです。
私も、今度はみなさんをお迎えする気仙沼人として、
このツアーに参加していると思います。

前回、前々回の、
ゴールデンウィークの様子につづいて、
今回は、わたくし、
ほぼ日アルバイトのまりさから、
ゴールデンウィークに行った
ボランティアのことをお伝えします。

去年の同じ時期、福島県の相馬市に、
ボランティアに訪れてから1年、
今年のゴールデンウィークは、
家族で、宮城県南三陸町に行きました。
気仙沼市のお隣にある南三陸町まで、
東京から車で約7時間。
父、母、兄、わたしの4名で
交代で運転しながら向かいます。

石巻インターを出て、
海岸に近づくにつれ、
津波の傷跡を目にするようになりました。
だれもいない、
冠水したままの学校では
震災当時の時刻のままの時計が残っていました。

最初に向かったのは、
宿泊場所であるキャンプ場です。
南三陸町災害ボランティアセンターから
それほど遠くはないキャンプ場に
テントをはります。
リアス式海岸がすぐそこに見える
とてもすがすがしいキャンプ場です。

ボランティアの活動は翌日からでしたので
この日は、町の様子を見てみようと
気仙沼の方まで車を走らせました。

車の中から町の様子を見ていると
1年前に見た相馬市の風景にはなかった
色々なものが増えていました。
たとえば、仮設コンビニ、復興商店街、
それから、新しい電柱。
1年前には、震災で倒れた電柱と
震災後に立てられた
新しい電柱の2本が一箇所にありましたが、
いまはもう古い電柱は撤去され、
新しいものだけが立っています。

気仙沼の町を見たあと、
陸前高田の方にも足を伸ばそうと思ったのですが、
この日は冠水のため、
通行止めで行けませんでした。

次の日。
南三陸町災害ボランティアセンターに
わたしたちが到着したのは、7:30。
そのころは、まだ人がちらほらでしたが
受付時間の8:30に近づくにつれ、
人が集まりはじめます。

気がつけば、かなりの大行列。
新商品の発売日でもなければ、
おいしいものがもらえるわけでもないのだけれど、
こんなにたくさんの人が列を成している
ということに
少し気持ちが明るくなります。
皆リュックに長靴というスタイルです。

列の前から順番に、
ボランティアセンターの方が
本日のお仕事を割りふってくださいます。

「今日は県営住宅のガレキ撤去を
 よろしくお願いします。」

震災から1年以上たった今でも、
「ガレキ撤去」
という作業がまだあるんだということに、
正直、少しびっくりしつつ、
ビブス(ナイロンのベスト)を身につけて、
班ごとに集まり、説明を受けてから
自家用車で現地へ向かいます。


近くの老人ホームに駐車し、
県営住宅まで歩いて向かいます。
遠くからみると立派に見えたこの老人ホームも、
近づいてみると、震災の傷跡がよくわかります。
高台にあるにもかかわらず、
たいへん高い津波が押し寄せ、
多くのかたがここで亡くなられた、
被害の大きい場所だったとのことでした。

この日、県営住宅の前に集まったボランティアは
およそ100名ほど、全員でガレキ撤去をします。
この県営住宅は、
南三陸町の中でも、最近になって、
やっとボランティアの手がつけられた
場所だそうです。

屋上まで津波に埋もれてしまった
県営住宅の中に入ってみると、
本、洋服、電気製品、
ありとあらゆる家中のモノと、
外から入ってきた泥やガレキが混じったものが、
ギュッとかたくなって部屋の中に詰まっています。

クローゼットの引きだしには、
海水が入っていました。
冷蔵庫の中には、
溶けたアイスクリームが入っていました。
震災当時のまま、まるで
時が止まったかのようでした。

ボランティアの主な仕事は、
スコップで泥をかきだしながら、
その泥にまじったガレキの分類をすることです。
ガレキは、ガラス、壁材、電化製品、
燃えるもの、貴重品に分けられます。

ガレキの撤去をすることで、
もともとこのマンションに
住んでいた人たちが後に戻って来て、
また住むことができる、ということはありません。
ではなぜ、ガレキの撤去作業をするかというと、
このマンションを取り壊すときが来たとき、
業者の方々のガレキ分類の手間や
それにかかる費用を削減できるということ、
そして、住んでいた人たちの
大切な貴重品をよりわけ、
お渡しすることができるからだそうです。

わたしの片付けた部屋のお母さんは
裁縫が大好きなかたのようでした。
これまで、楽しみに集めてきた様子が窺い知れる
パッチーワーク用の生地のはし切れと、
瓶に詰まったパーツのコレクション、
そして、
赤ちゃんが生まれるまでの毎日を綴った日記、
ケースに入ったへその緒、
お子さんの描いた絵などが、
泥の中から出てきました。

「ご家族が大切にされていたもののようだ」
と、感じたものは、ガレキとは別に、
カゴに分けて整理しておきました。
作業をして何時間か経つと、
別の部屋を作業していた人からも
そうしたものが集まって
部屋の一角に大きな山をつくっていました。

作業はだいたい1時間に1回、
15分間の休憩をはさみながら、
無理のないペースで進められ、
7つに分かれた班のチームリーダーが
作業の流れを指示してくれます。

チームリーダーの方々は、
とても慣れていて、職員のかただと
勝手に思い込んでいたのですが、
そうではありませんでした。
ボランティアとして南三陸町を訪れて、
長い間活動を続けているのだそうです。
わたしの班のリーダーのかたは、
林業で働いているという、
朗らかでとっても優しい50代くらいの男性でした。
去年の6月から
ボランティアセンターの近くにテントをはり、
生活しているそうです。

3時半にガレキの撤去作業を終了したときには、
1階は、すべての泥がかき出され、
床が見えるようになり、
足の踏み場がなかった2階からは、
家の中のモノのほとんどが、
外に出され、片付いていました。

終了の挨拶のとき、
班のリーダーの方が、こうおっしゃっていました。

「どうかみなさん、
 帰られましたら、
 今回のボランティア活動で見たこと、
 感じたことをまわりの方々に話してみてください。
 最近は、テレビなどで
 被災地のことが扱われることも
 少なくなってきましたが、
 こうした作業には
 まだまだボランティアの手が必要です。」

わたしは、ここでボランティア活動の報告が
できることをとてもありがたく思います。

最初に入った時は、
とても一日で作業が進むとは思えなかった部屋が、
一人ひとりのボランティアの人の手と汗によって
片付いていくんだという
すごみみたいなものを感じました。
そして、わたしにもできることが
あるということにありがたみを感じました。

今までは、津波で流される町の様子の映像など、
震災の被害を大きな規模で感じていました。
けれども、今回、ボランティアとして
はじめて個人のお宅の中にお邪魔させていただき、
それぞれの家族の生活時間が
あの一瞬で止まってしまったんだ、
ということを、
本当にはじめて実感したように思います。

そして、ガレキ撤去は、
長距離マラソンのような作業です。
わたしは、はじめの方から力んでとばしてしまい、
最後のほうは、へばり始めてしまいましたが
ベテランの方々は、
ゆっくりゆっくり作業を進めていて
頑張りすぎないことがコツのようです。
(これからいらっしゃる方、ぜひご参考に。)

夕食は、南三陸町の復興商店街で
ホタテやつぶ貝を買い、
キャンプ場に戻って、いただきました。
三陸の海の幸は、本当においしかったです。

ゴールデンウィーク中は、
たくさんの人がボランティアに訪れていました。
でも、人手の少ない時期に行くことができるのは
わたしたち学生だとあらためて思っています。
次は8月ごろ、今度は友達を誘って、
また、行くつもりです。

前回に引き続き、
ゴールデンウィークの様子をご紹介します。

5月3日〜5月6日は、
気仙沼、南町にある
みなみまちcadocco(カドッコ)」で、
「GWだョ!ヌマッコ集合」
という子ども向けイベントが開催されていました。
こちらは気仙沼地域出身者を中心に
復興活動を行なっている団体、
Re:us.気仙沼(リアス気仙沼)
皆さんによるものです。
震災直後から、青空美容室や、
衣類の提供などの活動をされており、
主に子どもたちが参加できるワークショップの
企画運営も精力的に行なっています。

訪ねてみると、ちょうど、
オルゴール作家の杉山三さんによる、
紙巻き式オルゴールワークショップと、
オーガニックキャンドルを販売する
ワイルドツリーさんによる
ミツロウキャンドルワークショップが
行われていました。

紙巻き式オルゴールは、
パンチで穴を開けた紙をオルゴールに通すと、
その穴にしたがってオルゴールの弦が弾かれ
音がなる仕組みになっています。
今回のワークショップでは
好きなように穴を開けたり、
アルファベットの形に穴を開けたりして、
偶然に生まれたオリジナルのメロディを
楽しめるようになっていました。

そしてこの紙は、
おみやげとして持ち帰ることができます。
「メロディを持ち帰る」のは、
いままでに体験したことのない嬉しさがありました。

ミツロウキャンドルワークショップでは、
さすが気仙沼!と思うような、
デザインセンスがさく裂していました。

メカジキ、海の子ホヤぼーや……
中にはお寿司のデコレーションをした
キャンドルを作った子もいたそうです。

雨のあがった屋外では
「あおぞらえんにち」が開催され、
射的や、ヨーヨーすくいなどを
親子連れのみなさんが楽しんでいました。

みなみまちcadoccoでは、こうしたワークショップや
イベントが定期的に行われており、
子どもたちの笑顔が集う場所となっています。


ところで、今回のゴールデンウィーク、
全国的に大雨に見舞われましたが、
ここ気仙沼でも、記録的な大雨により、
水害が発生しました。

特に地震による地盤沈下が起こった地域は冠水となり、
一時避難が必要なところもありました。
普段はあまり意識をしなかった地面の高さ。
この大雨を機に、気をつけて見るようになりました。
気仙沼では約75cmほど
地盤沈下が起こっていると言われており、
豪雨の際だけでなく、
満潮のたびに冠水してしまう場所もあります。

写真は、連休明けの月曜日に、
車から鹿折唐桑付近を撮影したものですが、
雨が上がったあとも、
水がなかなか引きませんでした。
震災から一年たってなお、
こうした復旧の必要な場所が
まだまだあるということを
強く感じさせられました。

一方で、気仙沼に来てから、
本当にたくさんの若い世代の人たちが、
復興にむけて、自分たちのできることに
取り組まれている姿と出会います。
もちろん、大人も、子どもたちもです。
私もここで暮らすみなさんと一緒に、
元気にやっていきたいと思います。

気仙沼のほぼ日のサユミです。
ゴールデンウィークは、
みなさんいかがお過ごしでしたでしょうか。

私はここ気仙沼、そしておとなりの南三陸町にて、
いろいろと楽しんでおりました。

まずは4月29日(日)に南三陸町で行われた
福興市(ふっこういち)」をご紹介します。
この福興市は、地元商店街と町、
そして県内外からの商店街やボランティアの方々が
一体となって開催されるイベントです。
南三陸町を中心に、
県内外から50近い出店があり、
会場は大賑わいでした。


こちらは、実行委員長の山内正文さんです。
山内さんは、南三陸町の
海産物専門店「山内鮮魚店」の3代目社長。
震災後は、地域の復興のために
中心となって活動をされてきた方でもあり、
ちょうど1年前の昨年4月29日に
福興市を立ち上げられました。


定期開催を重ね今回で13回目となる本イベント。
「とにかくすごいよ!」と
聞いてはいたのですが、
本当に大規模で、たくさんの人が来場していました。
オープンしてすぐ会場に着いたはずなのに、
駐車場はかなりいっぱいになっていました。


まずは実行委員長 山内さんのお店
山内鮮魚店さんブースです。
南三陸町名物の新鮮なタコや、
一匹一匹が断然大きい釜揚げしらすのほか、
「世界一おいしい」とおすすめの塩辛、
焼き魚の切り身が小分けにパックされた、
「しっかり朝ごはん」シリーズもあります。
私もおみやげにいろいろと購入しました。


高長醤油店さんは、
地元、南三陸町で手作りの仙台みそや
醤油を作られている老舗です。
手作り、無添加の美味しいお味噌は、
毎回完売してしまうほどの人気商品だそうです。


また、会場では
南三陸町が誇るタコのキャラクター
「オクトパス君」グッズも販売されていました。
この、オクトパス君の置物は
合格祈願アイテムとしても人気だとか。
なぜかというと……
「置くとパス(合格)」
だからだそうです!
新潟のボランティアの方々も笑顔で
売り子を手伝っていらっしゃいました。


他にも全国から様々な団体・店舗が参加していました。
こちらは青森十和田市の「バラ焼き」ブース。
豚バラ→バラ→貴族?
のイメージのようです。
お店の前に行くとコーラスを披露してくださり、
美味しいだけでなく、楽しいブースでした。

鹿児島県鹿児島市の宇宿商店街さんは、
大きな鍋で豚汁を準備中!
黒豚の味噌漬けや、さつま揚げなど
地元名産品も販売されていました。

また、かき氷やわたあめの屋台、
ステージでの歌謡ショーなどもあり、
お祭り気分で一日を過ごしました。

地元の名産品はもちろん、
全国の安い、ウマイ、いろーんな種類の物があって、
遠くからお越しの方も、地元の方も楽しめる、
そんなイベントでした。

歩きながら海鮮串焼きを食べ、
さらにいろんなブースで試食もいただき、
おなかは常にいっぱい。
そして次々といろんなものを買ってしまうため、
両手に買い物袋を抱えながらの食べ歩き。
本当に写真をとるのが大変でした。
次回開催は5月27日(日)とのこと。
買い物と食べ歩きに備え、
手ぶらで行くのがおすすめです!

ゴールデンウィークの様子は、次回に続きます。

気仙沼は海の町。

カツオ、マグロ、サンマなどが大量に水揚げされる
気仙沼魚市場は、まさに気仙沼の顔ともいえます。

とはいえ、気仙沼に引っ越してきて以来
なかなか機会がなく、
実は一度も行ったことがなかったのですが、
5月になりようやく見学に行くことが出来ました。

この日は朝6時半に集合し、
何かとお世話になっている斉吉商店のおかあさん、
貞子さんにご案内していただきました。

貞子さんは、
気仙沼外からいらした方向けの
観光ボランティアガイドをされているので、
普段のガイドと同じように、
漁業の歴史と震災被害の様子を
お話ししてくださいました。

沿岸に建つ魚市場は、
津波による大きな被害を受けた場所の一つです。
震災後は、急ピッチの復旧工事が行われ、
震災から3ヶ月後の2011年6月には
魚市場再開へこぎつけました。


この日は大量のサメが水揚げされていて、
市場にはいままでに見たことのない量の
サメが並べられていました。
もちろん、高級食材となるフカヒレも、
これらのサメから加工されており、
気仙沼の名産品となっています。

そのほかにも、いろんな種類の魚が入った
青いカゴがずらりと並び、
市場を賑わせていました。



市場の仲買人さん達は、
つり針のようなカギのついた棒で、
ぐいっとサメのお腹をひっぱっては覗き、
品定めをしていきます。


この棒は、サメのお腹をひっぱるだけでなく、
大きな魚に引っ掛けて運んだり、
カゴを引き寄せたりと、
何かと便利な道具だそうです。

使い込まれた棒をさりげなくズボンにひっかけた、
長靴姿のおとうさんたち、なんだかかっこいいです。


そして、男性が多いこの魚市場で
たまに見かける女性の姿、
それもまたかっこいいのです!


新鮮な魚たちと、
いきいき働くみなさんの姿が、
海の町の活気を生み出しているんだなぁ、
としみじみ思いました。

魚市場の見学を終えた後、
とても天気が良かったので、
貞子さんと安波山に登りました。


ここからは気仙沼の海と山、
そして港が一望できます。
さっきまでいた魚市場も、
遠くに見えました。

津波の被害を受けた場所、
復旧をしている場所がどのあたりなのか、
そこで生活している人や働いている人たちは、
いまどんなことをしているのか。

いろんなことを思い浮かべながら、
この景色を眺めました。


最後に、
貞子さんに教えていただいた豆知識をひとつ。


気仙沼の海を飛ぶ鳥「ウミネコ」ですが、
見た目はカモメとほとんど一緒!

しかし、見分け方にコツがあります…

足が黄色なのがウミネコ、
赤なのがカモメ!

なのです。
(黄色っぽい足のカモメもいるらしい、ですが)

「知ってるとちょっと自慢できるでしょう」
ということで教えていただいたので、
みなさんも誰かに教えてみてください。
ちょっと自慢できます。

ようやく日差しが暖かくなってきた、4月末。

斉吉商店の和枝さんのご紹介で、
和枝さん、斉吉商店さんをお手伝いしている
ともづなプロジェクトの藤野さんと
ほぼ日の
新人乗組員は、
気仙沼湾の入り口にある大島
「わかめの天日干し」を見学に行ってきました。

大島へは、フェリーで向かいます。
朝6時40分発のフェリーに乗りこむと、
早速、和枝さんからお弁当を頂いてしまいました!


この美味しそうなお弁当は、
和枝さんのお母様、
貞子さんが作って下さったものです。
フェリーに乗って海を眺めながら、
おいしいお弁当を食べると、
気分はまるで遠足。
大島にフェリーが近づくにつれ、
なんだかワクワクする気持ちが高まっていきました。

今回お邪魔したのは、わかめの天日干しをしている
「かおるさん」のお宅です。


ご自宅の前には、りっぱなわかめが干されていました。

今朝とってきたわかめも、早速干すとのことで、
私たちも天日干しを
体験させていただくことになりました。

天日干しの手順についてご紹介します。
まずは、わかめの茎のぶぶんを
大きな洗濯バサミのようなものでシッカリとはさみ、
棚に吊るしていきます。


次に、わかめの芯からのびる
葉のヒラヒラした部分の風通しを良くし、
天日に当たりやすくするため、
一枚一枚丁寧に手でとかすように、
やさしく広げていきます。

すべて干し終えたら、
吊るしてあるわかめの中心を竹串で割き、
2本にします。


これは、乾燥をより早めるための作業だそうです。
初心者には茎を割くのがとても難しいのですが、
みなさんは慣れた手つきで、
一瞬にしてわかめが真っ二つになっていきました。

雨天時は、ボイラー室にわかめを移動させ、
乾燥を促します。
ボイラー室の隣の部屋には、
毛布がたくさん積み重ねてありました。


ここで休憩するためのものだと思ったのですが、
出荷用のわかめにかけておく毛布だそうです。

海から取ってきたわかめを天日で干す、
いたってシンプルな手法ではありますが、
天候に左右される天日干しは、
手間ひまがかかります。


ですがその分、
いったん湯通しして塩蔵処理をしたわかめよりも、
磯の香りが豊かなまま、
販売することができるそうです。
かつては、大島の多くの家庭で作られていた、
天日干しわかめですが、
今では5、6軒ほどになってしまったそうです。

作業を一段落終える頃には、
わかめのカーテンが、一面にひろがりました。


今回、取材に同行していただいた藤野さんは、
この景色を見て
「女神のようなわかめ様」
と言いました。

丁寧に髪の毛をとかすように撫でられ、
雨が降ったら暖かい部屋に、
出荷前にはやさしく毛布をかけられる。

大事に大事に育てられてきたわかめが、
ゆらゆらと風になびいて揺れるさまは、
藤野さんの言う通り、
なんだか女性的で、とても綺麗でした。


わかめの収穫は5月頭には終了となるそうですが、
寒い時期に取れるわかめの新芽は、
とても柔らかくて美味しいのだとか。
ぜひ来年、食べてみたいです。

2012年1月某日。
雪がちらつく寒いある日、
糸井重里とほぼ日乗組員数名は
気仙沼で、牡蠣船(かきぶね)に乗りました。

乗せてくださったのは、
気仙沼で養殖業を営んでいらっしゃる盛屋水産さん。
きっかけは、昨年10月の末、
「唐桑御殿」での、話からはじまります。

唐桑御殿とは、
気仙沼の唐桑(からくわ)という地域に点在する
豪華な入母屋造りの日本家屋のこと。
船に乗り、海の上で過ごす時間の長い
漁師さんたちが、
「陸にいる時ぐらい、広いところで寝たいんだ。」
と願って、たくさん船に乗って、建てられた
大きな木造の自宅のことです。

「気仙沼の一番いいところは、
 唐桑にあると思うんです。」

と、おっしゃる、
斉吉商店・和枝さんのお誘いで
はじめて唐桑を訪れた、糸井重里と数名の乗組員。

まばゆい夕焼けの光を
曲がりくねった道のところどころで浴びながら、
盛屋水産の3代目、
菅野さんのご自宅に到着したのは、
もうすっかり日の沈むころでした。

もともと、その日は、
斉吉商店さんとの打ち合わせのため、
菅野さんのお家を少しの間、お借りして、
試食などをするという予定でした。
しかしながら、
打ち合わせの合間合間にお聞きする
まるで、姉妹漫才のような、
気仙沼の女将さんふたり、
斉吉商店の斉藤和枝さんと
盛屋水産の菅野一代さんの
底抜けに明るいけれど、心に沁み入るお話に
わたしたちは、すっかり魅せられてしまったのです。

20mともいわれる津波が押し寄せた、
菅野さんのご自宅は、
木造三階建ての「三階」まで浸水したそうです。
丈夫な柱や屋根は残ったものの
天井や壁、床も畳も、障子もドアも、瓦も、
かなりの修繕が必要で、膨大な費用がかかります。
いっそ、取り壊しをしたほうがいいのではないか、
と、思っていた矢先、和枝さんから、
一代さんの悩みを一蹴するような一言が。

「壊すなんて もったいないっ!」

あれだけの津波が来ても、
建物の土台や骨組みは、
しっかり残っていました。
その津波に負けなかった自宅を
盛屋水産さんの養殖の仕事を体験し、
唐桑の自然とおいしい食べ物を堪能する
そんな場所にしてはどうか、と
和枝さんは、一代さんに
アドバイスなさったんだそうです。
加工場も全壊流出、養殖の道具も、船も、
すべて失った中、
浸水しながらも、奇跡的に残ったご自宅。
そのご自宅の中で、そんなお話を聞きながら、
わたしたち、乗組員は、
「ぜひ、その船に乗るツアーに参加させてください。」
と、お願いしてお別れしたのでした。
それから、3ヶ月後の1月下旬、
約束通り、一代さんは
わたしたちを誘ってくださいました。

1月下旬、一年の中で、
いちばんと言っていいほど寒い季節。
このころ、盛屋水産では、
牡蠣たね作りに、忙しい時期でした。
帆立の殻に小さい牡蠣の赤ちゃんを付着させた
牡蠣たねを、2本のロープの依りの間にはさみ、
静かな潮の流れのあるところにある筏から
吊るして、育てます。

たね作りだけとっても、たいへん手間ひまのかかる仕事。
しかも、牡蠣を育てる仕事は、とても朝が早い!
とくに、寒い冬の季節に、夜中の2時に起きて、
牡蠣を剥くという収穫の時期は、

「長靴が入らなくなるぐらい
 しもやけで、足が
 パンっパンっっになるんだよぉ。」


と、一代さんは、
底抜けに明るく教えてくださいました。

その盛屋水産さんご夫妻に
大切に育てられた牡蠣のある「筏」を目指します。
「乗組員」と言っても、じつは丘専門、
船には不慣れな「ほぼ日乗組員」、
万が一のライフジャケットを装着して、いざ、海へ。

一瞬、頬に当たる風は冷たく感じましたが、
慣れてくると思ったより、温かい。
盛屋水産のみなさんの熱烈大歓迎に、
わたしたちの気持ちも
ほかほかになったのかもしれません。

さあ、筏につきました。
牡蠣筏から、牡蠣を取り出し、

「こんなに大きくなったよー!」

と、よろこぶ一代さんの姿を
イトイがTwitterでお知らせしたりもしましたね。

牡蠣を殻から外して、野菜たっぷりのお鍋にドボン、
さらに、海水だけで味付けして
身が固くならないうちにいただきます。
体も気持ちも、ほっとする、
ほんとうにあったまるお鍋でした。
そのあとは、気仙沼湾を一周。
ほんの数カ月前に、大きな津波があった海、
その場所をはじめてクルージングする
わたしたちは、
それぞれにいろんな思いで、海を見つめていました。

それから、さらに3ヶ月後の現在。
盛屋水産の牡蠣は、とっても元気に育っています。
昨年の夏から仕込んだ、約8ヶ月めの牡蠣は、
もうすでに、通常の2年ものぐらいの大きさに
育っているとのこと。

写真を見ての通り、
ぷっくり! つやつや! ぴっちぴち!の
気仙沼の牡蠣。
どうです?? 
どこかのお嬢さんのように(?)
うつくしくて、おいしそうではないですか!

そろそろみなさん、牡蠣の味のほうも
気になってきましたよね?

盛屋さんのところの、採れたての牡蠣を
斉吉さんが、丁寧に蒸して、
炭火で焼いて、オイルにつけた
「牡蠣のオリーブオイル漬け」
なんと! 明日5月2日から、
新宿・伊勢丹の斉吉商店さんのコーナーで
販売がありますよ!
お近くのかたは、ぜひどうぞ。

盛屋水産の牡蠣船ツアーのほうも、
たくさんのかたに参加できるようになったら
また、こちらのページでお知らせしますね。
それでは、また。


※文中でリンクしているブログ
「盛屋水産 気仙沼つなぎ牡蠣の仕事。」

も、ぜひあわせてお読みください。

滞在一日目の夜、
石巻2.0のメンバー小泉さんに教えていただいた
「CRUISER」というお店で夕食をいただきました。
「魚介のサラダがうまいです!」と伺っていたので
早速注文します。

「CRUISER」は、
角田永吉さんという67歳のマスターが
一人で営むお店。
出てくるお料理は、どれもとっても美味しい。

他のお客さまがいらっしゃらなくなったところで
マスターが私たちの席に
お話をしにきてくれました。

学生時代はボート部、
仙台のホテルでコックとして修行をし
故郷石巻でお店をひらいたのだとか。
船、そして海が大好きなんだなということが
お店の内装やマスターのたたずまいから
ひしひしと伝わってきます。

漁港である石巻がとても栄えていて
街が人で溢れていた時代のこと。
石巻にはいった船の漁労長さんが
「ここにいるお客さんの分、
 全部払わせてけろ。」と言って
ふところに入っている現金の束を
どさっと置いていった話や
マグロ漁で石巻に入った船頭さんが
静岡県の焼津までタクシーを飛ばした話など
豪快な漁師さんたちの活気が
目の前に満ちてくるようなエピソードが
次々飛びだしてきます。

ジャズが流れる店内、美味しいお料理。
石巻に来たら、ぜひまた寄りたいお店でした。

石巻滞在2日目は、快晴。
コンテナを利用したカフェ「ICHI」さんで
「金華卵」のゆで卵など
ほっこりする朝食をいただき、
あらためて石巻2.0のオフィスに伺いました。

「昨日の晩は、石巻を楽しんでいただけましたか?」
と実行委員長のお一人である松村豪太さん
話しかけてくださいました。

震災後、復興バーのマスターもつとめる松村さんが
教えてくれた石巻のトリビア。

「石巻は、人口あたりのスナックの割合が
 日本で一番高いんですよ。」

確かに、小さな路地に入ると
スナックの看板がずらりとありましたありました。
今回は、お邪魔できませんでしたが
松村さんいわく「ストロングスタイルのスナック」に
次回石巻訪問の際にはぜひ立ち寄ってみたいです。

松村さんは、震災前から
総合型複合地域スポーツクラブのNPO職員として
ドイツのスポーツクラブを参考に
野球、サッカーなど
限定されたスポーツだけをやるのではなく
小さい頃から多種目のスポーツを
子どもたちに体験してもらえるような活動に従事されていました。

そのかたわら、地元石巻で
「石巻ふるさと復興協議会 事務局長」をつとめられ
活気あるまちづくりをしていくために
活動をされてきたおひとりでした。

地方都市特有の空洞化が進み、
石巻駅を中心とする商店街は
シャッターが降りたままの店が増え続けていた。
ねむりゆく街を
なんとかしたいと思っていたところに起きた
東日本大震災。

その中心商店街で震災後、
一番早くお店をあけたのは
松村さんも関わっていらっしゃる叔父さんが経営している
スポーツショップだったそうです。
震災翌日にお店をあけたというのは、
やはりすごいことですよね。

現在、石巻2.0のプロジェクトに
関わってくれているメンバーは全部で100人ほど。
その中でコアメンバーが20名ほどで、
石巻在中のスタッフは5名。

クライアントさんが石巻にいたからというご縁で
石巻工房」を立ち上げられることになった
建築家の芦沢さんをはじめ、
残りの方々は東京から石巻に通い続けているそうです。

「距離は関係ないと思っています。
 今は、スカイプやSNSを使って
 どこにいても頻繁にやりとりができますから」
とさらっとおっしゃった
松村さんのひとことが印象的でした。

でもその一方で、
石巻2.0のオフィス(石巻工房も併設)は
いつも人でにぎわっている。

IRORI石巻という名でオープンなスペースとして
使用されているためか、
1日目も2日目も、いつも人があつまって
小さなミーティングがそこここで行われていました。

ふと、糸井重里が
「気仙沼のほぼ日」をつくると決めた時のことを
思い出しました。

とにかく最初に「場所」をつくろう。

人が集まれることによって、
生まれるうねりはやはり大きくひろがっていくのだなぁということを石巻でも深く実感しました。

そして、もうひとつ
松村さんにお会いして強く感じたこと。
震災後、新しく活動しているように見えている人たちは
元々の問題意識が
しっかりあった方々なのではないかということでした。

「障壁のない
 オープンなまちをつくりたいです」
とおっしゃる松村さん。
新しいまちづくりのため、
いま一番欲しいものはなんですか、と
質問してみました。

「人員です」

すくっと答えがかえってきました。
震災後、さまざまなジャンルの人々が石巻にあつまり
専門スキルは充実してきている。
今欲しいのは、実際にアイディアを動かしてくれる
若手の人員ですと。

問題には、
今すぐに解決できる問題と
長期的に解決しなければならない問題の
2種類があるとよくいいます。

その両方をいったりきたりしながらも、
次の課題が具体的に見えている。
そのことがつよくわたしたちの心に響きました。

あたらしいまちづくりへの第一歩として
石巻出身のウェブディレクターの
古山隆幸さんが中心となり、
5月からは「イトナブ」という試みが始まるそうです。

春の選抜高校野球大会、
阿部翔人主将の宣誓でも話題となった
石巻工業高等学校と連携し
IT技術の基礎から応用を学生たちに学習してもらい
ソフトウェアやアプリの開発などを
行っていく予定なのだとか。

まずは、被災地観光アプリの開発から
着手をはじめるそうです。

それから、個人的にとてもいいなと思ったのは
商店街のIT相談窓口を設けるということ。
商店主の方々がみずから発信できる機会が増えたり、
世代を超えた人の交流ができる。

とにかく石巻2.0のメンバーが集う「場所」は
会話が絶えない。
すてきなご縁ができたことを嬉しく思いながら
「また来ます!」と石巻を後にしました。

中林、西田、
あたらしく「気仙沼のほぼ日」の仲間になった
さゆみちゃんとコイケの4人で
4月14日、15日と石巻へお邪魔してきました。

仙台から車を走らせ松島市、東松島市をとおり、
石巻市に入った時、まず目を奪われたのは
沿岸に積み上げられた
山のような白い固まり。

石巻は漁港としても有名ですが
有数の工業地帯でもあり、
山のような白い固まりは
日本製紙石巻工場で生産された「紙」でした。

眼前に広がる風景を見ながら、
車中がふっと静かになる時間をなんどか過ごして
石巻の街中に到着しました。

今回の石巻訪問の目的は大きくふたつ。
気仙沼を拠点に活動するわたしたちですが
気仙沼以外の被災地を
ちゃんと見ておきたかったということ。

そして、震災直後から精力的に活動をされている
石巻工房そして石巻2.0のオフィスに
お邪魔することでした。

商店が立ち並ぶ一角に
オフィスはありました。

ガラス張りの扉からは
木のベンチとテーブルが見えます。
このベンチとテーブルは
石巻2.0のプロジェクトのひとつである
石巻工房が製作したもの。

クライアントである飲食店が
石巻にあったことがきっかけで
早い段階から現地入りし、
復旧のお手伝いをしてきた
東京在中の建築家芦沢啓治さんが中心となり、
石巻工房は立ち上がりました。

工房にはDIYの工具をそろえ、自力で
修繕や生活必需品を制作できるような
お手伝いをすること、
自由に使える工房という「場」があることで
地域の幅広い年齢層の人々が集まることができ、
コミュニティの活性化に貢献すること
「手づくり」にデザインの付加価値を
与えることにより、
主に地域圏外で販売するための
石巻工房ブランドを立ち上げ、
現金収入を生むこと
などを目的に活動がすすめられています。

石巻訪問の直前に
東京で芦沢さんにお話を伺った時、
僕もあとで知ったんだけれど‥‥
と言いながら話して下さった
とても印象に残ったひとことがあります。

「『DIY』の言葉の意味、知ってます?」

第二次世界大戦時、
ドイツ軍の激しい空襲をうけたロンドンで
破壊された街を自分たちの手で
復興させるという国民運動のスローガン
「Do it yourself」が始まりだったんだそうです。

この言葉が、アメリカにわたってから
「DIY」は「復興」の意味合いから
「週末レジャーや余暇のひとつ」として楽しむ
という概念に変化したのだとか。

「DIY」のはじまりは
「街の復興」ということだった。

石巻工房では、
「DIY」でできるすべてのことを支援していく。
物語がつながっている、
そのことが先々への希望を
感じさせてくれるエピソードでした。

石巻工房という
「場」があったからこそ実現したことが、
もうひとつあります。

「デザインは問題を解決するためにある」
という考えのもと
家具メーカーのハーマンミラー社の
職人、デザイナーが12名
石巻に滞在をしました。

震災から8ヶ月後、
11月13日〜27日までの2週間にわたって
アメリカ、オーストラリア、
イギリスなどから集まった
職人とデザイナーが石巻工房と連携して
家具製作を行ったり、
地元高校生たちとワークショップを行ったり。

そのワークショップを経て、
石巻ベンチと石巻スツールという
商品が生まれました。

話を石巻2.0の活動に戻しますね。
石巻2.0の中には
石巻工房の他、様々なプロジェクトがあります。

石巻中心市街地で空室になっている不動産物件を
オーナーの方々とともに再活用し、
石巻を見に来られたり、
ボランティアで活動される方のための
滞在施設をつくろうという
復興民泊プロジェクト」や
地元酒造の銘酒やオリジナルのカクテルが飲める
復興バー」など。

「復興バー」のマスターでもあり、
石巻2.0実行委員長のお一人である松村豪太さん、
5月から「イトナブ」という
新しい試みを行われる石巻出身の
ウェブディレクター古山隆幸さんに
オフィスでお話を伺ったのですが、
長くなりましたので
お二人のお話はまた明日に。

1日目の夜、
今日という日を振り返りながら
はじめて訪れる被災地である
石巻のインパクトに
強く胸をゆさぶられていたことを
誰ともなく話はじめました。

石巻市に車が入った時、
山のような白い固まりを見て
車中がしーんとした瞬間、
みんなが同じことを感じていたようです。

前回、お伝えしたとおり、
4月から「気仙沼のほぼ日」に
あたらしい乗組員が加わりました!
自己紹介を兼ねて、
新人乗組員のサユミが
「今年の気仙沼の桜」のこと、お伝えします。
_____________________

はじめまして。
このたび「気仙沼のほぼ日」に
乗組員として勤務することになりました、
佐藤由実と申します。
すでにみなさんからは、サユミと呼ばれています。


「気仙沼のほぼ日」を読んでいるみなさんに
気仙沼のことをいろいろとお伝えして行くため
日々、勉強中です。
まだまだ不慣れなことばかりではございますが、
これから、どうぞよろしくお願いいたします。

私は、3月に
東京から気仙沼に引っ越してきました。
気仙沼市民になって1ヶ月が過ぎ、
あんなに寒いと思っていた一日が
だんだんと暖かくなって、
もう春なんだなぁという感じがしています。


私はもともと、
宮城県の松島というところの出身なので、
寒さはいくらでも我慢できると思っていたのですが、
東京の気温にすっかり慣れた体に吹き付ける
気仙沼の海風は、とても厳しいものでした。

それだけに、今年の「春なんだなぁ」は、
いつもより特別です。
ようやくこちらでも
梅につづいて、桜が咲き始めました。
春がやってくることと、
桜が咲くことを、
ずっと待っていたような気がしています。


当たり前のことですが、
桜は毎年春を告げるように咲きます。
昨年の震災の直後も、気仙沼の桜は
立派に花を咲かせていました。
でも、気仙沼の人は
その景色をほとんど覚えていません。
「去年、桜咲いてたっけ?」という人すらいます。
それだけ、目の前に
信じられない光景があったということだと思います。


冒頭の本の表紙になっている桜の写真は、
写真家の初沢亜利さんが
震災から1ヶ月後に撮影した
気仙沼市街を流れる大川の桜並木です。

初沢さんは、気仙沼を中心に、
震災で被害のあった地域に滞在しながら
1年間写真を撮り続けてきました。


写真には、
たくさんの気仙沼の人たちが登場しています。
被災した結婚式場で
震災後初めて行われた結婚式の新郎新婦。
避難所の広場でスケボーをする少年。
成人式の振袖を着て
元気な笑顔を見せる金髪の女の子。

撮影した写真を見せていただいて感じるのは、
初沢さんが、気仙沼の中に入り込んで、
人と生活を共にして撮影をしてきたということです。
目を覆いたくなるような被害を受けた
「被災地」と言われる場所であっても、
当然のように、
そこで生活している人がたくさんいます。
そして、みんなが一生懸命に
ならざるを得ない状況だからこそ、
ここに生きている人達が、カッコ良く見えたり、
笑顔が素敵に見えたりするんじゃないかなぁと、
写真を見ながらそんなふうに思いました。


さて、今気仙沼では、
2つのイベントがあります。
1つめは、初沢さんがこの1年間で撮影した
気仙沼の風景や人を中心にした写真展、
「True Feelings-気仙沼の1年-」です。
会場は、気仙沼八日町のお茶屋さん、
マルト齊藤茶舗。
(昨年、台湾のミュージシャン、
 スミンさんがライブをした会場です)
4月6日(金)に発売となった初沢さんの写真集
『True Feelings - 爪痕の真情。
 2011.3.12〜2012.3.11』
も販売されています。
会期は4月29日(日)までですので、
ご興味のあるかたは、お早めにどうぞ。
会場のお茶屋より
500円で抹茶甘味セットも提供されていますよ。


また2つめは、震災前まで毎年行われていた
「気仙沼大川さくらまつり」
再び開催されることです。
会期は4月22日(日)〜29日(日)です。

会場では屋台もあり、
桜を眺めながら、気仙沼の美味しい食べものを
楽しむことができそうです。
気仙沼の春フォトコンテストも開催されるとのこと。
こちらの様子は、また後日ここで
お伝えしていきたいです。


桜には、いろんな意味がありますが、
もっと単純に、みんなが春を、今年の桜を
待っていたんじゃないかと思います。
満開の桜をみて
「ああ、春がきたなぁ」と思える日が、
気仙沼にも、
もう、すぐそこまでやってきています。
_____________________

東京では、
もうすっかり散ってしまったところの多い桜、
気仙沼では、これからなんですね。
なんだか、うやらましいなぁ。

あたらしいことがはじまるこの季節、
みなさんは
どんな気持ちで桜を見ているのでしょう?
それでは、また。