・ここにきて、すっかり「お馴染みの年末年始」になった。
すごいもんだなぁ、同じことを繰り返しているんだ。
29日には新幹線に乗って京都へ。
総勢5名でレンタカーに乗り山の中の温泉宿にやってくる。
そのメンバーの1名も、もう何年も参加しているけれど、
ある時期まではベビーカーが必需品だったっけ。
いまじゃ、温泉に入ってシャンプーもじぶんでしているし、
モノマネだのクイズだの大暴れだのを延々とやっている。
30日は、いつもの「もちつき」に参加させていただいて、
おもちをいろんな食べ方でご馳走になる。
東京に戻ると「丹波の黒豆」が届いているから、
夜はそれを煮る準備をはじめる。
これはもうかれこれ30年くらいやっていることだ。
同時に、小豆も頂戴しているので、これはあんこにする。
段取りとか、手続きとかがほんとうに苦手なぼくは、
こういう根気よくやれば必ずできることは、嫌いじゃない。
ジャム用のビンも買ってあるので、何軒かに宅配で届ける。
しかし、いわゆる元旦のおせちには間に合わない。
京都の落柿舎近くの井浦人形店さんの干支人形を添えて、
送り出すのは年が明けてからのことになる。
こうやって書いていてよくわかるのだが、
出てくる「名詞」と「動詞」が、お馴染みなのである。
もうちょっと具体的に書いたら、もっとよくわかる。
同じもの、同じ人、同じ行動が、
この時期に、まったく同じように繰り返されているのだ。
既視感というにも無理がある、知っててやってることだし。
さらに、ここから正月の様子など書き出したら、
もっと同じだとわかるにちがいない。
せいぜい、おせちの作り手の料理人が亡くなったり、
店仕舞いしたりして、少し変化していることぐらいかな。
同じ、同じ、同じ、この同じは同じなりに、
少しずつは変化してきて、こういう同じになった同じだ。
正月と言えばバリに行ってた時期なんかもあったり、
昔は故郷だってなくはなかったわけだしね。
来年のいまごろになって、また同じだったら、
この原稿をそのままコピーして掲載しようかしらん。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
この同じをありがたいことですと言えるようにはなりました。