はじめての中沢新一。
アースダイバーから、芸術人類学へ。

とんでもなく大きい視野のイベントができました!
友人たちが関係者席に座りたがってタイヘンです。
タモリさんと、糸井重里の依頼で、
中央大学教授の中沢新一さんが、登場するんです。

30年間の研究を、徹底的に濃縮し、
糸井重里に邪魔されながら、
タモリさんに突っこまれながら、
旧石器時代から現在につながる人間たちを、
そして未来に向けての人間たちの希望を……
たぶん、目の前に、想像させてくれるはずです。

「対称性、という道具を持って世界を見るうちに、
 自分の思考の中でなにか決定的なことが起きた」

縄文地図を手に東京を歩く『アースダイバー』や
全5巻の大傑作『カイエ・ソバージュ』の内容を、
いい会場、きれいな座席、長丁場で、語りつくす!

イベントがどんなにおもしろくなるか、
想像できそうな、打ちあわせの会話を、
「ほぼ日」では、連載してゆきますね。


第1回 マンモスの反省 第2回 半裸のおもしろさ
第3回 意外なことをやらないと 第4回 イヤがらせとの戦い
第5回 いちばんたいへんな時は 第6回 負け犬、いいよねぇ
第7回 資本主義が生まれる瞬間 第8回 縄文はバカ?
第9回 人間を超えるもの 第10回 土地の記憶
第11回 なんか、皮がムケました 第12回 縄文地図からわかること
第13回 どこまでもつながってゆく
   
 
第1回 芸術人類学とは何か 第2回 洞窟の奥で何が起きたか


第4回 人類学の可能性は残されている



(前回につづき、中沢さんの文章を掲載いたします)

どうやら私たち現生人類の心は、
まったく仕組みのちがう、
ふたつの思考のシステムの共存として
働き続けているようなのです。

ひとつは外の環境世界の構造に
適応できるような論理
(それがアリストテレス論理というものの
 本質にほかなりません)
の仕組みをもって作動する言語のモジュールで、
それにしたがって生きるときには、
私たちは合理的な行動ができるようになります。

ところが現生人類の心には
それとはまったくちがう、
対称性の仕組みで動く層あるいは領域があります。
ここでは、言語の論理が
分離しておこうとするものをくっつけてしまい、
ちがう意味の領域を隔てている壁を突破して、
時間の秩序からさえも自由になって、
多次元的にさかんに流動していく
知性の流れがみられます。
つまり、人類の心は、
合理的な言語のモジュールにしたがって
組織されて非対称の論理で動く層と、
現生人類の心を特徴づけている
「流動的な心」の流れでできた
対称性の論理で動いている層とが
ひとつに結合している、
「複論理=バイロジック」としてつくられているのです。

ふたつの心の働きのうち、
どちらが先につくられたかというと、
おそらく言語モジュールで動く、
合理的な非対称の論理のほうだと思います。
なぜならば、現生人類以前の人類たち、
宗教も芸術ももたないけれども、
すでに完成した石器制作の技術をもち、
みごとな狩猟者であり、
植物の利用にたけている博物学者であり、
また立派な社会をつくっていた
社会学者でもあった人類たちの思考を、
厳しい自然環境の中で
まちがいなく導いていけたのは、
現実とみごとにフィットできる
非対称の論理のほうでなければならないからです。

ところが
大脳の中のニューロンの結合方法に
画期的な進化をとげることによって
出現した現生人類の心に生まれたのは、
それとはちがう対称性の論理で動く
「流動的な心」でした。

心の働きのその部分は、現実との対応がなくとも、
自由に活動することができます。
つまり抽象的なことでも
自在に考え出すことのできる、
きっと将来は数学のような
学問を生み出すことのできる心の層が
形成されてきたわけですが、
同時にそこには、現実との対応関係をもたないでも
勝手に肥大していくことのできる
幻想界というものがつくられて、
妄想もできる狂気にも陥りやすい性質が、
あらわれてくるようになります。
現生人類は自分のなかに
狂気への可能性を開くことによって、
はじめてそれまでの人類たちを
越えた存在になった、と言えるかも知れません。

私たちの心のなかでは、
この異なる論理で作動をおこなう
ふたつの部分がいつもいっしょに動いています。
つまり、このことばの構造によって動かされている
「意識的」な領域では、ものごとは
論理的に並べられ、整理され、秩序立てられています。
ものごとは時間の秩序にしたがって動いています。
ところが「無意識」の部分では別の論理が動いています。
こちらの層ないし部分に
ひとの知性が接近してきますと、
そこにはあらゆる意味での
「詩的」な表現が生まれてきます。
それを外から見ていると、
言語の合理的なモジュールのなかに、
多次元的な対称性の論理で作動する「無意識」が
侵入してきて、ねじまげられてしまい、
意味の重層化や音楽化がおこっている、
というふうに見えるでしょう。

しかしじっさいには、
「バイロジック」で動いている
私たちの心の、いちばん自然な状態を、
「詩的」な表現はあらわしています。
つまりそこで、人類の思考の
「野生」が生き生きと働いているのです。

こうして、私たちの前に、
人類学のまだ開発のされていない
未知の沃野が開かれてきます。
もしも私たちが、社会的な法や、
社会的なものの考え方や、
習慣づけられた感受性などに拘束されていると、
現生人類の本質をなす「流動的な心」や
対称性の論理で動いている「無意識」の働きは、
なかなか見えてきません。

人類学という学問は、私たちを
「外からの視線」によって見ることによって、
自分についての認識を揺り動かし、
つくりかえていくきっかけをもたらすものだ、
と前に言いましたね。

そうだとするならば、
私たちは合理的な思考によって固められた
人間についての学問の「外へ出る」ために、
勇気をもって人類の徴である「流動的知性」のなかに、
大胆に踏み込んでいく学問として、
人類学をつくりなおしていくことができるでしょう。

このような方向に踏み出した構造人類学は、
自分のよって立つ方法論を言語学に据えたために、
パラドックスにつきあたってしまいました。
しかし私たちが構想しているこの新しい人類学では、
合理性を越える英知を生み出してきた
「流動する心」を土台に据え直すことによって、
この学問に
未来への生命を取り戻させようとしています。
私たちは、古いもののなかから
真実新しいものを取り出そうとしているのです。

ここまで話してくると
すでにお気づきになった方も
いらっしゃると思います。
ここで新しい人類学について言われていることは、
まさに芸術がおこなおうとしてきた
探求の領域に一致しているのです。

さきほど詩の例をあげましたが、
詩だけにかぎりません。数万年前に
人間の最初の芸術活動がはじまったとき、
それは人類が自分たちの心の本質に
向かいあおうとする最初の試みといっしょでした。
そのとき人類は自分たちの心に芽生えた
「流動する心」というものに
直接触れる体験を持とうとしていましたが、
その「流動する心」の働きと一体になった表現技術が、
あの壁面にみごとな芸術作品を生み出してみせたのです。

そしてそれ以後も、芸術は原初のときにおこった
この純粋な感動から離れることなく、
現生人類としての自分の本質に触れる
創造の行為に、打ち込んできたのでした。

私たちの心の内部には、
まだ「野生」の沃野が残されています。
どんなに合理的な社会管理や経済システムが
世界を覆う勢いを見せているとはいえ、
私たちの心から現生人類への最初の飛躍を記念する
あの偉大な徴は、消え去ってはいません。
いや、人類が生き残ってあるかぎり、
その徴は消えようがありません。
芸術は私たちの心の奥底に眠っている、
この記憶の領域、
いまだに野生を生き続けているこの思考の領域を、
表現のなかに取り出してみたいという欲求を
抑えることができません。

どんなに社会の形態は
変化してしまったとはいえ、
どうやら現生人類としての私たちの心の本質は不変です。
数万年ものあいだ、人類の心の基本構造は
いっこうに進化も変化もとげていないのです。
私たちは同じ脳の構造を持ち、
同じ「バイロジック」を生き続けています。
私たちのなかにはいまだに野生の領域が生きています。
それどころか、人間としての
私たちの本質をつくっているものは、
そこにしか存在していません。

こうして、「芸術人類学」という
私たちのはじめようとしている
新しい試みの核心部が、はっきりと見えてきました。
人類学は人間がほんらいは
「バイロジック」によって思考する、
複雑で重層的な心をもった生き物であることを
強調してきました。
その学問は、神話的な思考というものの意味を
あきらかにしてきましたが、
その研究によると、神話は無時間的で
ものごとをくっきり分離してしまわない
「対称性の論理」と、
ものごとを物語の秩序にしたがって
配列しながら語っていくことのできる
論理能力との結合体にほかなりません。
そのために、神話には
ふつうの論理には絶対にあらわれない、
独特の「ねじれ」をもった
神話特有の論理で語られるのです。

伝統的に人類学が対象としてきた社会の人々は、
このように「対称性の論理」と
合理的判断を可能にしてくれる
「非対称的な論理」とを対等な立場において、
社会生活の場面場面に応じて、
自在に組み合わせて使う能力に
恵まれた人たちだったのだ、
と言うこともできます。
別の言い方をしてみますと、
「対称性の論理」というのは
一般に「右脳」に特有な働きであり、
「非対称的な思考」は
「左脳」がつかさどっていると
言われていますから、
人類学は近代世界で急速に失われてきた、
「右脳」と「左脳」の働きのアンバランスを正して、
人類に「右脳」と「左脳」のバランスのとれた
「バイロジック」を実現しようとしてきた学問である、
と考えることもできます。

そういう意味で言ったら、
芸術は「バイロジック」の典型的な形態です。
「バイロジック」の活動をつうじて、
芸術は表現に秩序をあたえる論理的な能力と、
そこからあふれ出る流動的で多次元的な、
自由な活動をおこなう「流動的な心」という
ふたつの知性形態を結合し、
新しい表現領域を開こうとしているからです。

したがって芸術はつねに新しく、
そしてつねに
もっとも古い知性活動をあらわしている、
ということにお気づきになったことと思います。
つねに真新しい表現を
生み出そうとしているいっぽうで
(芸術のなかの無時間的な「無意識」が
 働いてつくりだされるものは、
 流行とはかかわりないところで、
 つねに新しいと言うことができます)
芸術は人類の知的活動のもっとも古い層、
人類の心にいまも確実に残されている
野生の野に触れているからです。

そればかりではありません。
芸術のなかには「バイロジック」さえも
突き抜けたところに出現する、
超越的な「心」の流動体のほうに向かって、
自分を開いていこうとする衝動が
抱え込まれています。
その点で、芸術は宗教の領域に
かぎりなく接近していくことになります。
そこであらゆる表現が消滅していく
極限点のようなところに、
芸術はいつもひかれつづけてきたのでした。

その意味では芸術のなかには、
神話的思考を越えていく
超越性への衝動が潜んでいます。

私たちは「芸術人類学」という
新しいことばによって、
人間にかんするふたつの偉大な学問の伝統、
すなわちいっぽうで「バイロジック」で作動する
「野生の思考」を主題に据えてきた
レヴィ=ストロースの構造人類学と、
もういっぽうで芸術と宗教の起源をめぐる思索をつうじて
あらゆる思考の絶する非知の働きを
現生人類の心の本質としてみいだしたバタイユの思想、
このふたつの思想を結合したところに
あらわれてくるはずの、
未知の思考の領域を開こうとしています。

それによって、
私たちは何を求めているのでしょうか。
私たちは人類がまだ、
自分の心の奥に野生の野を抱えていて、
いまではすでに
失われてしまったように思われている、
その野を開く鍵を再発見することが
いまも可能であることを、
確実な仕方であきらかにしてみせたいのです。
現代においてはめったに見られなくなった
無謀な企てに、私たちは乗り出そうとしています。
「芸術人類学」の守護神は、それゆえ
ドンキホーテ、その人です。


(こちらの中沢さんの文章は、2005年7月23日
 多摩美術大学における講演に加筆修正を加えました。
 次回更新の「はじめての中沢新一」もおたのしみに)

2005-11-04-FRI


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