はじめての中沢新一。
アースダイバーから、芸術人類学へ。

とんでもなく大きい視野のイベントができました!
友人たちが関係者席に座りたがってタイヘンです。
タモリさんと、糸井重里の依頼で、
中央大学教授の中沢新一さんが、登場するんです。

30年間の研究を、徹底的に濃縮し、
糸井重里に邪魔されながら、
タモリさんに突っこまれながら、
旧石器時代から現在につながる人間たちを、
そして未来に向けての人間たちの希望を……
たぶん、目の前に、想像させてくれるはずです。

「対称性、という道具を持って世界を見るうちに、
 自分の思考の中でなにか決定的なことが起きた」

縄文地図を手に東京を歩く『アースダイバー』や
全5巻の大傑作『カイエ・ソバージュ』の内容を、
いい会場、きれいな座席、長丁場で、語りつくす!

イベントがどんなにおもしろくなるか、
想像できそうな、打ちあわせの会話を、
「ほぼ日」では、連載してゆきますね。


第3回 狂いやすい人間にとっての言葉とは



(前回につづき、中沢さんの文章を掲載いたします)


芸術は洞窟内での体験と
密接に結びつきながら生まれ出ています。
宗教と芸術の根源はひとつ、
と言われることがありますが、
その根源とは超越性をそなえた
「流動する心」そのものにほかなりません。

私たち現生人類の心の構造そのものが、
宗教と芸術を生み出したのです。
妄想をいだくことがなく、
自然と過不足のない対応を実現している
ほかの生物は、
宗教も芸術もつくろうとしませんでした。
ホモエレクトスもホモファーベルも
またネアンデルタール人のような旧人も、
宗教や芸術はつくろうとはしませんでした。

それは彼らが生命体として
劣っていたためではありません。
彼らはそれぞれの領域では、
生物としての完璧さを実現しています。
ただ現生人類だけが、
外の現実にしばられることのない
自由な「心」の流動性を獲得し、その結果、
非現実的なことを思いついたり、
実行したりするわけです。
「狂った生物」である人類だけが、
宗教と芸術を生み出した、
とさえ言えるかも知れません。

ですから、
動物とちがって人間は狂いやすいのです。
狂気に陥りやすい性質をもっています。
さきほども言いましたように、
「流動的な心」の働きを本質としているために、
外の現実とちゃんとした対応関係を持たない
幻想界というものが形成されて、
この幻想界をもとにして
自己イメージをいだいたり、
世界の意味を考えたり、そこで行動したり、
あるいは他人の心の内部でおこっていることを
推測しようとする、そういう
「人間的」な行動をおこなうようになります。
人間は妄想を持ちやすい生き物です。
「流動的な心」の活動が開かれて、
かつてないほどに広大な自由があたえられ、
外の現実世界をつくっている
さまざまな限界づけを超えた心の活動が
可能になってくるのと引き替えに、
というかその裏面として、
幻想性や妄想がたえまなく発生してくるのです。

こういう特質を持った生き物には、
自然の法
(インド人が「ダルマ」と呼んだものです)
とは別に、
社会の法、社会の掟が必要になってきます。
爆発的な強烈さを秘めている心の活動を制御して、
ほかの人間とのあいだに
おだやかなつながりをつくり、
外の現実とのあまりゆがみのない
対応関係をつくることができ、
そこで合理的なコミュニケーションを
おこなうことのできる
社会関係をつくらなければなりません。

ものを合理的に理解して、
ほかの人間とコミュニケーションをおこなって、
社会をつくっていく。
社会をつくるというのは、
ほかの人間が考えていることと
自分の考えていることは
だいたい同じですよ、という
調停点をみいだしていくことにほかなりません。

目の前に紙があったら、
みんながそれを紙だと認めることができなければ、
社会はつくれません。
みんなが紙だと認めているのに、
いや象だという人がいたら、
コミュニケーションを実現するのは困難でしょう。

流動性を持った「心」には、
紙と象を区別している壁を越えていくことなどは
容易なことです。
ですが、社会的コミュニケーションを
実現していくためには、
「流動的な心」の働きが
直接おもてにあらわれてくるのを
押さえなければなりません。
私たちはいつもそうやって、ふつうの人、
まともな人として生活しようとしているんですね。

ところが、どんなまともな人も
心の内面には、
まともでないものを抱えもっています。
十万年前に出現した
ホモサピエンス・サピエンスという
生き物の心の構造そのものが、
社会的コミュニケーションにとっては、
まことに「まともでない」動きをしめすのです。
社会が必要とするものから過剰してしまい、
自分を限界づけ制限づけするものを
越えていってしまおうとする、
自由な「流動する心」の働きが、
誰の心の中にも活動しているからです。
そういう「呪われた部分」が
人類の心の働きの
いちばんの基本をつくっているのですが、
それでは社会はつくられません。

ですから私たちは
自分の心のほんとうの部分、
心のいちばんの源泉になっている部分を
抑圧しなければならないのです。
それが心の活動の表面にあらわれこないように
「深層」に沈めたり、
その活動に制限を加えようとします。
そうしないと「合理的」な行動ができないからです。

人間の本質を考えるときには、
合理性ということが非常に重要になってきます。
この合理性とは何かといいますと、
文法どおりものを語り、
そのとおりに考えることができるいうことに
尽きるでしょう。
言語というものは、
非常に合理的にできています。
主語と述語の対立をもとにして
複雑に形成されたこの言語というもの、
世界中のどんな言語という言語が、
同じ基本構造を持っていることがわかっています。

どの言語も、
合理的な思考を人間に約束してくれているのです。
自然言語はどこの言語でも、
アフリカで語られている言語でも、
オーストラリア原住民が語っている言語でも、
アメリカ・インディアンが語っている言語でも、
ラテン語でも、サンスクリット語でも、
言語の基本構造は同じで、それが
人類の「狂いやすい心」を制御して、
合理的な心の運用を可能にしているわけです。

こういうことばの構造を使って、
自分の心に立ち起こるイメージを整理したり、
それを順序立てていくと、
外の現実世界をつくっている構造や、
そこにこれから起こるであろう出来事の構造と、
だいたい同じ型(ホモモルフィズム)で
動く構造を、
心の中につくりだすことができます。
ことばが持っている文の構造は、
私たちが自分の心の内部に抱え込んだ
爆発的な活動力に
方向づけや秩序や構造をあたえて、
私たちが妄想や個人的な幻想に陥らないようにして、
日常生活がまちがった方向に
踏み込んでいかないようにすることに
成功してきました。

このようなすばらしいことばの能力によって、
人類はこんなにかよわい生命体でありながら、
地球上で生き延びることができました。
そのために人間にかんするあらゆる学問は、
まずこういうこのことばの構造と
それをもとにして形成される社会性をもとにして、
人間を理解しようとしてきたわけです。
社会学でも経済学でも心理学でも、
基本はみなこのことばの構造による
合理性にもとづいています。

人間にかんする学問自身が、
何かを恐れているように見えます。
自分の本質をのぞき込むのを
怖がっているようでもあります。
この点において、現代の人間科学は、
ラスコー洞窟に潜っていった
あの旧石器時代の人類に、
はるかに遅れをとっているのではないでしょうか。

彼らはそこで、
自分たちの存在を可能にしている、
自分自身の心の本質をのぞき込もうとしています。
そこで彼らの前に出現してきたのは、
社会性やことばの合理性を
吹き飛ばしてしまうほど強烈な、
裸の状態にある「流動的な心」そのものでした。
彼らは現代人のように臆病でなかったから、
危険をおかしてでも、自分の本質に
近づいていこうとする純粋さを持っていたのでしょう。
それにくらべると現代の私たちは
本当のことを語るのを恐れている、
臆病な偽善者のように見えます。


(中沢さんの文章は、次回につづきます)

2005-11-01-TUE

(C)Hobo Nikkan Itoi Shinbun