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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-06-04

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・見たことがある、というものを想像するのは難しくない。
 動物園ででも、本のなかででも、象を見たことがあれば、
 象というのはこういうものだなと見当がつく。
 幼稚園くらいの子どもでも、たぶんある程度は知っている。
 しかし、たとえば源頼朝は、どうだったろうか。
 「インドという国には象という動物がいて、
 それはそれは大きなものでございます。
 耳は団扇より大きくてぱたぱたいたします。
 四つの脚はそれはそれは太く大樽のようであります。
 長い牙を持ち、それよりなにより、
 恐ろしいのは鼻なのであります。
 大きいというよりとにかく長いのでございます。
 大蛇のような長く太い鼻でものをつかんだりいたします。
 それを鞭のように振るい虎などもなぎ倒すのであります」
 と、伝え聞いたとしても、現代の幼稚園児でも知っている
 あの象を思い浮かべることはできないだろう。
 答えを知ってしまえば簡単に思えることでも、
 まったく知らないことについては、ものすごく難しいのだ。
 日本で最古のカレーというのが、明治5年にあったらしい。
 食べたことのある人がつくったにしても、
 おそらくいまの人たちの知ってるカレーとは、
 まったくちがったものだったろう。
 ほんとかどうかは知らないがカエルの肉も入っていたとか。
 聖徳太子であっても、食べたことも見たこともないような
 「カレー」をつくれとか言われたら、
 どうにもならないだろう、いやなんとかするのかな。

 しかし、それにしても、と思うのだ。
 いまの時代のぼくらは、見たことも聞いたこともないことを
 なんでも検索して「あ、こういうものか」であるとか、
 「象に似ているけど爬虫類らしいよ」であるとか、
 なんだかとにかく「知ったもの」として処理できてしまう。
 見たことも聞いたこともないままなのに
 「知ってる」つもりになってあれこれ言えちゃうのである。
 ほんとは、まだよくわかってないということを、
 もっと大事にしろよ、と思わないのか俺よ、である。
 そんなおまえごときになんでもわかられて、たまるものか! 
 ということなのである、俺よ。
 ぼくらの「未来」は、だれも見たこともないものである。
 源頼朝にとっての象が、ぼくらの未来なのである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
もっと知らないことを知らないと認めろよ、俺よ、である。


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