小学2年生の圧倒的なエネルギーに囲まれ、
給食、昼休み、残りの時限、帰りの会は飛ぶように過ぎた。
2年4組のみんなは、私に別れを告げ、
カラフルなランドセルを揺らして帰宅してゆく。
そして静かな教室に先生と私が残った。
2年生用の小さな机と椅子を
向かい合わせ、改めて話し始めた。
卒業して20年、先生に聞きたかったことを。
先生と2人きり、初めての個人面談のようだった。
私
私に書いてくれていたような通知表、
当時は、先生と自分の1対1でしか
捉えられていなくて、
先生がこんな風に自分のこと
沢山書いてくれる。
そこへの嬉しさしかなかったんです。でも大人になって読み返したら、
先生は同じ熱量×30人分をしていたことに
今更ながら気がつきました。先生は先生になった頃から今まで、
担任するクラス全員に、毎学期、
こんな風に通知表を書いているんですよね。
それってすごくエネルギーがいることだと思うんです。書くことは勿論だけど、書くためには、
担任の生徒全員に目を配り、
向き合っていないといけない。
その向き合う深さも、
先生の通知表を思うと、
並々ならぬものなんだろうなって。
そのエネルギーってどこからきているんですか?
このスタイルになった先生の通知表の所以も
聞かせてほしいなと思っていて。
先生
そうね……。わたし、変わらないのよね。
いや、変われないのよ。
このスタイルでしか、きっともうできないの。
教師になって最初の着任校が、
1〜5の評定で生徒を評価しない方針の学校だったの。
全て文章で、その生徒の評価を伝える。
私自身が数字で明示される評定で育ったし、
評定を付ける方法が当然と学んできたから
すごく戸惑ったのよ。で、何をどうすれば良いのか分からなかった。
自分のスタンダードが通じないって怖いね。
その迷いが伝わったのか、
生徒に総スカンをくらっちゃったんだ。
あれは堪えたね。今じゃ考えられないけど、
授業の合間にトイレで涙こらえたりね。
最初は本当に手探りで、もう授業も、
学期末の通知表の記入もしんどさばっかり。
その学校のやり方に従って、
それとなく、こなすしかなかったんだ。でも転機があって。
同じ学校の先生の一人が
「仮説実験授業」と言うものをやっていた。
今日のエナジースティックの授業も
その仮説実験授業。真帆ちゃんを担任していたときも
違う題材で仮説実験授業していたの覚えてるかな。板倉聖宣先生と言う方が提唱した授業の方法なんだよ。
「こどもを主役に。こどもが喜ぶことを授業に」
って考えがもとになっているの。問題・予想・理由・討論・実験・解説。
この流れで授業を進めるんだけど、
生徒に無理やり意見を言わせちゃダメ。
自発的に手をあげている子の声を聞き取る。
こちらの感受性を押し付けずに、
生徒の興味や関心を汲み取るの。この授業の方法に出会っていなかったら、
先生はこどもから心が離れていってしまっていたと思う。
仮説実験授業で、こどもの見方が変わったんだ。
“人を否定しない・色んな子がいて良い”。
そう心底思えるようになったんだ。
どんな素っ頓狂な、突拍子もない
発言をする子がいても、そうかそうか、
て受け止められるようになった。先生の授業の、と言うか、
教師としての軸はこの仮説実験授業です、
って、言えると思う。あとはプライベートな話なんだけど、
その頃、先生は離婚してね。
伴侶と思ってた存在から全否定されて。
正面からNOを突きつけられるような、
否定される経験が、それまでなかったんだ。
そこで初めて人の痛みが
分かるようになれたことも大きいと思う。否定された自分を、受け止めて、
認めてくれた場所が学校だったんだ。
仮説実験授業との出会いと、離婚が、
こどもへ向き合いう姿勢の変化になったんだ。
戸惑いしかなかった、評定ではない方法での
通知表の記入にも、前向きに取り組めるようになったのは
ここが転機だったと振り返ってみると、
そう思えるね。
(つづきます)
