- ――
-
若い頃のように、
またたくさん洋服を作るようになったのはいつ頃から?
- 母
-
本格的に作りはじめたのは、
74歳で会社勤めをやめてからね。
作りたいとずっと思っていたのよ。
自分で作って、自分で着たいじゃない?
自分の体に合わせて、自分の好きな形に作って、着る。
それが一番よね。
腕のいい友達が近くにいてくれたのもいい刺激になった。
- ――
- じゃあ、今が一番楽しく縫えているのね。
- 母
- そうね。自分の服を縫えて、着られて、うれしい。
- ――
- 好きなデザイナーとか、いた?
- 母
- いなかった。
- ――
- 即答なのね。
- 母
-
女学校のときにね、まだ小学生だった弟を下宿先に泊めて、
一緒に仙台で映画を見に行ったことがあるの。
主人公の女性が、洋服のデザインをするんだけど、
人から教わったり本を見たりではなくて、
自分の中からどんどんアイデアが湧き出てくるのよ。
いいなあと思った。私も、誰かに教わるのではなく、
そういうふうに洋服を作りたいと思ったの。
- ――
- そんな映画がその当時、あったのね。
- 母
- タイトルも、誰が出ていたかも忘れちゃったけどね。
- ――
- お母さんにとって洋服って、何だと思う?
- 母
- おしゃれそのものね。
- ――
- じゃあ、お母さんにとって洋裁って?
- 母
-
洋裁がなかったら田舎で暮らしていたかもしれないわね。
洋裁があったから東京に出られたというのがある。
- ――
- 働く手段として洋裁があったということ?
- 母
-
そう。東京の学校を出ていれば、
他の仕事にも就けたでしょうけど、
田舎の学校じゃだめよ。見下されるだけ。
経理の資格でも持っていれば話は別だけど。
私には洋裁しかなかった。だから洋裁に走っちゃった。
和裁は座って黙々と針を動かすばかりでおもしろくないけど、
洋裁はダーっとミシンをかけられるのがおもしろいじゃない?
それでいろいろなデザインが作れて、
自分で着られるのだから、洋裁はいいわよ。
- ――
- もし東京で生まれていたら、どんな仕事をしていたと思う?
- 母
-
わからないけど、和裁、洋裁は考えなかったでしょうね。
それは田舎を出る手段だったから。
おじいちゃん(母の父)は独身の頃、
東京の南千住(荒川区の町名)に住んで、
働いていたんだって。
南千住の工場で正社員になれたけど、
結婚を機に田舎に帰ってしまったらしいの。
おばちゃん(母の母)の方は、田舎から南千住に
出てきてもいいと思っていたのに。
それを聞いたとき、どうして田舎に引っ込んだのかと
すごく残念に思った。東京で生まれたかったわ。
そうしたら仕事もいいのが見つけられたじゃない?
惜しかったなあと思うわ。
- ――
- そんなに東京がよかったの?
- 母
-
だって、東京はおしゃれができるでしょう?
おしゃれができるのは楽しいわよ。
確かに母は洋裁のプロでした。
プロとして働いた期間は、
会社員として働いた期間よりも短いですが、
しかしそこには、会社員として働くのとは、
比べものにならないほどの時間と情熱が費やされていました。
母の中での洋裁のプロとして生きた時間は、
まるごと自分を注ぎ込めて、濃密で、
他のどれとも違う時間が流れていたことでしょう。
それは今も続いているのです。
まだまだだなと、自分のこれまでを振り返って思いました。
そのときどきに一生懸命ではありましたが、
母のように手足を動かすのではなく、
ただあがいてきただけのようにも思います。
いつの日か、気負いもなく、てらいもなく、
母のようにさらっと「プロだから」と口にできるように、
あきらめないで、がんばっていこうと思います。
また、母のお手製の服に身を包んだ小さい頃の写真を
久しぶりに目にして、私は母が作った服にも、
守られ、育まれてきたのだと思いました。
母の作った服は、意外なほど、どれも私に似合っていて、
私の知らない私らしさというものを
引き出してくれていたように思うのです。
母の口から私の知らない母の人生を聞けてよかったです。
こういう機会がなければ、知らずに終わっていました。
最後までおつきあいいただきまして、
ありがとうございました。
<おわります>