もくじ
第1回洋服は憧れそのもの 2019-03-19-Tue
第2回洋服が着たい、洋服を作りたい 2019-03-19-Tue
第3回東京で洋服を作りたい 2019-03-19-Tue
第4回1日1本を仕上げられたら一人前 2019-03-19-Tue
第5回洋裁仲間がいたから続けられた 2019-03-19-Tue
第6回今が一番楽しい 2019-03-19-Tue

フリーで書籍の編集とライターをしています。陽気な母との暮らしを満喫中。シーズンごとに急に体を動かしたくなって、ランニングをしたりトレッキングに行ったりします。趣味は合唱。昔とった杵柄です。

85歳、看板を出さない洋裁師さん

85歳、看板を出さない洋裁師さん

担当・さとうえみこ

第6回 今が一番楽しい

――
若い頃のように、
またたくさん洋服を作るようになったのはいつ頃から?
本格的に作りはじめたのは、
74歳で会社勤めをやめてからね。
 
作りたいとずっと思っていたのよ。
自分で作って、自分で着たいじゃない?
自分の体に合わせて、自分の好きな形に作って、着る。
それが一番よね。
腕のいい友達が近くにいてくれたのもいい刺激になった。
――
じゃあ、今が一番楽しく縫えているのね。
そうね。自分の服を縫えて、着られて、うれしい。

――
好きなデザイナーとか、いた?
いなかった。
――
即答なのね。
女学校のときにね、まだ小学生だった弟を下宿先に泊めて、
一緒に仙台で映画を見に行ったことがあるの。
主人公の女性が、洋服のデザインをするんだけど、
人から教わったり本を見たりではなくて、
自分の中からどんどんアイデアが湧き出てくるのよ。
いいなあと思った。私も、誰かに教わるのではなく、
そういうふうに洋服を作りたいと思ったの。
――
そんな映画がその当時、あったのね。
タイトルも、誰が出ていたかも忘れちゃったけどね。
――
お母さんにとって洋服って、何だと思う?
おしゃれそのものね。

――
じゃあ、お母さんにとって洋裁って?
洋裁がなかったら田舎で暮らしていたかもしれないわね。
洋裁があったから東京に出られたというのがある。
――
働く手段として洋裁があったということ?
そう。東京の学校を出ていれば、
他の仕事にも就けたでしょうけど、
田舎の学校じゃだめよ。見下されるだけ。
経理の資格でも持っていれば話は別だけど。
 
私には洋裁しかなかった。だから洋裁に走っちゃった。
和裁は座って黙々と針を動かすばかりでおもしろくないけど、
洋裁はダーっとミシンをかけられるのがおもしろいじゃない?
それでいろいろなデザインが作れて、
自分で着られるのだから、洋裁はいいわよ。

――
もし東京で生まれていたら、どんな仕事をしていたと思う?
わからないけど、和裁、洋裁は考えなかったでしょうね。
それは田舎を出る手段だったから。
 
おじいちゃん(母の父)は独身の頃、
東京の南千住(荒川区の町名)に住んで、
働いていたんだって。
南千住の工場で正社員になれたけど、
結婚を機に田舎に帰ってしまったらしいの。
おばちゃん(母の母)の方は、田舎から南千住に
出てきてもいいと思っていたのに。
 
それを聞いたとき、どうして田舎に引っ込んだのかと
すごく残念に思った。東京で生まれたかったわ。
そうしたら仕事もいいのが見つけられたじゃない?
惜しかったなあと思うわ。
――
そんなに東京がよかったの?
だって、東京はおしゃれができるでしょう?
おしゃれができるのは楽しいわよ。

確かに母は洋裁のプロでした。
プロとして働いた期間は、
会社員として働いた期間よりも短いですが、
しかしそこには、会社員として働くのとは、
比べものにならないほどの時間と情熱が費やされていました。
母の中での洋裁のプロとして生きた時間は、
まるごと自分を注ぎ込めて、濃密で、
他のどれとも違う時間が流れていたことでしょう。
それは今も続いているのです。

まだまだだなと、自分のこれまでを振り返って思いました。
そのときどきに一生懸命ではありましたが、
母のように手足を動かすのではなく、
ただあがいてきただけのようにも思います。
いつの日か、気負いもなく、てらいもなく、
母のようにさらっと「プロだから」と口にできるように、
あきらめないで、がんばっていこうと思います。

また、母のお手製の服に身を包んだ小さい頃の写真を
久しぶりに目にして、私は母が作った服にも、
守られ、育まれてきたのだと思いました。
母の作った服は、意外なほど、どれも私に似合っていて、
私の知らない私らしさというものを
引き出してくれていたように思うのです。

母の口から私の知らない母の人生を聞けてよかったです。
こういう機会がなければ、知らずに終わっていました。

最後までおつきあいいただきまして、
ありがとうございました。

<おわります>