もくじ
第1回洋服は憧れそのもの 2019-03-19-Tue
第2回洋服が着たい、洋服を作りたい 2019-03-19-Tue
第3回東京で洋服を作りたい 2019-03-19-Tue
第4回1日1本を仕上げられたら一人前 2019-03-19-Tue
第5回洋裁仲間がいたから続けられた 2019-03-19-Tue
第6回今が一番楽しい 2019-03-19-Tue

フリーで書籍の編集とライターをしています。陽気な母との暮らしを満喫中。シーズンごとに急に体を動かしたくなって、ランニングをしたりトレッキングに行ったりします。趣味は合唱。昔とった杵柄です。

85歳、看板を出さない洋裁師さん

85歳、看板を出さない洋裁師さん

担当・さとうえみこ

我が家には、私が生まれる前から足踏みミシンがありました。
家庭用ミシンではありません。職業用です。
ウエストシェイプされたような美しいフォルムに、
適度な重量感を備えたミシンは、
すでに3台目に代替わりしましたが、
我が家にやってきた当初から
母のよき相棒でありつづけています。

私が覚えているかぎり、ずっと洋裁を続けている母は、
職業的には、鋳物工場の事務の正社員を、
定年を過ぎた74歳まで27年間勤め上げた会社員です。
にもかかわらず、母の口からときおり、
「私は洋裁のプロだから」という言葉が漏れるのです。

洋裁のプロ?

母に、これまで聞く機会のなかった
洋裁にまつわる話を聞きました。
そこには知っているようで知らない
戦後日本の洋装化の波と連動する人生がありました。
日本の各地にたくさんいるであろう、
名もない一人の洋裁師のお話です。
よろしかったらおつきあいください。

第1回 洋服は憧れそのもの

ここ2年、母の洋裁熱にはすごいものがありました。
母のワードローブに新たに加わったのは、
オーバーやコートなどの羽織ものが5着、
ブラウスが10枚以上。
私のワードローブに新たに加わったのは、
ワンピースが1枚、ブラウスが4枚。
スカートが2枚、パジャマが2枚。
すべて母の手作りです。

そればかりではありません。
お友達に頼まれたコートもあれば、
同じくお友達に頼まれた洋服の直しもあり、
初めて手がけた帽子作りは、
すっかりはまって20個以上を完成させ、
お友達や親戚にどんどんあげていました。

――
なんだかすごい勢いで作っていたね。
安くていい生地が手に入ると、
いろいろとイメージが浮かんで作りたくなっちゃうのよ。
――
お母さん、洋裁はどこで習ったの? 
高校? それとも洋裁学校?
仙台の女学校よ。朴沢(ほうざわ)高等女学校。
実家の津久毛(宮城県栗原市金成津久毛)からも
通えないことはなかったけど、冬になると、
真っ暗な中を帰ることになるから、仙台に下宿をしたの。
家庭科の授業が他の教科よりも比重が大きい学校で、
そこで和裁と洋裁を習ったのよ。

【朴沢(ほうざわ)高等女学校】
現在の「学校法人朴沢学園・明成高等学校」。
女性の社会進出を図って、明治12(1879)年1月に、
裁縫技術を教える「松操私塾」として開設された。
宮城県では最古の高等学校。
昭和23(1948)年4月の学制改革に伴い校名を
「朴沢女子高等学校」と改称。
母はこの学校名のときの生徒になる。
<参考:朴沢学園HP、Wikipedia>

――
習いはじめたときから洋裁は好きだったの?
洋裁が好きというより、洋服が好きだった。
私が小さい頃は、洋服が流行り出した頃でね。
それまでは丈の短めの着物に、帯ではなくて紐を結んで、
下駄を履いて学校に行くのが普通だったの。
それが、裕福な家からだんだんと洋服を
着るようになっていったのよ。
洋服は憧れだった。洋服が着たかったの。
――
最初に着た洋服を覚えてる?
着る物が変わったなと自分ではっきり覚えているのは、
小学校1年生に上がる年に、
兄が買ってきてくれたセーラー服だった。
10歳上の兄は、長野県の鉱山で働いていたんだけど、
家に帰るようにいわれて、そのときにお土産として
黒地に白の線の入ったセーラー服を買ってきてくれたのよ。
ブラウスとスカートの上下のをね。嬉しかった。
特別な日にしか着せてもらえなかったけど、
着られた日は嬉しくてね。
――
すごく気の利いたお土産だね。
セーラー服が流行りだした頃だったのでしょうね。

――
おじいちゃんがせっかく買ってくれた
毛皮のオーバーコートを
泣いていやがったという話があったよね?
あれはね、小学校1年生か2年生のとき。
おじいちゃんが私のオーバーを買いに行ってくると言って、
馬に乗って一ノ関(岩手県一関市の鉄道駅)に出かけたの。
楽しみだったから、暗くなっても起きて帰りを待っていたのよ。
それでいざ包みを開けたら、真っ黒なマントが出てきたので、
「男のオーバーなんていやだ」って泣いちゃった。
――
ん? でも、おじいちゃんが買ってきたのは、
真っ黒な色をしていても、女の子用だったんでしょう? 
何がいやだったの?
私が欲しかったのは、ケープだったのよ。
マントの裾にひらひらしたヒダがついている、
女の人しか着ないものがほしかったの。
うちの隣の家には私と同い年くらいの女の子が
2人いたのだけど、家がお金持ちだったから、
そういうのを着ていたのよ。それが欲しかったの。

――
おじいちゃんには伝わっていなかったの?
伝わっていなかったのでしょうね。
当時は、学校にオーバーを着てくる子なんていなかった。
大きな四角いショールを三角形に折って、
頭からすっぽりかぶるのが流行っていたの。
首のところで合わせて、そこを手で持ってね。
おじいちゃんが買ってきてくれたのも、それに似ていて、
本物の毛皮ですごくあたたかかったけど、
みんなが着ているようなのはいやだったの。
男物か女物かわからないようなのもいやだった。
――
それで、そのマントはどうしたの?
おばあちゃんに「せっかく買ってきてもらったのに、
そんなこと言うんじゃない」って怒られて、
しょうがないから着たわ。

<つづきます>

*洋服、帽子の画像はすべて母の作品(以下第6回まで同)
*最後の人物画像はコートのみが母の作品(1枚目の作品と同じ)

第2回 洋服が着たい、洋服を作りたい