昭和一桁生まれの母は、第二次世界大戦中に小学校に通い、
終戦を迎えた4年後に、高等女学校に入学しました。
当時仙台市の中心部は、
昭和20(1945)年7月の仙台空襲による爪痕がまだ残り、
焼け野原があったといいます。
- 母
-
私が通った女学校は、一番町(仙台市青葉区一番町)という
仙台の中でも中心部のいい場所にあったの。
まっすぐ行ったところの大町(仙台市青葉区大町)に
生地やさんがあって、歩いて行けてすごく便利だった。
デパートの藤崎も三越も近くにあって、
お金がないから買えないけど、よく見に行ったわ。
洋裁の勉強になるし、楽しかった。
- ――
- 女学校ではどういう服を作ったの?
- 母
-
子どもの服を作る授業は楽しかったわね。
子ども服って、かわいいじゃない?
兄の子しか着せる子がいなかったから、
姪っ子にいろいろ作ったわよ。
生地があまりいいのがなかったのが残念だったけど、
カッコいいワンピースを作ってあげたら、
すごく喜んでくれてね。それもまた嬉しかった。
自分に子どもができたら、
自分で洋服を作ってあげようと思った。
- ――
-
服を作るのは授業中だけ?
それとも宿題として家に持ち帰ったの?
- 母
-
どうだったかしら。授業で教わったものは
授業中だけで仕上げたのではなかったかしら。
学校では部分縫いの練習が主だったのよ。
だから、どこかで手に入れた型紙を友達同士で交換しあって、
みんな、自分の家で洋服を縫っていたわ。
私は下宿だったから、下宿先のミシンを借りてね。
- ――
- 学校の授業だけではあき足りなかったのね。
- 母
-
あき足りないというより、洋服を着たかったのよ。
高校2年か3年のときに、
7泊8日の修学旅行があったのね。
そのときは大変だったわよ。なにしろ8日間、
着回す洋服を用意しなくちゃいけないんだから。
必死になってミシンをかけたわよ。
- ――
- 7泊8日? どこに行ったの?
- 母
- 京都、奈良、大阪。
- ――
- 東北新幹線はまだ開通していないよね?
- 母
-
急行はあったけど、新幹線なんてない、ない。
移動が長いからみんな疲れ切って、
電車の中では寝てばかりだった。
- ――
- 電車の中でも泊まったの? 寝台車?
- 母
-
寝台車なんて乗るわけないじゃない。
普通の座席に座って眠るのよ。
旅館にも泊まったけど、電車の中でも夜を越したわ。
- ――
-
下宿先にミシンがあったということは、
当時は、たいていの家にミシンがあったということ?
- 母
-
田舎はわからないけど、仙台あたりの家には、
だいたいミシンはあったわね。
当時は、どこの家でも誰かしら洋裁ができて、
子どもの服はふつう、家で作るものだったけれど、
うちのおばあちゃんはお裁縫ができなかったのよ。
それで、隣の家の洋裁のできるお嫁さんに頼んで、
着物をたおして洋服にしてもらったりしていたの。
でもそうそう、よその人に頼むわけにもいかないじゃない?
だから自分で作れるようになれて嬉しかった。
- ――
-
仙台には生地やさんがあったんだよね。
仙台以外にも生地やさんはあったの?
- 母
-
どうだったかしら?
金成や沢辺(共に宮城県栗原市)あたりには、
呉服屋さんがあったけれど、
洋服の生地を売っていたかどうかまではわからないわ。
私が下宿した先には双子の女の子がいたのね。
その家のおじさんは県庁に勤めていて、
東京によく出張で出かけていたけれど、
一等車の切符の料金が出るところを普通車で行って、
その差額で生地をいっぱい買って帰ってきたの。
「見てごらん。うちのお父さん、これ買ってきたのよ」
って言って、おばさんが見せてくれるのよ。
双子の洋服は全部、おばさんが手作りしていた。
本を見ながらだったのかしら。昼でも夜でも作っていたわ。
【一等車の切符】
もと鉄道で、旅客サービスに2種または3種の等級が
あった時代の、設備・サービスが最もよい車両。
<デジタル大辞泉>
<つづきます>
*人物が一人だけで写る画像の服は母の作品(以下第6回目まで同)
*3枚目のオーバーコートは既製品を裏返して自分で仕立て直したもの