もくじ
第1回洋服は憧れそのもの 2019-03-19-Tue
第2回洋服が着たい、洋服を作りたい 2019-03-19-Tue
第3回東京で洋服を作りたい 2019-03-19-Tue
第4回1日1本を仕上げられたら一人前 2019-03-19-Tue
第5回洋裁仲間がいたから続けられた 2019-03-19-Tue
第6回今が一番楽しい 2019-03-19-Tue

フリーで書籍の編集とライターをしています。陽気な母との暮らしを満喫中。シーズンごとに急に体を動かしたくなって、ランニングをしたりトレッキングに行ったりします。趣味は合唱。昔とった杵柄です。

85歳、看板を出さない洋裁師さん

85歳、看板を出さない洋裁師さん

担当・さとうえみこ

第2回 洋服が着たい、洋服を作りたい

昭和一桁生まれの母は、第二次世界大戦中に小学校に通い、
終戦を迎えた4年後に、高等女学校に入学しました。
当時仙台市の中心部は、
昭和20(1945)年7月の仙台空襲による爪痕がまだ残り、
焼け野原があったといいます。

私が通った女学校は、一番町(仙台市青葉区一番町)という
仙台の中でも中心部のいい場所にあったの。
まっすぐ行ったところの大町(仙台市青葉区大町)に
生地やさんがあって、歩いて行けてすごく便利だった。
デパートの藤崎も三越も近くにあって、
お金がないから買えないけど、よく見に行ったわ。
洋裁の勉強になるし、楽しかった。
――
女学校ではどういう服を作ったの?
子どもの服を作る授業は楽しかったわね。
子ども服って、かわいいじゃない?
兄の子しか着せる子がいなかったから、
姪っ子にいろいろ作ったわよ。
生地があまりいいのがなかったのが残念だったけど、
カッコいいワンピースを作ってあげたら、
すごく喜んでくれてね。それもまた嬉しかった。
自分に子どもができたら、
自分で洋服を作ってあげようと思った。
――
服を作るのは授業中だけ?
それとも宿題として家に持ち帰ったの?
どうだったかしら。授業で教わったものは
授業中だけで仕上げたのではなかったかしら。
学校では部分縫いの練習が主だったのよ。
だから、どこかで手に入れた型紙を友達同士で交換しあって、
みんな、自分の家で洋服を縫っていたわ。
私は下宿だったから、下宿先のミシンを借りてね。
――
学校の授業だけではあき足りなかったのね。
あき足りないというより、洋服を着たかったのよ。
 
高校2年か3年のときに、
7泊8日の修学旅行があったのね。
そのときは大変だったわよ。なにしろ8日間、
着回す洋服を用意しなくちゃいけないんだから。
必死になってミシンをかけたわよ。
――
7泊8日? どこに行ったの?
京都、奈良、大阪。
――
東北新幹線はまだ開通していないよね?
急行はあったけど、新幹線なんてない、ない。
移動が長いからみんな疲れ切って、
電車の中では寝てばかりだった。
――
電車の中でも泊まったの? 寝台車?
寝台車なんて乗るわけないじゃない。
普通の座席に座って眠るのよ。
旅館にも泊まったけど、電車の中でも夜を越したわ。

――
下宿先にミシンがあったということは、
当時は、たいていの家にミシンがあったということ?
田舎はわからないけど、仙台あたりの家には、
だいたいミシンはあったわね。
当時は、どこの家でも誰かしら洋裁ができて、
子どもの服はふつう、家で作るものだったけれど、
うちのおばあちゃんはお裁縫ができなかったのよ。
それで、隣の家の洋裁のできるお嫁さんに頼んで、
着物をたおして洋服にしてもらったりしていたの。
でもそうそう、よその人に頼むわけにもいかないじゃない?
だから自分で作れるようになれて嬉しかった。
――
仙台には生地やさんがあったんだよね。
仙台以外にも生地やさんはあったの?
どうだったかしら? 
金成や沢辺(共に宮城県栗原市)あたりには、
呉服屋さんがあったけれど、
洋服の生地を売っていたかどうかまではわからないわ。
 
私が下宿した先には双子の女の子がいたのね。
その家のおじさんは県庁に勤めていて、
東京によく出張で出かけていたけれど、
一等車の切符の料金が出るところを普通車で行って、
その差額で生地をいっぱい買って帰ってきたの。
「見てごらん。うちのお父さん、これ買ってきたのよ」
って言って、おばさんが見せてくれるのよ。
双子の洋服は全部、おばさんが手作りしていた。
本を見ながらだったのかしら。昼でも夜でも作っていたわ。

【一等車の切符】
もと鉄道で、旅客サービスに2種または3種の等級が
あった時代の、設備・サービスが最もよい車両。
<デジタル大辞泉>

<つづきます>

*人物が一人だけで写る画像の服は母の作品(以下第6回目まで同)
*3枚目のオーバーコートは既製品を裏返して自分で仕立て直したもの

第3回 東京で洋服を作りたい