日本酒を最初にくちにした瞬間の記憶は
いまでも鮮明に残っています。
でも、場面はあまりにも
殺風景なシュチュエーションでした。
飲み会でもデートでもない。
居酒屋でも夜景の見えるレストランでもなく、
お店の洗い場です。
食器やグラスが山と積まれた普通の洗い場でした。

ライターの仕事をする前のことです。
私はもともと人見知りを克服したくて
飲食店で働きはじめたのですが
接客業が好きになってやりがいを感じ、
将来は自分の店を持ちたいと
さまざまなところで昼夜を掛け持ちしながら働いていました。
そんなとき知人に
「日本酒専門店でアルバイトしないか」と誘われます。
22歳のときでした。
「日本酒」と聞いてなんだかすごく難しそうだな、
そう躊躇していたのですが時給がよかったことにつられて
とりあえず働きはじめるわけです。
最初は日本酒の店を選んだことを後悔しました。
なぜなら、
店に置いてある日本酒は数種類どころか70種類以上で
銘柄がほとんど読めない。例えば、飛露喜、黒龍、鶴齢。
これらを、とぶつゆ、くろりゅう、つるれい？　
うーん、どうしよう、という具合に。
（正しくは、ひろき、こくりゅう、かくれい）
当時からお酒は好きで飲んでいましたが
日本酒は飲んだこともなければ身近にもない。
私は途方にくれながら、味を知るよりもまず
読み仮名を書いた銘柄を暗記する日々が続くのでした。

そして、しばらくたったある日。
客席から見えない裏の洗い場で
グラスを拭いているときでした。
「ちょっと飲んでみない？」と店の女将が
一升瓶の底に少し残った大吟醸を
猪口に注いでくれたのです。
まだ銘柄すら完璧に覚えていない私は、
後ろめたさもあってさっさと飲んでしまおうと
ぐいっと一気に日本酒をくちに含みました。
たった数秒のことだったでしょうか。
その瞬間に私は目をまるくしました。
ダイヤモンドダストの波動に包まれるような
ふわふわ〜っとした快感が体からこみ上げてきたのです。
「わあ、なんておいしい飲みものなんだろう！」
私は思わず、グラスを投げて
女将に抱きつきそうになったくらい。
きれい、甘い、つるん、苦い、ぴりっ、など
いろんな味や感触が一気に丸まって
私の全身にスーッと沁みていく。
どうしていいかわからないくらいの
おいしさでした。

いま思い返すと、この瞬間に、
私は日本酒という装置を身につけたんだと思います。
それからは、もう夢中でした。
働いていたお店だけではなく
暇さえあればたくさんの居酒屋に行って片っ端から飲み
日本酒教室に通ったり
仕事の休憩時間を惜しんでテキストにかじりつき
利き酒師の資格も取得しました。
酒蔵へ通いはじめたのもこの頃です。
お店での仕事にも、とうぜん、力が入りました。
どうしちゃったんだろう、私。
自分でも驚くほど、日本酒にのめり込んでいきました。

（つづく）