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500min. long long interview with Shigesato Itoi
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『糸井重里500分』
ヨドガワ(解説文)
糸井darling重里が
自ら語ります
第14回 めんどくさがりの美学

(※今回は、糸井重里の独白でおとどけです!)


こんな風に、長い時間をまとめて取って
話を続けてきたわけですけど、
「長い時間、いっぺんにやってみようぜ!」
って言うと、そうであるがゆえの
アイデアが出てきたりするじゃないですか。

たくさんいっぺんに何かやるとかっていうのが、
ぼくは好きなんですよね。めんどくさがりだから。
追いこんでいくところで自分に期待してるとか、
他人に期待してるとか、
たぶん、そういうことなんでしょうけど。

適度にバランスよくやっていく時って、
何も生まれないことが多いんですよ。
ただ、碁石を置いていくだけで
終わっちゃうみたいなことによくなる。

そこに無理な負荷をかけたりすると、
苦しまぎれに生まれてくるものがあるというか、

ぼくはそれをいつも期待してるんでしょうね。
明らかに、その傾向はあります。
具体的に仕事をふりかえっても、そういうのが多いし。

昔の広告の話を、アッキィが
「ほぼ日は、実は
 広告関係者が沢山読んでいるから、
 たまには広告の話を」ということで、
いろいろ質問してくれてありがたかったんだけど、
そういう中で、一貫していることがあるとすれば、
今言ったような「めんどくささ」は、そうだと思う。

仕事をするときでも、昔からめんどくさがって、
材料をわざわざ買いにいったりしなかったですし、
資料を調べることだって、ほんとにめんどくさい。
「今、何もないところから生むことがおもしろいんだ」
という姿勢は、もしかしたら、これまで、
ぼくがいろんな人に影響を与えたかもしれないぐらい、
よくやっていたことですし、今もやっていることです。

努力の気配がないというか、引用はしないとか。
おんなじことを言っているのがさくらももこです(笑)。
だけど、だからこそ、
さくらももこやぼくの言ってることは、
みんなが、すぐに読めるんだと思う。


自分でうまく言えないから借りてきただけっていうのは、
かっこわるいし、つまんないんですよ。
大上段からものを言うことも、学生のときに懲りてます。
「ほぼ日」にも書いたことがありますけど、
どちらを選ぶかというときって、どっちを選んでも、
その後の人生にたいした被害はないんです。だけど、
「その考えに基づいて人生を投げ出したら、
 こんなになっちゃいました!」みたいに
言われるようなことを避けるようには、生きてますね。
「ほぼ日」も、出入り自由なんだよ、
抜けることも自由だよって、いつも言っていないと、
不安でしょうがないですから。

めんどくさい描写で言うと、
たとえば小説で言うと、最初に坂道を登ってった時に
どういう景色がつながって、
夜なんだか昼なんだか分からないみたいなことが
4ページくらいかいてあるじゃないですか。
あそこって、みんな大っ嫌いだと思うんですよ。
でも、そこを読むのがまず義務なんだなと思って
しぶしぶ、読むじゃないですか。
あれがねえ……映画もそうですよね。
思わせぶりなアップがあって、
コーヒーのスプーンがポロンなんて落ちたりしてさ。

そういうのって、
「あれは、こういうことだったのか」
って思わせるための、
「俺は頭がいいだろうシリーズ」なんです。
そういうのって、「へぇ」だけで、充分なんですよ。

ただ、そういうめんどくさいことだけが
好きな人っていうのも、別のよさがあるんだけど。
保坂和志さんとか、風景が好きだもんねぇ。
「順番にゆっくりモノを見てるとおもしろいんだよ、
 一緒に見ようよ」ってことは、またすごいですよ。
動物を見てるのと同じで、
そういう順番でモノを見ることは
二度とないから、いいですし。
ただ、ぼくのやっていることは、
とにかく、めんどくさがりの美学なんですよ。

めんどくさがりのいいところもあると思うんです。
たとえば、あんまり自分をひけらかさないですし。
みんな、ある程度仕事をやっていると、
自分をひけらかそうとしたり、
大きくしたりすることに、励むんですよね。
でも、それって生存戦略として、
あんまりいいことじゃないとぼくは思う。


無理に自分を大きくしたとしても、
その当時に仕事をした人が
代理店やテレビ局や出版社で偉くなっちゃったとき、
その次の時代の現場のディレクターや編集者から、
使われにくくなっちゃって、早く終わりますよね。
だから、ギャラをあまり上げないで、
使ってもらいやすくしていた田村正和の逸話とかは、
ぼくは昔から、
「へぇ。これは覚えとこう」って、思っていました。

かつて、NHKで司会をやったときも、
ぼくは広告で食っていましたから、
「これはいつ終わってもぜんぜんいいし、
 終わりたい」と思ってやっていたんですね。
1年で終わるつもりだったんです。
3年ぐらい続いたんだと思うけど。

ただ、その30歳前後の頃を思い出してみると、
やっぱり、今よりももっと自由な人間だったから、
ひどかったなぁ、とは思う。
地方の局で収録するときに、
寝坊して飛行機に乗り遅れたり、
先方は電話をかけようとしているけど、
俺の居場所って人に教えていなかったり……。
そういうことが、しょっちゅうでした。

「そこに座れ!
 おまえのやっていることが、
 他の人たちにどう迷惑をかけているか!
 みんなに支えられておまえがいるんだぞ」
って、自分を正座させて説教したいぐらいですね。
仕事自体も、バカにしていたんです。
自分自身も含めて、ぜんぶバカにしていたから。

ひとりで住んでいるか、時間があれば
誰か女のところに行っているか、なんてやつを、
信用できるわけがないじゃないですか。

そいつが、テレビのクイズ番組に出ながら、
イヤホンで野球中継を聞いているんだから、
それは、メディアだって怒るし、
「あいつの足をひっぱってやれ」って思われて
ひっぱられますよね。
「ろくでもないから打たれても仕方のない杭」で。

ただ、そういうバカのエネルギーというか、
バカならではの自由さみたいなものって、
貴重なんですよね。
だから、ぼくは他人がそういうことをしていても、
「ここまではオッケーだ」
という線引きをしたい気持ちが、
ものすごいあるんです。
そのときに自由じゃなかったら、もっと
つまんないまとまりかたをしてたなっていうのは、
ほんとうによく感じるからね。
あいさつさえしっかりしておけば何でもいいとか、
「最後に責任を取るのは自分だと覚悟してるんだったら、
 どこまで走っていってもいいや」
っていうようなことは、よく思うんです。

ただ、そういう生活をしていると、
ほんとに逃げちゃうやつだと、
どこかで確実につぶれますよね。
俺も、悪いことをして遊び疲れて、
午前4時ごろに会社に戻って、椅子を並べて寝て、
そのあとにうちに帰ったり、いっぱいしていたけど、
たぶん、ほんとうには逃げなかったんだと思う。

何か「すげえ」って思わせてから
メチャクチャすると、だいたい通るんですよね。
でも、メチャクチャしておいてから、
いつか「すげえ」で返しますって言っても通らない。
だからそのときには、一応、
説得力は持っていたんでしょう。
「そうとうすごい」と言われないと、
こんな野放図なことは誰も許してくれないだろう……
そういう恐怖心はありましたから。

(※アッキィさんや枡野浩一さんたちによる
  長時間のインタビューは、具体的な広告をふりかえって
  続いていったのでしたが、かなり詳細な話でしたので、
  「糸井重里500分」は、年末年始企画ものとしては、
  いったん、今日で終わりにいたしますね。
  ご愛読、ほんとにありがとうございました!
  500分の中から、収録していない部分に関しては、
  もしかしたら、今後、ちょっとまとめなおして、
  別の形でおとどけするかもしれません。
  そのときには、また、お会いしましょう……)

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