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年末年始スペシャル!
『糸井重里500分』
今回のインタビュアー
今泉清保アナ
第7回 大学入学までの糸井重里

(※ひきつづき、糸井重里の生いたちを聞いています!)


糸井 湾岸戦争って、1990年でしょう?
それから今は13年経ってるわけです。
ぼくが小学校高学年のときには、太平洋戦争から
まだ、そのぐらいの時間しか、経っていなかった。

壊滅的な打撃を受けて、
原爆は落ちるわ焼夷弾で燃えるわ、
何にもありませんよっていうところに、
ジープでこういう帽子を被った人たちが
道を通る占領の時代を、自分でも見てるもん。

東京タワーができたのが昭和33年ですから、
戦争からたった13年なんです。
湾岸戦争から今日までの間に、
東京タワーが建ったり、売春防止法ができたり、
とにかくみんな昭和33年なんです。
濁流のような時期でした。

子どもの頃はラジオが楽しみだった。
テレビが普通の家に入ったのは小学校高学年。
ぼろぼろにぶっ壊れてから、10年ちょっとで、
全員がテレビを見られるようになった。

日本の戦後復興って、
当たり前のように言われるし、
活字で見るとみんな驚かないけど、
体験してると、ほんとに奇跡でしたよね。
何かモノが増えていくことがぼくの年表ですよね。
だから今でも、不景気に弱い人だと思いますよ。
小さい頃の体験があるから、
「いつか、よくなるに決まってる」
って思いながら生きてきたんじゃないかなぁ。
今泉 糸井少年は、
どんなオトナになりたかったですか?
糸井 とにかく、はやくオトナになりたかったです。
「子どもはいいよなぁ」ってよく言われるけど、
子どもほど不自由なものはないですからね。
禁止されてることの分量は圧倒的に多いですし。
ルールを守っている分量っていうのは、
オトナよりも子どものほうが多いんだと思います。
だから、あんまり子どもを抑圧すると
ルール一般を大嫌いになっちゃうんですよ。

いわゆる団塊の世代って言われてる人たちって、
発展途上の時代背景の中で、
勉強できたら出世したり、
いいことがいっぱいあるような
幻想が強かったんです。
だから、子どもはずいぶんいろいろ禁じられた。
くそまじめに育てられると、
オトナになってから、バカができますよね。
同世代には、そういうものを感じますよ。
酔っぱらってどんちゃん騒ぎをしている姿を見ると、
ずいぶん、子どもの頃に禁じられてたんだろうなぁ、
と思ってしまう。
今泉 クラスの中では、どういう子どもでしたか?
糸井 残念なことに、いい子なんです。不良じゃない。
今泉 そんな感じがします。
糸井 いい子だけど、
先生とともだちとどっちを取るかって
いう時に、ともだちを優先するので、
ものすごく怒られるんですよ。

いっぺんに捕まって
「そこに並べ!」っていうときに
いちばん、怒られるんです。
学級委員の選挙とかやると満票なんです、ぼく。
連名なんかだったら、糸井は決まってるんです。
「もう一人は誰になるんだろう」みたいな。
それを自分で当たり前だと思ってましたからね。
まぁ、イヤなガキって言えばイヤなガキです。
不良とも付き合いがあるし、
そうじゃないグループもかけもちしてたし。
勉強もできるし、俺が親だったら、そういう子は、
「なんか、痛い目に遭えばいい!」と思いますよ。
今泉 部活は?
糸井 運動はやってません。
ぼくはちっちゃい時からおばあちゃん子で、
体が弱いという前提で育てられていたので、
「運動は苦手」と刷りこまれてるんですよね。
確かに力もないし、細いし、ダメでした。
モテてましたけど、
パッとしたかっこいい人ではなかったですよ。
今泉 高校は、前橋高校ですよね。
糸井 うん。男女別学。
今泉 男子な感じですか?
糸井 もーのすごく男子です。
その時代にそぐわないような格好を
わざとするような学校です。
ゲタ履いて、そんな時代に
誰もいないのに手拭いをぶら下げて。
まぁ、エリート意識の裏返しなんですけど、
そんな人たちの残ってるような学校でした。
今泉 糸井さんは、やっていましたか?
糸井 ちょっと取り入れてました。
今泉 (笑)どの辺りを。
糸井 ゲタ屋のおじさんに
「天狗みたいに歯一本のできない?」
って、一本歯の高ゲタを履いたり。
うらやましがってマネするかと思ったら、
誰もマネしなかったけど。
今泉 高校でも生徒会とか、やってました?
糸井 小学校は児童会、
中学になって生徒会をやってたけど、
高校になったら、頭の中では不良化してましたから、
生徒会の役員を当選させる仕事とかを
するようになりましたね。
今のやってることに近い。

生徒会役員になりたそうなやつがいるんですよ。
そいつを人気者にするんですよ。カンタンなんです。

演説原稿をぼくが書いたら、それを読むとウケて、
1年生の生徒会副会長とかが誕生するんだけど、
そいつら、1回当選するといい気になるんです。
今泉 得意な学科とか苦手な学科は?
糸井 学年が上になるにつれて、
どんどん算数系がダメになりましたね。
今泉 国語とか作文は?
糸井 得意じゃなかったです。
自分ではうまくいくなと思っても、
ほとんど、いい点はつかなかったですね。
確かに、先生にほめられる作文は、
正直さと丁寧さがあるよなぁとは思っていた。
そして、自分には、
それがないと感じていました。

隠しごとのある子どもだったんです。
「そんなこと、みんなに言うもんじゃないよな」
って、本心は書かないようにしていましたから。
当時の作文は、要するに、何から何まで
ほんとうのことを言うものが
いいとされていたんです。
今泉 将来は、何になりたいと思っていましたか?
糸井 本当はわかんなかったんですけど、
中学の時に漫画で褒められたんですよね。
で、「漫画家になりたい」と。
漫画は大好きでしたから。
ただ、職業についてのリアリティはなかったです。
それになるんだっていうリアリティはありません。

ちゃんと描いてたし、
高校卒業したら漫画を書きはじめるって決めて、
ケント紙買って、枠線も引いて、鉛筆で下書きして
ペンを入れてたんですよ。ホワイトで修正して。
とにかく漫画に育てられたし、好きだったんです。
今泉 大学には、行こうとしていました?
糸井 みんな行くんで、行きたいと。ただ、父親が
「大学に行くのか?
 大学に行かないんだったら100万円やる。
 それで商売するなり遊ぶなりすればいい」
と言ったんです。
でも、子どものほうが飛びこめなかった。

「行きたくねぇなぁ」と
クチでは言ってるものの、まわりが行くから
行きたいんですよ。だらしがないったらない。

ともだちが、俺は慶應だおまえは早稲田だ、
って言っている横で、100万円もらったからって、
大学に行かない決断するのは、
むずかしかったんです。
ぼくの初任給って2万円だったから、
当時100万円って、
大金だったと思うんですけどね。

だいたい、子どものほうが保守的ですよ。
若くしてスピンアウトする人は、
その前にだいたい、負の理由があるんです。
夢で飛び出す人は、
子どものうちにはなかなかいない。

(つづきます)

2003-12-30-TUE
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