原宿の近くにありながらも、
インテリアやライフスタイルのお店が多く、
おちついた大人の町として人気の千駄ヶ谷三丁目。
この町に居を構える「TITLES」(タイトルズ)は、
世界各地で買い付けてきた
ヴィンテージの雑貨や家具を扱うお店です。
もともと、撮影やディスプレイのための
リース(貸し出し)が本業だったため、
「知るひとぞ知る」存在でしたが、
近年、販売も行なうようになったことで、
「あそこに行けば、おもしろいものが見つかるよ」
と評判になっているんです。
このお店を立ち上げ、いまも年に数回、
自ら海外での買い付けを行なっている
オーナーでありバイヤーの鵜飼健仁さんに
お話を聞きました。

鵜飼健仁さんのプロフィール

鵜飼健仁 うがい・たけひと

1951年東京生まれ。
高校卒業後、漫画家を目指しニューヨークへ。
帰国後、グラフィックデザイナーに。
世界中から集めたヴィンテージ家具や雑貨を
撮影用小道具として提供するリースショップ
AWABEES(アワビーズ)」「UTUWA(ウツワ)」、
そして販売も行なうインテリアショップ
TITLES(タイトルズ)」を運営。

その2
夢やぶれて。

──
ニューヨークの出版社では、
1コマ漫画の採用までには、
どういうプロセスがあるんですか。
鵜飼
1日に7社ぐらい持ち込みで回るんですよ、出版社を。
見せると、3枚ぐらいキープしてくれるわけ。
で、翌週行って「T. Ugai」って
自分の名前が書かれた棚を見ると、
3枚とも返って来てる。
ちっちゃな紙に「今回は採用はありません」って。
そこから1年間、毎週水曜日、7社ずつ通っても、
いっこうにダメでした。
──
厳しいですね。
鵜飼
毎週、毎週、毎週、1年、1枚も、
どこの出版社からも採用がない。
自信満々だったのが、心が折れて来る。
逆恨みし出して、「何だこいつら冷たい! 
far eastからこんないたいけな少年が来て、
漫画描いてんのに!!」って。
──
あちらには「情」で仕事を出すことなんてないんですね。
鵜飼
そう、面白いかつまんないか、だけです。
ところがあるとき、
「ナショナル・ランプーン(National Lampoon)」
っていう新しい出版社があって、
そこはジョン・ベルーシが出ていた『1941』っていう
コメディの戦争映画も作っていたような会社なんですが、
編集長がニコニコして
「先週預かったやつ、採用だよ」って。
跳び上がりましたよ、そのときは。
小学校5年からずっと待ってたことが実現して。
その後、人生でいくつか嬉しいことはあったけれど、
あれほどのことはなかったかもしれない。
──
わあ。ちなみにギャランティは?
鵜飼
原稿料はね、50ドル。
1ドル360円の時代だから、1万8千円。
当時の感覚だと、10万円もらったような気持ちでしたが、
お金には換えられない喜びでした。
アメリカの出版社のシステムは明快でね、
10枚採用されると、ギャランティが上がっていくんです。
それもどんどん上がっていくんですよ。
だから、ベテランのおじいちゃんたちは
1枚売れれば数か月暮らせるくらいもらえたはずです。
──
そこからどうなったんですか。
鵜飼
それで、いろんな出版社に採用されて、
ちょっとずつ名前が出るようになり、
よし、これで行くぞ! と思っていたら、
ベトナム戦争の煽りで、ビザがおりなくなりました。
──
ええっ?
鵜飼
イミグレーションから「帰ってくれ」と。
ベトナム戦争がいよいよ末期になり、
アメリカの若者にやる気がなくなっていった時期です。
明日徴兵でベトナムに行くかもしれない。
だからもう働かないで、Love & Peace、
ドラッグ、セックス、音楽、
「今日を楽しく」っていう風潮になり、
そんな中で外国人が張り切っているのは、
政府としても困っちゃうわけですね。
だから「働かないでくれ」と。
──
「もうビザをあげません」と。
鵜飼
そう。何回かいろんな申請をしたんだけど、ダメでした。
結局、2年で帰国することになりました。
出版社は「日本から郵便で送ればいいじゃないか」
って言ってくれて、そう思っていたんだけれど、
羽田空港に着いてタラップが開いた瞬間、
気持ちがパッと消えちゃった。
ぼくは「仕事して、結婚して、向こうで暮らす」
ことが目標だったんですよ。
だから日本から郵便で送るっていうのは、ないなって、
そう思ったんでしょう。
──
プツッと切れたんですね。
鵜飼
切れた。もうあっという間に切れちゃった。
──
それでどうしたんですか。
鵜飼
やることないんで絵の学校に行きました。
「セツ・モードセミナー」って、
いまはもう閉校した学校です。
──
はい、長沢節さんが主宰していた。
鵜飼
そうなんです。まだ長沢節先生が元気なとき。
それで、水彩画を描いていたとき、何かのつてで、
「銀座の広告代理店がデザイナーを探しているよ」と。
「やったことあるんだよね?」って、
もちろん、ないわけですよ、なのに
「うん」とか言って(笑)、
ニューヨークで経験があるということで受かっちゃった。
でも、翌日出勤したら、お昼ご飯までにバレたんです。
三角定規やデバイダーを渡されても、
さっぱり分かんないわけですよ。
それで、グラフィックデザインを
いちから教えてもらったんです。
──
きっと、面白かったんでしょうね、
ニューヨーク帰りの漫画家だった若者が。
鵜飼
そう、皆はね、面白がってくれました。
それで一気に皆の中に溶け込めました。
そうこうしているうちに、
仕事の一環で、テレビのCMのキャンペーン会議に、
グラフィックデザイナーとして出席するようになって。
そしたら、それまで漫画のアイディアを
毎日、毎日、毎日、毎日考えてたから、
アイディアを出す脳みそになっていたんですね、
ブレインストーミングで、
山のようにアイディアを出したんです。
そしたら、「面白いなこいつ」って言われて、
いろいろ重宝がられて、声が掛かるようになって。
あいつデザインの技術はたいしたことないけど、
アイディア考えさせた方がいいぞ、って。
──
(笑)
鵜飼
そこでずっと働いていたんですが、
35歳のとき、通販の会社の製作部に
カタログをつくる仕事でヘッドハンティングされ、
それを5年続けてから、
40歳のときに独立しました。
テレビのコマーシャルの仕事、
プランナーとしての仕事、
通販のディレクターの仕事、
ぜんぶやっていました。
当時、通販でも新しいことがやりたくて、
たとえば撮影はスタジオでストロボで撮るのが
主流だったのを、全部自然光で撮りたい、とか、
そういうことをやるものだから、
いろんな人たちが面白がって参加してくれたんです。
「雑誌よりも自由だね」って。
伊藤まさこさんと出会ったのも、その頃です。
そんなこんなでやってる最中、
撮影小道具を、経費をかけて借りて来るのを見ていて、
「もっといいのないのかな」と心の中で思っているうちに、
「自分でやってみよう」って思っちゃったんですよ。
で、あるスタイリストの人に相談したんです。
「俺、そういうこと、やろうと思うんだけど」って。
そしたら「やってみたら?」って背中を押されて。
──
おお、やっと今の仕事につながりました。
鵜飼
それで広めの場所を借りて、
モロッコ、イギリス、フランスに行き、
まずは雑貨を仕入れてきました。
なにもわからずに行ったんだけれど、運がよくてね。
途中で買った物を、フランスのパリのホテルの
倉庫みたいな所に入れさせてもらってたんですよ。
そのままにしてロンドンに行ったら、
スピタルフィールズ(Spitalfields)のマーケットで、
鉄の家具を売っている若者がいて、
「かっこいいね。買いたいけど、運べないんだよね」
って言ったら、「運ぶ人知ってるよ」って。
そして紹介してくれたのが、
なんと日本人の運送会社の人。
彼が手伝ってくれて、
買ったものがわかるようにしてくれれば、
お店に取りに行って、まとめて発送してくれた。
それが本当にラッキーで、
それがなかったらどうしてたんだろうって思います。
パリも同様にやってくれて、
モロッコだけはできないから、
じぶんで郵便局から送れる範囲のものを買いました。
ところが、たくさん買ったつもりだったのに、
お店の中はスカスカなんです。
だから売り上げもスカスカ。
辛(から)めに想像してたんだけど、
それを遥かに下回る売上げで!
──
ひゃあ、どうなさったんですか。
(つづきます)
2020-02-23-SUN