原宿の近くにありながらも、
インテリアやライフスタイルのお店が多く、
おちついた大人の町として人気の千駄ヶ谷三丁目。
この町に居を構える「TITLES」(タイトルズ)は、
世界各地で買い付けてきた
ヴィンテージの雑貨や家具を扱うお店です。
もともと、撮影やディスプレイのための
リース(貸し出し)が本業だったため、
「知るひとぞ知る」存在でしたが、
近年、販売も行なうようになったことで、
「あそこに行けば、おもしろいものが見つかるよ」
と評判になっているんです。
このお店を立ち上げ、いまも年に数回、
自ら海外での買い付けを行なっている
オーナーでありバイヤーの鵜飼健仁さんに
お話を聞きました。

鵜飼健仁さんのプロフィール

鵜飼健仁 うがい・たけひと

1951年東京生まれ。
高校卒業後、漫画家を目指しニューヨークへ。
帰国後、グラフィックデザイナーに。
世界中から集めたヴィンテージ家具や雑貨を
撮影用小道具として提供するリースショップ
AWABEES(アワビーズ)」「UTUWA(ウツワ)」、
そして販売も行なうインテリアショップ
TITLES(タイトルズ)」を運営。

その1
漫画家になるつもりで。

──
鵜飼さんって、もともと、
なにをなさっていたかたなんですか。
ヴィンテージ家具や雑貨を取り扱うって、
鵜飼さんの世代が「はじまり」という気がするんですが、
ということは、
家業を継いだということでもないんだろうな、
と思っていました。
鵜飼
元々は、漫画なんですよ。
──
漫画‥‥?
鵜飼
小学生のときって、漫画を好きになるでしょ? 
ぼくもそうだったんです。
ぼくの世代だと、手塚治虫、赤塚不二雄。
それを真似してみたら、
やけに上手く描けたんですよ。
そして学校で美術の授業で水彩画を描くでしょ、
そうすると、それも上手いと自分でも思って、
何となく「そっち」かなと、
漠然と思っていたんです。
──
「美術系に行こう」って。
鵜飼
はい。そう思っていた小学校3年か4年ぐらいのとき、
アメリカの『ニューヨーカー(THE NEW YORKER)』
っていう雑誌を見る機会があったんですね。
──
表紙がイラストの。
鵜飼
「何だこれ?」と思って。もちろん英語は分からないし、
1コマの漫画らしきものがあるんだけど、全然面白くない。
それはキャプションが分からないからですね。
ところが見ていくうちに、
1つキャプションがない漫画に目が留まって、
子供心に「面白い」って思っちゃった。
でも「ユーモア」なんて概念は分からないから、
「何でこれが可笑しいんだろう?」って思ったんです。
『おそ松くん』が可笑しいのは分かるけど、
自分がアメリカの1コマ漫画を面白いと思うことが
不思議でしょうがなくって、
それで真似して描いてみたりして、
もっと読みたいと興味を持ったんだけど、
そんな本、どこに行ったら手に入るのかすら分からない。
で、1年ぐらいたって、小学校5年ぐらいだったかな、
銀座の「イエナ書店」という
洋書を扱っているお店にあるよと、
誰かが教えてくれたんです。
「あそこ行きゃ、山のようにあるよ」って。
──
イエナ書店、ありましたね。
銀座の晴海通り沿いに。
鵜飼
それで、小学生だからお金を貯めて、
ドキドキしながらひとりで初めての銀座に行って。
──
東京の子ですよね、鵜飼さん。
鵜飼
そうです、駒沢に住んでたから、
玉電(路面電車)で渋谷まで行き、
そこから地下鉄銀座線で銀座に出て。
ところが最新号の『ニューヨーカー』は
すごく高くて買えないわけです。
「立ち読みでいいや」と思って漫画を見たら、
やっぱり同じように、1つ2つ面白いものがあって、
そこから、もう、のめり込んじゃった。
何とかして欲しいと思って、
下北沢あたりで古本屋巡りをしてたら、
あったんです、古くてボロボロの安いやつがね。
で、1冊買って、穴が開くくらい見て、
真似して描いているうちに、さらに楽しくなってね、
漫画家になりたい! と思って、
のちに『アンパンマン』で有名になる
やなせたかしさんのご自宅に押しかけたんです。
──
えっ? 
鵜飼
何の伝手もないのに、どうして調べたか、
電話をかけたら奥様が出て、
「ちょっと見て頂きたいんです」
「おいくつなの?」
「小学校6年生です」
「あら! じゃ、いらっしゃい」って。
──
逆に怪しまれなかったんですね(笑)。
鵜飼
そうなんですよね。
で、やなせたかしさんが見てくれたわけですよ。
めっちゃ優しくてね、
「へー、これ君が描いたの? 
何でこんなの描けるの?」みたいな話になって。
──
つまり、『ニューヨーカー』を真似して描いてるから、
日本人が書くのが珍しいタイプの
漫画だったんですね。
しかも小学生が。
鵜飼
しかも「いいよ」って言われて。
「続けなさい」って。
それで話は終わったんだけれど、
帰るタイミングが、子どもだからわからなくて、
ずーっといたら、何人かの編集者が
やって来ては帰っていって。
暗くなってきたらさすがに奥様が
「お母さん心配してるから帰りなさいね」って。
それで、自分の心の中では
「将来ニューヨークに行って、漫画家として暮らす」
ということを決めたんです。
そこからもう、描いて描いて描いて描いて。
そしたらラッキーなことに、いとこが国際結婚して、
ニューヨークに住むことになって、
しかもその旦那が、
『ニューヨーカー』で漫画を描いている
アメリカ人の漫画家だったんです。
──
えっ! それは運命を感じちゃいますよね。
鵜飼
ぼくの漫画を見せたら、「いらっしゃい、将来」と。
もう万全じゃないですか。
で、「中学出たら行こう」と思ったら、親に反対され、
高校を出て行こうとしたら、また反対された。
「大学を出てから」っていう話になったんだけど、
「小学校からずーっと待ってんのに、何年待てばいいんだ」
っていう気になって、そこでちょっと演技をして、
「もし今行かせてくれなかったら死ぬ」くらいの
アピールをしてね。
──
自由な感じのご両親だったんですか?
鵜飼
いや、堅い家庭だったんですよ、アートとは関係ない
商社一家で、おじいちゃんが「伊藤忠」、
父親が「丸紅」、そういう家庭だったから、
ぼくをひとりニューヨークにやるなんて、
とんでもない選択だったはずです。
──
きっと進路も一流大学の経済学部や法学部に、
みたいな感じですよね。
鵜飼
ぼくは、そういうことがすごく嫌だったんです。
とにかく漫画を描きたいから。
それでいとこの旦那さんを頼って
ニューヨークに行き、
来る日も来る日も来る日も描いて、
半年くらい描いた頃、
「よし、じゃあ、今日は一緒に連れて行く」って、
出版社の編集長を紹介してくれたんですよ。
──
すごいことですね。
鵜飼
アメリカのシステムってね、すごく平等なんです。
めちゃめちゃ有名な漫画家も
駆け出しのペーペーも、
「出版社からの依頼」はないんですよ。
──
え?
鵜飼
毎週水曜日に編集長が、
大家からペーペーまで、全員の漫画を見てくれるわけ。
だから水曜日に出版社のロビーに行くと、
じいさんがウヨウヨいたの。
それがみんな有名な漫画家なんです。
「サム・グロスはいるの?」
「あの人がそうだよ」
「わっ、サインして下さい!」みたいな状況でした。
(つづきます)
2020-02-22-SAT