特集「編集とは何か。」第7弾は
「ファッションと編集」。
1990年代「裏原」に端を発する
東京発のストリートブランドから、
誰でも知ってる
世界のラグジュアリーブランドまで、
幅広く扱ってきた
『honeyee.com』の創刊編集長・
鈴木哲也さんにうかがいました。
ちなみに鈴木さんは、
この記事の担当「ほぼ日」奥野の
雑誌『smart』時代の大先輩。
もう20年くらい前、
撮影の現場で、真夜中の編集部で、
ときに怒られたりしながら(笑)、
雑誌の編集を教えていただきました。

>鈴木哲也さんのプロフィール

鈴木哲也(すずき・てつや)

1969年生まれ。株式会社アップリンク、株式会社宝島社を経て、2005年に株式会社ハニカム設立に参加。同時に同社の運営するwebメディア『honeyee.com』の編集長に就任(後に株式会社ハニカム代表取締役も兼任)。2017年に株式会社ハニカム代表取締役並びにwebメディア『honeyee.com』編集長を退任。現在は企業、ブランドのコンサルティング、クリエイティブディレクションなどを行う。

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第3回 東京のこと、パリのこと。

──
鈴木さんは『smart』編集部のあとに、
当時、隔月刊行の増刊扱いだった
『smart MAX』の編集長に就任されて。
鈴木
そうだね。
──
ざっくり「『smart』の大人版」として
刊行されていた『MAX』を、
どんな雑誌にしようと思ってましたか。
鈴木
当時は、ぼく自身も含めた裏原世代が
30代半ばになっていたんだよね。
それで、読者層の若い雑誌には掲載できない
ルイ・ヴィトン、グッチ、エルメスといった、
その年齢の読者にふさわしい
ラグジュアリーブランドまでを視野に入れて、
ファッションとカルチャーを、
充実させようと思っていたんだけど。

──
実際そういう誌面でした。
鈴木
のちに立ち上げる『honeyee.com』にも
つながってくるんだけど、
雑誌のコンセプトをつくるうえで、
やっぱり、
(藤原)ヒロシさんの影響は大きかった。
──
具体的には何ですか、影響というと。
鈴木
ヒロシさんのライフスタイル、すべて。
ファッションから音楽、映画、アート、
本、クルマ、時計、
さらには
当時盛り上がっていた総合格闘技にも
興味を持っていたし。
言ってみれば、コンテンツの塊ですよ。
──
当時「『PRIDE』の怪人」と呼ばれていた
作家の百瀬博教さんと
ファッション誌の誌上で対談したり。
藤原さんとは、
当時から、懇意にされていましたよね。
鈴木
やっぱり、
ヒロシさんの何がすごいかっていうと、
自分の価値観を
つねにアップデートしていくところ。
それまで培ってきた自分の価値観を
変えるんじゃなくて、
それを時代や状況の変化に対して
柔軟に対応させていく。そこがすごい。
──
なるほど。
鈴木
そのときどきで
自分自身の価値観をアップデートして、
それを伝えることで、
世の中の側の価値観を変えていく。
たとえば、総合格闘技だって、
あのときは完全に
時代を象徴するサブカルチャーだったでしょ。
──
2000年代の最初の何年かまでは、とくに。
自分さえ当時、高円寺と中野の間にあった、
ブラジルのシュートボクセの
「はじめての海外支部」に通ってましたし。
完全に「ミーハーな人」として。
ヴァンダレイ・シウバの大ファンだったので。
鈴木
スポーツともエンタテインメントともちがう、
新しい価値観があったと思う。
──
で、たぶん、その同じような時期に、
藤原さんは、
バッハやシューベルトのクラシック音楽と
ダブを融合したアルバムを出していました。
エリック・クラプトンが
ギターで参加していてビックリしましたが。
鈴木
だから、ヒロシさんのことを
飽きっぽいって思う人もいるだろうけど、
そうじゃなくて、
つねに自分の価値観を更新していて、
それと同時に
新しい価値観が生まれつつある
ジャンルやシーンを
追い続けているように、ぼくには見える。
──
雑誌的な感じもします、その感覚。
鈴木
やっぱり、
日本のマルコム・マクラーレンなんだと思う。
パンクからヒップホップ、ハウスへと
シーンを先導していったのが、
マルコムだったわけでしょう。
音楽シーンへ、
つねに、新しい価値観を提供していた。
──
どういう文化事象を扱うにしても、
やっぱり「人」って、大きいと思いますか。
鈴木
その「人」が、
その文化の内包する価値観に対して、
どれだけ意識的か‥‥がポイントだと思う。
スニーカーにしても、
みんながヒロシさんに期待する理由は、
ヒロシさんが
「カルチャーとしてのスニーカー」を
誰より理解したうえで、
自分のセンスを発揮するからでしょう。
──
当時、どこか海外に出張中の鈴木さんから
国際電話がかかってきて、
日本では入手困難だった、
藤原さんとナイキがコラボレーションした
「NIKE HTM AIR WOVEN」が、
いま、目の前で売ってるんだけど
買ってってやろうか‥‥って。
ありがたく、買ってきていただきました。
いまだに大事にしてます。
鈴木
あのころは、
つねに「レアもの」をゲットする機会を
狙っていたから(笑)。
──
その後、鈴木さんは宝島社を退社して、
その藤原さんや
SOPHNET.の清永浩文さんと一緒に、
『honeyee.com』(ハニカム)という
ウェブメディアを創刊します。
鈴木
うん。
──
ファッション誌の創刊に立ち会ったあと、
次なる場所として、
ウェブメディアへと移られたわけですが。
鈴木
ウェブうんぬんの前に
ヒロシさんたちといっしょだから、
ぼくが下手を打たなければ、
それなりのものには
なるだろうとは思っていた。
──
当時って、まだまだ、ウェブの可能性が
バラ色に見えていた時期だと思います。
自分もですけど、
紙媒体からウェブ媒体へ入っていく人が、
たくさんいましたし。
鈴木
でも、コンテンツの内容も含めて、
メディアとしてのアイデンティティを
最初から強調していた
ファッション系のメディアは、
『honeyee.com』くらいだったと思う。
──
たしかに『honeyee.com』のなかには、
東京カルチャーの最先端がある‥‥
という期待感が、すごくあった気がします。
メディアの色がハッキリしてましたよね。
鈴木
最初は、カルチャーを
全方位にバランス良く扱えばいいかなと
考えていたんだけどね。
──
あ、そうなんですか。
鈴木
でも、ちょっと待てよと思い直して。
ローンチ直前、
雑多な情報を広く扱うよりも、
自分たちだから拾える
ユニークな情報をメインにして、
メディアとしてのアイデンティティを
強調しようと思ったんです。
──
そっちのほうが、鈴木さんっぽいですしね。
鈴木
ヒロシさんを中心に、ぼくらの身近にいた
クリエイティブな人たちと
しっかり信頼関係を築いていきながら、
彼らのネットワークも借りつつ、
他にはないコンテンツを提供していこうと。
そうやって「コミュニティ」をつくって、
そこから
東京のカルチャーシーンが見えるような
枠組みをつくろうと思っていた。
──
当時の鈴木さんを見ていると、
ファッションやカルチャーだけでなくて、
ビジネスだとか、
経営面での発言が増えていっているのが、
おもしろかったです。
編集長だし、
当たり前だったのかもしれないですけど。
鈴木
やっぱり『honeyee.com』が
おもしろかったのは、
まずクリエイティビティを尊重して、
それによって
会社全体をドライブさせていこうという
雰囲気があったところ。
──
なるほど。
鈴木
『honeyee.com』のブランディングに
つながると思えば、
海外出張をはじめ、
少々予算の張る撮影をやってみたりとか。
──
予算の裁量権もけっこうあったんですか。
鈴木
そうだね。
最後の5、6年は社長も兼ねていたから。
──
パリコレの取材にも行かれてましたよね。
ビックリしました。
鈴木
ストリート系のファッションメディアで、
自腹でパリまで行って
ショーのレポートを掲載していたのは、
『honeyee.com』が最初だったと思う。
──
裏原からはじまったストリートブランドを
引き続きウォッチしながら、
ハイブランドとのおつき合いも増えていく。
比べるものでもないのかもしれませんけど、
両者の関係性について、どう思われますか。
鈴木
ぼくらが『honeyee.com』をはじめた
2000年代前半のパリでは、
ファッションではエディ・スリマン、
音楽ではダフト・パンク、
その間‥‥つまり
ファッションとカルチャーをつなぐ
「メディア」として、
コレットというショップがあった感じ。
そして、コレットのプッシュする
インディペンデントなデザイナーたちが、
台頭しはじめていた。
──
ええ、ええ。
鈴木
パリのモードの中に、音楽やアートをはじめ、
他のカルチャーも巻き込むような雰囲気、
それこそ
「裏原宿的なもの」が生まれつつあった。
だから『honeyee.com』では、
パリのそうした動きを
積極的にキャッチしようとしてたな。
──
パリのモードの中には、
それまで、
そうした動きってなかったんですか。
鈴木
なかったと思うし、
コレットがクローズした現在では、
インディペンデントなデザイナーは、
以前より
厳しくなってるんじゃないかな。
──
ある部分だけに注目したら
「原宿のほうが、はやかった」ということも
言えるってことですか、つまり?
鈴木
「カルチャー」に関しては、パリは遅いから。
「ダフト・パンク」なんて、
さらに遡って「フランスのYMO」だと思う。
──
つまり、20年くらい先行していた‥‥?
鈴木
あとは、2000年代に入っても、
パリのシーンでは、
マルジェラの影響が大きかった、想像以上に。
──
マルタン・マルジェラ。
先ほども、ちょっとお名前が出てきましたが。
鈴木
コンセプチュアルで
アーティスティックな雰囲気が、
ひとつのスタイルとして
モードの世界に定着したのは、
マルジェラの登場以降だと思う。
フィービー・ファイロのセリーヌだって、
マルジェラ以降のラグジュアリーのあり方を、
すごく意識していたと思うし。
──
へえ‥‥。
鈴木
ちなみにフィービーのセリーヌ就任は、
マルジェラが
デザイナーを引退したのと同じ、2008年。
その後2017年にセリーヌを退任するけど、
2019年から、そのセリーヌの
クリエイティブディレクターに就任したのが、
エディ・スリマンだよね。
──
いや、マルタン・マルジェラという人を、
そこまで特別視したことがなかったんですが。
鈴木
マルタン自身がデザイナーを引退したあとも、
「マルジェラ的な美意識」は、
パリで活躍する
スタイリストやフォトグラファーのなかに、
根強く生き続けてると思う。
──
それって、パリでは常識なんですか?
鈴木
パリの業界人、とくにコレット周辺で
現場の空気を知る人たちは、
いまもマルジェラの影響力の大きさを
感じているはず。
──
一時期、
エルメスのデザインを手掛けていたのに
一切メディアに出なかったり、
ミステリアスなイメージばっかりが
先行してました。
はあ‥‥なるほど。
鈴木
個人的に、2010年前後の
パリのファッションシーンで言えば、
「KITSUNE」も印象深い。
コレットでは、東京のストリートブランドを
たくさんセレクトしていたけど、
そうした、いわば「東京的」な価値観を、
パリから発信しようとしたブランドだからね。
──
洋服だけじゃなく、
音楽レーベルもやってた人たちですよね。
鈴木
彼らが提案していたスタイルというのは、
細身のストレートジーンズに、
ボタンダウンシャツみたいな感じでしょ。
いわゆる「トラッド」なのに、
音楽は「エレクトロ」だったわけですよ。
──
つまり、ファッションと「音」とが‥‥。
鈴木
そのコントラストが、おもしろかった。
というか、そこをおもしろがるような、
メタレベルの感覚が、
「KITSUNE」の戦略だと思ったんだよ。
ボタンダウンにカーディガンの
「若年寄スタイル」が、
やたらうるさい
バキバキのエレクトロと結びついてる。
そのギャップが新鮮だったわけ。
それは「価値観のアップデート」でしょ。
──
その「東京からパリへ向うベクトル」は、
複雑なものだったんでしょうか。
現象としても、文化背景や文脈としても。
鈴木
うーん、どうだろう。
ぼくは「KITSUNE」に
音楽とファッション両方の
コンテクストの融合を感じていたけど、
彼ら自身は、
そこまで考えてなかったかもね(笑)。

(つづきます)

2021-09-22-WED

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  • オンラインサロン「RoCC」で、
    90年代東京カルチャーを描く。

    現在、鈴木さんは
    ウェブメディア「Ring of Colour」が主宰する
    オンラインサロン「ROCC」で、
    90年代東京カルチャーについてのエッセイ
    「2D (Double Decade Of Tokyo Pop Life)」
    を執筆中とのこと。くわしくは、こちらから。
    なお、オンラインサロン「RoCC」は、
    アート、本、車、ファッション、
    食、映画、時計などを軸に情報発信中。
    藤原ヒロシさんや
    梶原由景さんとも交流できる場所だそうですよ。
    ご興味あったら、アクセスしてみてください。

  • <取材協力>
    PRETTY THINGS
    東京都世田谷区駒沢5-19-10