もくじ
第1回今日から私はパリピです。 2017-05-16-Tue
第2回ひとりは悪だけど、真実かな? 2017-05-16-Tue
第3回浮きたくないなら、いざ、パリピに。 2017-05-16-Tue
第4回パリピになれていたかもしれなかった。 2017-05-16-Tue

東京に住んでいる、年中花粉症の18歳。先日高校生を終えました。最近の悩みは、もらった卒業アルバムの個人写真の写りが、なぜか私だけすごく悪く見えることです。たぶん、みんなそれぞれ、自分の写りが悪いと思っています。

パリピを目指したぼっちの話

パリピを目指したぼっちの話

担当・スガネガス

第2回 ひとりは悪だけど、真実かな?

少し戻って5月1日

都内某所、私は朝井さんと対面する。
初取材に緊張するあまり、
ボイスレコーダーを回し忘れる事態が発生した。
大丈夫、まだちょっとした挨拶しかしていないし。

さっそく、「ひとり」は「悪」かと話が上がる。
 


 

朝井
今の世の中的に、
「みんなでいること」が「善」である。
‥‥みたいな。
「ひとりでいること」は「悪」である、
という価値観が、
みんなどこかにあるんです。
 
昔よりは今のほうが
おひとり様というのがやりやすい世の中に
絶対になってきている。
それに、主張もしやすい。
 
だけれども、「ひとりがいい」というのは
間違いなく少数派なんです。
少数派であるからには、
周囲に承認されにくい、ということが、
少なからずあります。
スガネ
それは「事実」なんですよね。
朝井
そう、「事実」なんです。
でも「真実」じゃない。


 


 
「みんな」でいることが善なのは事実で、
「ひとり」は善の「みんな」から見たら悪である。
紛れもない事実である。

でも「みんな」は善で、「ひとり」が悪という事実は、
誰かが決めたルールではない。
つまり、絶対的な真実ではない。

多数派の「みんな」が、
多数の意見としてまかり通っているだけだ。

事実≠真実である。
 


 

スガネ
承認されたい、という欲求の部分って、
人間誰しも持っているわけじゃないですか。
今はツイッターやフェイスブック、
インスタグラムでのいいね!に現れるんです。
朝井
私たちの頃はそれがmixiだったのかな。
スガネ
mixiだと、足あととか、
日記に対してのコメントとかになりますよね。
朝井
足あとの数というよりは、
誰が見ているのかなというのを
気にしていた覚えがあります。
日記へのコメント数が人気に直結するわけでは
ありませんでしたから、
これは人気度をはかる尺度とは違いますね。
スガネ
今もみんな、学校の人と繋がるための
アカウントを持っている。
そこで《新作フラペチーノ》とか言って、
友達とスタバのカップを寄せ合った写真を
投稿するんです。
我先にと、いいね!を付ける。
たぶん、いいね!している人の7割は、
いいね!なんて本気で思っていなくて適当に押してます。
朝井
友達が多い人の方がいいね!が付くんだ?
スガネ
付きますね。
表面上の付き合いなんだろうなって人が
いいね!を押していることって、結構多い。
朝井
クラスの人気者の人には
いいね!を付けていく、みたいな。

スガネ
人気者の、運動部の目立つ子は、
やっぱりクラス外にも友達が多いんです。
ヒエラルキーの頂点の彼らは、
先輩後輩もフォロワーにたくさんいますから。
スタバの写真だけで62いいね!くらい付く。
いいね!の数でヒエラルキーの可視化が発生してしまう。
朝井
私たちの頃も、ヒエラルキー的なものは
なんとなくあったんです。
でも、目立つ子、モテる子ってだけで、
可視化までは発生していなかった。
60人からって、もう2クラス分のいいね!ですよね。
SNSの場で自信のなさが生まれていく。
恐ろしいよね、もう。
 

 
スタバの写真で62いいね!くらい、というのは、
ヒエラルキーの頂点レベルの人だ。
どうしてかリアアカなのに4桁のフォロワーを抱え、
仮に体育祭お疲れさま投稿をすれば
深夜までにいいね!は127くらいになっている。

余談だが、ツイッターのリアアカがあった
高校生当時の私は、フォロワーは100人足らず。
体育祭お疲れさま投稿は丸1日で9いいね!だった。
リアアカのフォロワー平均は、
あくまで個人的な体感だが150~300程度に思う。
行事のお疲れさま投稿は50いいね!くらいだろう。

そもそもすぐいいね!する方が変だし、
世界は広いという意見もある。
でも、学生の日常は学校に縛られている。

学生の生きる世界は、狭いのだ。

息苦しいったら、ありゃあしない。
つい先日まで高校生だった私は、
狭い世界に縛られすぎていた。

ツイッターは

今日もうちの犬がかわいい

とか、

月曜日が憂鬱すぎる

なんてつぶやく場所だと思っていたのに。

匿名で構わない、誰かの小さなつぶやきが、
思わぬ反響を呼ぶことだってあるのに。
それが醍醐味のようなところでもあるのに。

学校から帰って、
現実逃避にもなり得るSNSでも、
わざわざ学校に戻ろうとする。

世界が広いのは知っている。
知っていることだけれども、
学校の呪縛からは逃れられない。
毎日通うのが学校だから、趣味アカウントのように
簡単に気が合う、合わないで友人を選択できない。
顔を合わせる機会があるからこそ、
リアアカは呪いになっていく。

リアルはパリピがはびこり、
リアアカもパリピがはびこるのだ。

これだから、世界はぼっちに厳しい。
みんなであるパリピが「善」で、ぼっちは「悪」。
 


 

朝井
でも誰が決めたんだろうね。
確かにみんなは「善」でぼっちは「悪」が
事実ではあるけれど、
真実としては誰が認めているんだろう。

(つづきます)

第3回 浮きたくないなら、いざ、パリピに。