「猫を探しに来たんですよ」
フェリー乗り場からバスで山道を上り、約10分。
疲れ果てた私は、一旦予約していた民宿に行くことにした。
「観光はできましたか」と聞くオーナーに、私はそう答えた。
「へえ、猫を」それ以上は、深くは聞いてこなかった。
鍵をもらい、部屋に入る。
ベッドが二つ、広々とした部屋だ。
リュックを床に置き、一気に体が軽くなった私は、
そのままベッドにダイブする。

気がついたら、眠りに落ちていた。
目がさめると、19時をまわっている。
汗でひんやりと貼りつくTシャツが気持ち悪い。
「観光はできましたか」というオーナーの言葉を思い出す。
結局、猫探しのために全ての時間を費やしていたので、
観光地はひとつも見ていなかった。
おまけに明日はおおよその観光スポットが休業する月曜日である。
何か今からでも見れるもの……
パンフレットを開いて探す。
あ、あった。
今からでもいける場所。
「I♥湯」という銭湯が、21時までやっていた。
「I♥湯」とは、
アーティストの大竹伸朗が手がける美術施設で、
島の人たちも使う、実際に入浴できる銭湯である。
浴槽や風呂絵、モザイク画、トイレの陶器までアート作品となっていて、
大竹伸朗がデザインしたタオルやTシャツなどのグッズも売られている。
果たして、初恋の猫に会いに来たような身で、
アイラブユーなんて風呂に入ってもよいものだろうか。
なんて、わけのわからない理由で逡巡する。
でも、せっかく来たんだし。
「I♥湯」は、民宿から自転車で約20分ほどのところにあった。
ぐっしょりと濡れたTシャツのまま、
宿から自転車を借りて山道を下っていく。

夜の「I♡湯」は、なんだかいかがわしさ満点の雰囲気だった。
どうやら大人のイケナイ場所に迷い込んでしまったらしい。

入湯料を支払ってから脱衣所に入ると、
ポルノ映画のポスターや女性の写真の数々、
「肉体」や「性欲」と書かれたタイルが埋め込まれた洗面台が出迎えてくれた。
「10秒だけ死なせて♡」というポスターのコピーを見て、
これは一般的な死とはまったく違う意味なのだろうことは察した。
しかし、雰囲気は独特ながら、銭湯は銭湯である。
ベタベタとした体を洗い流したときの清々しさ、
肩まで湯にどっぷりとつかったときの快感、
これはもう、生まれてから今日までずっと、
毎日のように味わってきたものであった。
こういう場にきて改めて、これほど幸せなことだったのかと感動する。
熱すぎず、といってぬるすぎもせず、
ちょうどいい湯加減に、うはあと少し声がもれた。
けっきょく、遠く離れた島に来ても、
私はお風呂の心地よさに満足してしまっている。
それがなんだか、ちょっとおかしかった。
さあ、明日も猫を探そう。
気分一新、少し気持ちが前向きになる。
でもそれは、
「猫が見つかるかもしれない」という前向きな気持ち、というより、
「会えなくても大丈夫、後悔のないようにやりきろう」という気持ち、といった方が正しい。
島に来てから今まで、
猫一匹出会えてないというのに、
どこかで安心していて、何かを確信していた。
明日がどうなるかはわからないけど、
たとえば初恋の猫に会えずに帰ったとして、
私は次に直島に来たときに、またあの猫を探そうとするだろうか。
しないかもしれないな、と思う。
でも、きっとこの銭湯には必ずまた訪れる。
そんな確信があるのだ。
銭湯帰りの夜道、
どこからか「にゃあ」という声が聞こえた。
ビクッとなってあたりを探してみたけれど、
結局最後まで見つけることができなかった。
