もくじ
第1回教室のはじまり 2017-05-16-Tue
第2回「おかえり」が似合う場所 2017-05-16-Tue
第3回童話をバレエ作品に 2017-05-16-Tue
第4回東京で得たもの 2017-05-16-Tue
第5回ずっと踊りのことを考えていたい 2017-05-16-Tue

1987年生まれ。出版社で働いています。最近、ブラックコーヒーを美味しいと感じられるようになりました。

あるバレエダンサーの話。</br>新宮 登さん

あるバレエダンサーの話。
新宮 登さん

第4回 東京で得たもの

──
先生の振りにはどこか、
クラシックバレエの動きだけではなくて・・・・。
「登先生風」と言いたくなるような、
モダンバレエや他のダンスと
溶け合っている感じがありました。
登先生
それは、僕が東京でダンサーをしていた頃のことが
関係あるかもしれない。
──
山形で教室を開く前のことですか?
登先生
そう。ずうっと昔、終戦後のこと。
昭和20年代だね。
──
70年くらい前ですよね。
そもそも先生は最初、
どうやってバレエを始められたんですか?
登先生
元々は、10代で東京に出てきて、
銀座の数寄屋橋にあった「日劇(日本劇場)」で
ショーダンサーになったの。
「日劇ダンシングチーム」っていう。
隣は朝日新聞の本社だった。
今はもうどっちも無い建物なんだけどね。
──
今の銀座とは違う街並みなんですね。
 

(東京にいた20代の頃)
登先生
当時日劇では、
映画とダンスの2本立てで興行が行われていて、
僕はそこで踊っていたんだけど、
劇場から
「基礎となるクラシックバレエも習いなさい」って言われて。
 
オリガ・サファイアさんという
ロシア出身のバレリーナに
教えてもらったのが、最初。
彼女は日本人の外交官と結婚して、
来日して、バレエを僕たちダンサーに教えたの。
──
日本に来て、
ロシア式のバレエを教えてくれた方がいたんですね。
登先生
当時のソ連といえば、
革命が起こって大変な時代だったんだけどね・・。
──
そうか、今のように簡単に
バレエを教えてもらえるような時代では
なかったんですね・・。
登先生
今は、写真付きの色々なテキストがあったり、
インターネットの情報や動画もたくさん見れるよね。
けど、当時は図解するものが無かったから、
メソッドを正しく、自分の体で教われたのは
とても大事なことだったと思うよ。
 
他にも、横山はるひさん、矢田茂さん
という方々に、僕はバレエを教えてもらいました。
そしてその門下生には、
谷桃子さんなどがいたりしたの。
──
谷桃子さんといえば、
日本のバレエ界を牽引された方ですよね。
日本でまさに、バレエの礎が築かれていったんですね。
登先生
そうやってバレエを覚えながら、
終戦後、郊外にできたアメリカの進駐軍の基地を
日劇のメンバーとまわって、
バレエやショーダンスを披露していたんだ。
──
アメリカ軍の基地・・。
今お聞きすると、なんだか映画の世界のようで・・、
でも本当にそういう時期が、日本にはあったんですよね。
登先生
戦争は終わったばかりだったからね。
踊りを見せる相手や状況も、今とは違っていたよ。
──
そうですよね・・。
登先生
日劇やキャバレーや基地で踊ったりして、
バレエ・ダンスを続けていたんだけど、
男性の踊り手って少なかったから、
そのうち、ジャンル違いの舞台にも呼ばれるようになったの。
──
ジャンル違い?
登先生
たとえば当時ね、
「軽演劇」というジャンルがあった。
普通にセリフもあるお芝居で、
演目は娯楽性や風刺色が強いというのが、特徴なんだ。
──
なるほど。
登先生
で、新宿に
「ムーラン・ルージュ」っていう劇場があって、
僕はそこに出入りするするようになるのね。
 
ムーラン・ルージュっていうと、
フレンチカンカンを踊る、
パリの劇小屋と同じ名前なんだよね。
だから、建物のてっぺんにはパリを真似て、
赤い風車まで立ててあったんだよ(笑)
──
へぇ〜。
そんな洒落た劇小屋があったんですね。
登先生
観客は、いわゆるインテリ層かな。
大学生もいた。
 
そこでお芝居もだんだんするようになったんだ。
──
そうだったんですか。
登先生
一番記憶に残っているのは、
1949年の「太陽を射る者」という作品。
これがさっき言った「軽演劇」の風刺的な内容で。
──
はい。
登先生
「太陽」は「核爆弾」のことで、
それを使ってしまったら、
結局自分たちに跳ね返ってきてしまうよ、
っていう意味合いだったんだけど。
 
主人公は、世の中を辛いものと捉えていて、
批判的な目線で見ている若者。
で、僕の役はスリだった。
 
都会の雑踏で座り込んでいる主人公の前を、
スリの僕が、警察に追いかけられて
逃げるシーンがあるんです。
──
先生が、逃げるんですね。
登先生
うん。
本当は主人公の脇を、走り抜けなきゃいけないんだ。
でもその日は、
本番前の舞台を雑巾がけした跡が
濡れて残っていたのか・・。
 
僕、主人公の前でステーン!って、
足がすべって転んじゃったの!
──
転んだ瞬間、頭真っ白になりそう・・・・。
登先生
だよね、僕も(笑)
でも主人公にぶつかったら、
後ろのセットまでガッシャーンって壊しちゃう、と
一瞬のうちに思って。
そのままなんとか四つん這いで進んで、ぶつからずに済んだ。
──
わぁ、ギリギリセーフでしたね。
登先生
ほんとに。
だけどね、その本番後に、主人公の役者さんから
声かけられたの。
「今日の良かったじゃない!」って。
 
こっちは「あちゃー、失敗した」と思ってたから、
褒められてホッとしたというか、
「そんなこともあるんだなぁ」と思ったよ。
──
失敗が成功に転じたんですね、良かった。
登先生
その役者さんっていうのが、
30代半ばの森繁久弥さんだったのよね。
──
森繁さんって、あの森繁さん・・ですか?
登先生
あの森繁さん、だったの。
──
へぇ〜!
そんな有名な方と同じ舞台に
出ていたんですね!
時代を感じるなぁ〜。
登先生
ムーラン・ルージュの後、
森繁さんがどんどん売れていったから
同じ作品に出て、
声をかけてもらって、褒めてもらえたのは、
僕の人生の中でも、大きな出来事だなって思うんです。
──
確かに、忘れられない思い出ですね。
登先生
東京で、
ショーダンスやモダンダンスだけじゃなくて
バレエとも出会って、
さらにお芝居もやった。
 
こういう様々な経験が、
山形で教室を開いて、
自分で作品を作っていく時に、
僕に、表現の幅を広げさせてくれたんだなぁと思ってます。

 
(つづきます)

第5回 ずっと踊りのことを考えていたい