- ──
-
先生の振りにはどこか、
クラシックバレエの動きだけではなくて・・・・。
「登先生風」と言いたくなるような、
モダンバレエや他のダンスと
溶け合っている感じがありました。
- 登先生
-
それは、僕が東京でダンサーをしていた頃のことが
関係あるかもしれない。
- ──
- 山形で教室を開く前のことですか?
- 登先生
-
そう。ずうっと昔、終戦後のこと。
昭和20年代だね。
- ──
-
70年くらい前ですよね。
そもそも先生は最初、
どうやってバレエを始められたんですか?
- 登先生
-
元々は、10代で東京に出てきて、
銀座の数寄屋橋にあった「日劇(日本劇場)」で
ショーダンサーになったの。
「日劇ダンシングチーム」っていう。
隣は朝日新聞の本社だった。
今はもうどっちも無い建物なんだけどね。
- ──
- 今の銀座とは違う街並みなんですね。
-

(東京にいた20代の頃)
- 登先生
-
当時日劇では、
映画とダンスの2本立てで興行が行われていて、
僕はそこで踊っていたんだけど、
劇場から
「基礎となるクラシックバレエも習いなさい」って言われて。
オリガ・サファイアさんという
ロシア出身のバレリーナに
教えてもらったのが、最初。
彼女は日本人の外交官と結婚して、
来日して、バレエを僕たちダンサーに教えたの。
- ──
-
日本に来て、
ロシア式のバレエを教えてくれた方がいたんですね。
- 登先生
-
当時のソ連といえば、
革命が起こって大変な時代だったんだけどね・・。
- ──
-
そうか、今のように簡単に
バレエを教えてもらえるような時代では
なかったんですね・・。
- 登先生
-
今は、写真付きの色々なテキストがあったり、
インターネットの情報や動画もたくさん見れるよね。
けど、当時は図解するものが無かったから、
メソッドを正しく、自分の体で教われたのは
とても大事なことだったと思うよ。
他にも、横山はるひさん、矢田茂さん
という方々に、僕はバレエを教えてもらいました。
そしてその門下生には、
谷桃子さんなどがいたりしたの。
- ──
-
谷桃子さんといえば、
日本のバレエ界を牽引された方ですよね。
日本でまさに、バレエの礎が築かれていったんですね。
- 登先生
-
そうやってバレエを覚えながら、
終戦後、郊外にできたアメリカの進駐軍の基地を
日劇のメンバーとまわって、
バレエやショーダンスを披露していたんだ。
- ──
-
アメリカ軍の基地・・。
今お聞きすると、なんだか映画の世界のようで・・、
でも本当にそういう時期が、日本にはあったんですよね。
- 登先生
-
戦争は終わったばかりだったからね。
踊りを見せる相手や状況も、今とは違っていたよ。
- ──
- そうですよね・・。
- 登先生
-
日劇やキャバレーや基地で踊ったりして、
バレエ・ダンスを続けていたんだけど、
男性の踊り手って少なかったから、
そのうち、ジャンル違いの舞台にも呼ばれるようになったの。
- ──
- ジャンル違い?
- 登先生
-
たとえば当時ね、
「軽演劇」というジャンルがあった。
普通にセリフもあるお芝居で、
演目は娯楽性や風刺色が強いというのが、特徴なんだ。
- ──
- なるほど。
- 登先生
-
で、新宿に
「ムーラン・ルージュ」っていう劇場があって、
僕はそこに出入りするするようになるのね。
ムーラン・ルージュっていうと、
フレンチカンカンを踊る、
パリの劇小屋と同じ名前なんだよね。
だから、建物のてっぺんにはパリを真似て、
赤い風車まで立ててあったんだよ(笑)
- ──
-
へぇ〜。
そんな洒落た劇小屋があったんですね。
- 登先生
-
観客は、いわゆるインテリ層かな。
大学生もいた。
そこでお芝居もだんだんするようになったんだ。
- ──
- そうだったんですか。
- 登先生
-
一番記憶に残っているのは、
1949年の「太陽を射る者」という作品。
これがさっき言った「軽演劇」の風刺的な内容で。
- ──
- はい。
- 登先生
-
「太陽」は「核爆弾」のことで、
それを使ってしまったら、
結局自分たちに跳ね返ってきてしまうよ、
っていう意味合いだったんだけど。
主人公は、世の中を辛いものと捉えていて、
批判的な目線で見ている若者。
で、僕の役はスリだった。
都会の雑踏で座り込んでいる主人公の前を、
スリの僕が、警察に追いかけられて
逃げるシーンがあるんです。
- ──
- 先生が、逃げるんですね。
- 登先生
-
うん。
本当は主人公の脇を、走り抜けなきゃいけないんだ。
でもその日は、
本番前の舞台を雑巾がけした跡が
濡れて残っていたのか・・。
僕、主人公の前でステーン!って、
足がすべって転んじゃったの!
- ──
- 転んだ瞬間、頭真っ白になりそう・・・・。
- 登先生
-
だよね、僕も(笑)
でも主人公にぶつかったら、
後ろのセットまでガッシャーンって壊しちゃう、と
一瞬のうちに思って。
そのままなんとか四つん這いで進んで、ぶつからずに済んだ。
- ──
- わぁ、ギリギリセーフでしたね。
- 登先生
-
ほんとに。
だけどね、その本番後に、主人公の役者さんから
声かけられたの。
「今日の良かったじゃない!」って。
こっちは「あちゃー、失敗した」と思ってたから、
褒められてホッとしたというか、
「そんなこともあるんだなぁ」と思ったよ。
- ──
- 失敗が成功に転じたんですね、良かった。
- 登先生
-
その役者さんっていうのが、
30代半ばの森繁久弥さんだったのよね。
- ──
- 森繁さんって、あの森繁さん・・ですか?
- 登先生
- あの森繁さん、だったの。
- ──
-
へぇ〜!
そんな有名な方と同じ舞台に
出ていたんですね!
時代を感じるなぁ〜。
- 登先生
-
ムーラン・ルージュの後、
森繁さんがどんどん売れていったから
同じ作品に出て、
声をかけてもらって、褒めてもらえたのは、
僕の人生の中でも、大きな出来事だなって思うんです。
- ──
- 確かに、忘れられない思い出ですね。
- 登先生
-
東京で、
ショーダンスやモダンダンスだけじゃなくて
バレエとも出会って、
さらにお芝居もやった。
こういう様々な経験が、
山形で教室を開いて、
自分で作品を作っていく時に、
僕に、表現の幅を広げさせてくれたんだなぁと思ってます。
(つづきます)