もくじ
第1回教室のはじまり 2017-05-16-Tue
第2回「おかえり」が似合う場所 2017-05-16-Tue
第3回童話をバレエ作品に 2017-05-16-Tue
第4回東京で得たもの 2017-05-16-Tue
第5回ずっと踊りのことを考えていたい 2017-05-16-Tue

1987年生まれ。出版社で働いています。最近、ブラックコーヒーを美味しいと感じられるようになりました。

あるバレエダンサーの話。</br>新宮 登さん

あるバレエダンサーの話。
新宮 登さん

私にはずっと、夢中なものがありました。
それは、バレエです。
高校2年生まで習った13年間、
「バレエが好き」という気持ちは変わることなく、
踊りに飽きたことはなかったなぁと思います。

決して上級者ではありませんでしたが、
こんなに長くバレエを好きで、
踊り続けることができたのは、
9歳から指導を受けた先生のおかげだと思っています。

明るく熱心に生徒と向き合ってくださり、
ステップの意味や体の使い方を
丁寧に考えることの大切さを教わりました。
先生に習うようになって
よりバレエの面白さに気づき、
バレエのことを考える時間が増えたと思います。

そんな恩師の名前は、
新宮登(しんぐう のぼる)先生といいます。
先生は現在、90歳を迎え、
ダンサー生活は70年以上になります。

先生は現在も、妻であり
パ・ド・ドゥ(男女2人での踊り)のパートナーだった
絢子(あやこ)先生、
息子さんの崇太(たかひろ)先生と3人で、
私が通っていた時と変わらず、
教室で自ら指導にあたっています。

これまでなかなか機会が無かったため、
今回、バレエとともに
人生を歩んできた先生のお話を
ぜひ聞きたいと思い、お会いしてきました。

改めてお聞きしたことや、
大人になった今だからこそ知れたこともあり、
いつもの「先生」という肩書きだけでなく、
ダンス・バレエという芸術に半世紀以上、
志を捧げている「ダンサー」としての話も
聞くことができたように思います。

こんな現役ダンサーがいる、ということを
少しでも知って頂けたら嬉しいです。

プロフィール
新宮 登さんのプロフィール

第1回 教室のはじまり

──
先週は春の発表会、お疲れ様でした。
登先生
今年も無事終わりました〜。
──
終わったばかりのところ、今日はありがとうございます。
お会いできて嬉しいです。
先生方
いえいえ!

(左から、絢子先生・登先生・崇太先生)
──
発表会のある春と秋は、観に行くのを楽しみにしてるんです。
登先生
ありがとう。
こうやって、今も来てくれる卒業生は多いんだよ。
子どもを連れてきて、
いつの間にかお母さんになってる子もいるし(笑)
──
幼稚園の時から習っていたりすると、
「あの小さかった○○ちゃんが」って驚いちゃいますね。
登先生
そうなんだよねぇ。
──
2014年で、教室は創立60周年でしたよね。
その祝賀会にはOGの方も大勢いらしていましたが、
これまでで、生徒数はどれくらいになったんでしょう?
登先生
えぇと・・3000人は超えたのかな。
──
3000人以上ですか!?
登先生
そうだね。子ども達だけじゃなくて、
大人の生徒も合わせた数ね。
──
大人向けのクラスもありますもんね。
でも、3000人・・。すごい数です。
教室はずっと、山形市内ですよね?
登先生
うん、ずっと市内です。
でも場所は何回か変わっているの。
──
そうなんですね。
ずっと、私も通ったこの場所かと思っていました。
登先生
最初はーー。
昔ね、山形駅前の大通りの途中に
青果市場があって、
そこで僕の母が働いていたの。
で、その市場の空いていた2階を使えるようにしてくれて、
教室を始めたんだよね。
──
へぇぇ・・・・知らなかったです!
登先生
1954年のことだね。
それまで山形で、バレエが習える所なんてなかったから、
とても珍しかったと思う。
でも、何人か子ども達が来てくれたの。
──
なるほど。そこから、教室の歴史が始まったんですね。
 
登先生
ただ、駅前は交通量も多くて、
子ども達には危ないなぁと思って。
だんだん次の場所を探すようになったんだよね。
そしたら、山形駅から
少しだけ離れた鉄砲町にあるお寺が、
うちでやらないかって。
──
え、お寺ですか?!
登先生
そう、お寺さん(笑)
本堂を使っていいよって。
──
えーっ(笑)
登先生
本堂の床はコンクリートだったから、
そのままでは硬くてとても踊れなくて。
木の板を貼って、お稽古したの。
──
・・ざ、斬新ですね。
登先生
うん、とっても変わってた(笑)
 
それでお稽古してたんだけど、なんせお寺だから、
檀家さんがふつうにお参りに来るでしょう?
そうすると、まるで裸みたいな格好で踊っているのが
本堂から見えるから・・・・
──
あぁ〜・・(笑)
登先生
すごく驚かれちゃった(笑)
──
確かに、バレエに馴染みのない方も多い時代だし、
びっくりしたでしょうね!
登先生
そんな感じでお寺も難しくなって、
また場所を変えて、
電電公社(現在のNTTグループの前身)の
組合事務所の1フロアを借りたのが3番目かな。
──
青果市場にお寺に、NTTの事務所・・・・。
いろんな場所でやっていたんですねぇ。
登先生
そう。
で、この時はクラシックバレエだけじゃなくて、
コンテンポラリー(現代舞踊)や、
社交ダンスも教えたの。
──
コンテンポラリーは私たちも習いましたが、
社交ダンスを教えていたこともあったんですね。
登先生
20代の若い男女が習いにきて、
ちょっとした交流の場にもなったんだよ。
何組かは、結婚もしたしね。
──
おぉ、婚活の元祖みたい。
絢子先生
まだ毎年、ハガキくれたりする夫婦もいるんだよ〜。
登先生
この時来ていた青年たちには、
社交ダンス以外の踊りも教えてね。
当時は男性ダンサーは、珍しくて少なかったから。
 
それで男性だけの作品を作ったりしたの。
「コンドルは飛んでいる」っていう南米の民謡、知ってる?
──
はい、知ってます。
登先生
あの曲に合わせて振りをつけて、
コンテンポラリーの作品にしたの。
衣装も手作りして、コンドルの黒くて大きい翼を作って、
腕につけたりさせた。
──
へぇ!
そうか、衣装も手作りの時代だったんですね。
絢子先生
そうだよ〜。
まだ衣装会社が無かったから、ぜーんぶ手作りだった!
 
そのあと「チャコット」(*1)ができて、
同じ年に、4番目の教室に移ったんだよね。

 
(つづきます)


*1
バレエ・ダンス用品の大手総合メーカー。
レッスンウェアやシューズ、舞台メイク道具、衣装まで幅広く揃う。

第2回 「おかえり」が似合う場所