さよならは、こんなふうに。 さよならは、こんなふうに。
昨年連載した
訪問診療医の小堀鷗一郎さんと糸井重里の対談に、
大きな反響がありました。
あの対談がきっかけとなって、
ふたりはさらに対話を重ね、
その内容が一冊の本になることも決まりました。



小堀鷗一郎先生は、
死に正解はないとおっしゃいます。
糸井重里は、
死を考えることは生を考えることと言います。



みずからの死、身近な人の死にたいして、
みなさんはどう思っていますか。
のぞみは、ありますか。
知りたいです。
みなさんのこれまでの経験や考えていることを募って
ご紹介していくコンテンツを開きます。
どうぞお寄せください。
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ほぼ日に譲渡されたものとします。



illustration:綱田康平
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私が生きていけるように、
余命より15年も長く。
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私には病気がありました。
偏見や侮蔑を受けやすい病でした。
亡くなった祖父は数ヶ月の余命宣告を受けました。
それは死ぬ15年前の話でした。
祖父は懸命に抗い生きて戦い、
余命宣告からずいぶんと長生きしてくれました。



祖父は明らかに死んでしまうとわかる病で、
私は侮蔑される病。



お互い薬を飲みながら、通院しながら、
家族の中で扱いに大きな差がありました。



祖父とは、闘病仲間という
意識があったのでしょうか。
いいえ、昔からです。
昔からずっと、祖父だけは何があっても
私にただただやさしかったです。



私は毎朝おむすびを握り、
報知新聞を買い、図書館で気になる本を借り、
病院にいる祖父のもとへ向かいました。
お昼に病室でおむすびを食べて、
借りてきた本を読みながら
一緒に水戸黄門を見ました。
毎日毎日、行っていました。
祖父は、無口な人でした。
ただ「明日も来てくれるか」という
帰り際の言葉にどれだけの恐怖が込められているか、
薬が増える怖さ、
食べたくても食べられない怖さを、
同じとは言えなくても知っていた私は、
「おじいちゃんのそばがいちばん好きだから! 
また明日ね!」
と笑って、毎日通いました。
時間が止まればいいと惜しかった。



祖父が「自宅療養でいい」となったとき、
ホッとしました。同じくらい、怖くもなりました。
私と祖父の家族は、
病を「弱さ」ととらえる人たちだったからです。



なりたくてなったんじゃない。
何度も抗おうとしましたが、
その気力は闘病に向けたほうがよいと思うほど、
家族は病人を侮蔑することを是としていました。
体調不良は怠けもの、
嘔吐するから食べものがもったいない。
私にも厳しかったけど、
それが祖父に向かったとき、
私は憤怒でどうにかなってしまいそうでした。



祖父の死の前。
意識を持って話した最期の言葉が忘れられません。
「どうか許したってくれ。皆が悪かった。
ほんまに悪かった。どうか許したってくれ。
すまん、すまんなぁ」
これから死に何もかも奪われる祖父が、
私にそう言いました。
掠れた声が焼けるように熱く、
耳に沁みて涙になりました。



死を直前にして人はここまで誰かのために謝れるか。
自分ならできない気がします。
しかし祖父は悔いて苦しんで、
謝らずにいられなかったのでしょう。
祖父のやるせなさを思うと、ただただ苦しいです。



私は祖父を愛しています。
私の家族は祖父だけです。
もう、心無い言葉を冗談の免罪符で
闘病を笑う家族を思いやるのはやめました。
私が幼少期に持った夢のように、ほんとうに
おじいちゃんのお嫁さんになりたかった。



あの人たちを許せなくてごめんなさい。
おじいちゃんに謝らせてごめんなさい。
おじいちゃん、大好きです。
どうかもう痛くなく、苦しくなく、
ごはんも食べられて、おいしいと思えて、
歩けるようになって、
またいつか会いたいです。



私はおじいちゃんに会う日まで
この世界の綺麗なものを探して見つづけます。
どうかおみやげ話を待っててください。



祖父はきっと未来を見ていたんでしょう。
自分がいなくなって、
家族の心ない言葉で傷つくたびに
私が許せるよう、なんとか出したのが
あの言葉だったのでしょう。



私がなんとか生きていけるように、
余命より15年も長く生きてくれたって、
自惚れたいです。



(a)
2021-02-24-WED
小堀鷗一郎さんと糸井重里の対話が本になります。


「死とちゃんと手をつなげたら、
今を生きることにつながる。」
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『いつか来る死』
小堀鷗一郎 糸井重里 著

幡野広志 写真

名久井直子 ブックデザイン

崎谷実穂 構成

マガジンハウス 発行

2020年11月12日発売