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2014/08/21 18:43 なぜ京大へ?

涌井さん、そこまで勉強ができて、
群馬の子だったら
「東大に行く」というコースが
妥当かなって思うんですけど、
京大なんですよね。
それはなぜだったんですか。

「えーっと、
 京大のほうがかっこいいから!」

ありゃ。

「授業を受けたい先生が
 3人いたんです。
 ぼくの年代は、
 ベルリンの壁崩壊の記憶はないんですが、
 高2のときに911同時多発テロがあって。
 そのとき、はじめて歴史の
 大きな瞬間を目撃している、
 という実感があった。
 当時から新聞や雑誌を読むのが
 好きだったのだけれど、
 そのあと本を借りたりして調べていっても、
 わりとみんな言うことが
 同じだなあというなかで、
 ちょっと変わったことを言うひとが3人いて。
 そのひとたちが、3人とも、
 京大の総合人間学部にいたんです。
 だから、そこに行きたい! って。
 総合人間学部っていうのは
 文系と理系が融合したようなというか、
 運動科学や身体哲学、国際政治みたいな、
 ちょっと本流ではないけれども、
 面白い人たちがあつまっていたんです」

なるほど。
そうして京大に狙いをさだめた
高校生の涌井さんですが、
陸上を引退したのは、高校3年の6月、
関東大会の群馬県予選をもって。
(ちなみにあこがれていた
 4×400Mリレーで、
 まさかの優勝!
 しかも自己ベストである
 49秒07の記録を
 たたきだしたそうです。
 残念ながらインターハイには
 進めなかったそうですが。)

その6月の部活引退から、
本格的な受験勉強へ。
どんなこと、してました?

2014/08/21 18:42 つまらない授業のときは本をよむのだ。

高2になるときに文系に進んだ涌井さん。
そうなってくると教科がしぼられるので、
きらいな化学は
やらなくてよくなったりすることで
好きな科目に集中でき、
文系3クラス120人のうち
10番以内くらいに
入れるようになっていたそうです。

ううむ、陸上部もやってるのに‥‥。
つまらない授業とかはどうしてたんですか。
寝てなかったんですか。

「あ、うちの部活、朝練はなかったので、
 昼間眠いということはなかったんですよ!
 でもつまらない授業ってありますよね。
 そういうときにはひたすら本を読むか、
 自分で勉強をしてました。
 小説は村上春樹さんや
 江國香織さんを読んでいたなあ。
 ぼくは本を読むのが好きで、
 高1と高2のとき、
 全校生徒図書館貸出しランキングで
 2位だったんですよ」

ああ、ますます文武両道。
あの、予備校とか塾とかには
行ってなかったってことですよね?
陸上部と学校だけで。

「あ! いっこだけ特別なのは、
 中3のときに英語に
 ちょっと苦手意識がわいたとき
 町の英語塾に通い始めたんです。
 ちょっとおもしろい先生がやってる塾で、
 すごくテンポがいい授業で、
 『これさえわかれば全部わかる』
 っていうのかな、
 そういう教え方が上手な先生で。
 そこで発音や文法をならったら、
 高校では英語もつまずかなかった。
 高校時代もずっと、週に1回、通いました。
 最初『おまえほんとに英語のセンスないな!』
 って言われていたのが、
 センター試験200満点で190点以下を
 取る気がしない!
 というところまでいけました」

はふー!

2014/08/21 18:41 部活ばっかりの高校時代。

「前橋高校の陸上部に入って、
 自己申告で短距離を選びました。
 高校1年の5月、
 群馬県のインターハイ予選で
 違う高校の先輩、
 それはのちに全国優勝する先輩なんですが、
 その人が400mを
 走っているのを見て感動したんです。
 人が走るのを見て感動するって、
 自分でも驚きました。
 レベルがちがうんです。
 4日間あるうちの最終日の最終種目である
 4×400mリレー、
 通称マイルリレーでの、
 全高校が注目する
 応援合戦のなかで見ていて、
 『リレーを走ってみたい』
 って強く思いました。
 それが部に入って
 400mを選んだ理由です」

400mって、
ものすごくつらいって言いますよね。

「無酸素運動と
 有酸素運動の境界線っていうか。
 とある医者で、作家でもあるかたに、
 400mや800mをやっていると
 医学的には、寿命縮んじゃうよ
 って言われたことがあるんですが、
 そのくらいつらい種目なんですよ。
 で、その400mを、
 3年間、ずっとやってました」

高校で体育会系の部活をずっとやってたら、
授業中ねむくって、
家に帰ったらご飯食べてバタンキュー、
みたいな生活になりそうなものですが、
勉強はどう両立させてたんですか。
現役京大入学ってことは、
きっとできたと思うんですけど。

「両立、っていう意識はなかったです。
 もちろん高校を選んだのは大学にいくため。
 部活も、たのしいことをふつうにやってる。
 そもそもプレッシャーは、
 陸上に関してはないんですよ。
 それで将来食べていこうとかはないわけだし。
 だから高1、高2は、帰って食べて寝て。
 テスト前に勉強するくらいで、
 部活が中心でしたよ」

当時の前橋高校では、
入学してすぐテストがあって、
それはいきなり東京や
埼玉の私立高校の入試問題を
解かせるというものだったそうです。
ものすごく難しいので、ぜんぜんわからない。
みんなめちゃくちゃ、出来ないそう。
でもそれは先生たちからの
「おまえらはこういうのを解いてきたやつらと
 受験でたたかうんだ」
と、わからせるための方策。
「じぶんは頭いいんだ! と思っている
 いなかの高校生が、井の中の蛙だったって、
 思い知らされちゃうんですよ」

そしてさいしょの定期テストでは、
320人のなかで、
69番か70番だったそう。
(よく覚えてますよね‥‥)
そのときは「こんなに上がいるんだ!」と、
ショック、かつ、ワクワクしたのを
いまでもよく覚えているそうです。

2014/08/21 18:40 涌井先生が登場です!

さあ、あたらしい先生が
いらっしゃいましたよ!
涌井健策(わくいけんさく)さん。
好青年!
文藝春秋の『Number』という
スポーツ雑誌の編集者です。
ぼくらとは「中年陸上部」
相談にのっていただいたり、
「ランナー手帳」をいっしょにつくったり。
ぼくはフェイスブックで
涌井さんの様子を見てるんですが、
しょっちゅうランの大会に出ているし、
こないだも90キロのトレイルラン
(山を走る!)
なんていうすごいこともしてました。
んー、かなわないなあ。

涌井さんは
1984年5月5日前橋生まれの30歳。
群馬の前橋高校出身、ということは、
糸井重里の後輩ということになります。

「当時、県では高崎高校と前橋高校、
 ふたつの男子高が
 進学校として知られていました。
 群馬って進学校が男子高・女子高に
 分かれているんですよ。
 だから大学に行きたい、ちゃんと勉強しよう、
 でも共学がいい! と思ったら、
 県外の私立高校に行くしかないんですね。
 でもぼくは『ここしかないなあ』という感じで
 男子高である前橋高校にすすみました」

前橋高校では陸上部。
なるほど、いまにつながる
ランナーとしてのデビューは
15歳だったんですね。
中学時代はサッカーをやっていたという涌井さん、
なぜ陸上部に行ったのかをおききしてみました。

「いくつか理由があったんです。
 ひとつはサッカーが
 そんなにうまくなかった。
 ぼくは右のウイングだったんですが、
 サッカーの技術よりも、
 足が速かったので
 スピードだけでやってました。
 中学のときの運動会でも
 200〜300メートルみたいな
 長めの短距離で、
 陸上部に勝ったりしたこともあって。
 もちろん県で通用するほどじゃないにしても、
 じぶんの脚でどこまでいけるのかな?
 ということに興味があったんですね。
 そして、陸上って、
 結果が出ても出なくても自分のせい。
 それがいいなあって思ったんです。
 チームプレイのサッカーは、
 自分もうまくなかったうえ、
 中学の頃って自意識肥大でしょう。
 努力する姿を見せるのかっこわるい、
 みたいなところが、ぼくにもあったし、
 まわりのみんなにもあったりして、
 その妙な三すくみ状態で
 いい選手がいても
 強くなれなかったんですね。
 その点、やる・やらないを自分で決める、
 がんばったら早くなるという、
 シンプルな世界が陸上にありました。
 すこし自信もありました。
 だから前橋高校で
 陸上部に行くことにしたんです」

ああ、理路整然。
高校の部活に入ったときのことを
あとからこんなふうに話すのって、
まず、できないよなあとぼくは思います。

前橋高校では
陸上がすべてだったという涌井さんですが、
ストレートで京都大学に入っているんですよ。
そのあたりのことをもっと聞いてみよう!

2014/08/21 18:22 デコトラからレ・ロマネスクへ。

(木村伊兵衛写真賞を受賞した写真家、
 田附勝さんが
 デコトラを撮った素晴らしい写真集、
 その名も『DECOTORA』を見ながら)

「ああ〜、そうそう、こんな感じ。
 なつかしいなあ。
 こうして
 素晴らしい写真家さんが撮ると
 やはり違いますね。
 こういうトラックのプラモばっかり
 つくっていたし、
 こういうトラックに乗った友だちが
 しょっちゅう、
 父のところに遊びに来てました」
 
車内の照明がシャンデリアだったり、
りっぱな神棚があったりとか、
すごいですよね、日本独特というか。

「最近、僕、しみじみ思うんですよ」

はい。何をですか。

「レ・ロマネスクは
 デコトラなんじゃないかって‥‥」

なっ! なるほど!

「ちいさいころは、父親に、
 デコトラのプラモを与えられることが
 すごく嫌だったんです。
 デコトラという存在自体も嫌いでした。
 大人になって、
 パリでレ・ロマネスクをはじめて、
 今日の話で言えば、
 これは、
 僕なりの『ミヤモト的思考』なんだと
 ずっと思ってきたのですが‥‥」

ええ。

「冷静に己を省みるなら
 デコトラそのものじゃないかって」

レ・ロマネスク=デコトラ説。
絶対そうだという気がしてきました。

つまり、少なからず、
「お父さんから受け継いだもの」が
あるのかもしれないと。

「今日は、教科書的な正解だけでなく、
 ミヤモト的思考が大事なんじゃないかという
 話をしてきましたが
 クリエイティビティとか創造性って
 身近な人や環境からの影響が
 実は、すごく強いのかもしれないですね‥‥
 いや、わからないですけど」

トビー先生、
本日は「国語」のことを皮切りに
水族館から乾物からデコトラまで、
じつに深いお話を
本当に、ありがとうございました!

なお、トビー先生の
「ミヤモト的思考」のほとばしりについては
以下の2曲の新曲を拝聴するとよいでしょう。

「祝っていた」

「蚊〜〜〜」

2014/08/21 17:57 ほんもの水族館

「ほんもの水族館というのは、
 実家の乾物屋の店先に並んでいた商品、
 つまり
 イリコ・エビ・イカ・コンブ‥‥などを
 ダンボール製の水族館に
 タコ糸で吊ってディスプレイしたもの。
 1年生のとき、夏休みも押し迫って
 苦し紛れにつくって提出したら、
 先生方からの、大絶賛を浴びたんです。
 ま、このようなものですけど」

(‥‥と、絵を描く)

「思えば、あれは、
 まだちいさかったぼくなりの、
 ミヤモト的思考の産物だったのかも
 しれませんね」

なるほど、おもしろいです。

でも、折り紙とかでつくったエビじゃなく、
「ほんもの」が吊ってあるという点では
「ほんもの水族館」ですが
全体的には
「にせもの水族館」ですよね。
だって水族館に「乾物」は泳いでないから。

「そうです、よくわかりましたね。
 でも、先生方のあまりの激賞ぶりに
 味をしめた僕は
 その後、6年生までずっと
 ほんもの水族館をつくり続けました。
 2年生のとき
 先生方は『苦笑い』をしていました。
 3年生のときには
 ほとんど何の反応もなくなりました。
 これは、
 新鮮味が足りないからだと思った僕は
 4年生の夏に
 『高野豆腐』などを吊ってみたのですが
 その時点ですでに
 『水族館』ではなくなっていました」

それだと「乾物屋」ですよね‥‥。
でも、6年生までつくったんですね。

「そうです。6年生のときなどは
 ピアノ線みたいな細い糸に
 シラスとか
 サクラエビみたいな
 ものすごくちっちゃなものを吊って
 これならどうだと提出したんですが
 お察しのとおり、
 そういう問題ではありませんでした。
 アイディア自体が飽きられていたことに
 もっとはやく気づくべきでした」

つまり、
せっかくの「ミヤモト的思考」だったのに
「ルーチン」となった時点で
いつのまにか、
「教科書的な正解」を求めてしまっていたと。

「そう、だから気を抜いてはいけませんね。
 つねに
 『教科書的な正解はこうだけど、
  ミヤモト的思考だとこんな感じかな』
 という視点を、忘れてはいけないです」

たいへん、勉強になります。

ちなみに、
ご実家、乾物屋さんだったんですね。

「そうなんです。
 亡くなった僕の父親は、
 もともと、
 鮎の稚魚を運ぶトラック野郎でしたが、
 俳優になりたい夢も持っていました。
 そこであるとき、
 鮎の稚魚をトラックに積んだまま
 当時の文学座に行ったんですが
 たまたまいらした杉村春子さんに
 『今は募集してないわよ』と言われ
 がっかりして
 広島に帰ってきたそうなんです。
 で、そのときに、
 稚魚が全滅しちゃったそうなんです」

なんと。

「そこで、今日は売れなくても、
 明日、売れればいいものを売りたいと
 乾物屋を開いたそうなんです」

ナマモノから乾物ということですか‥‥。
でも、
お父さんトラック野郎だったんですか。

「そうです。ぼくのちいさいころは
 ガンダムが流行っていて
 友だちみんなが
 ガンダムのプラモデルをつくる中、
 ぼくだけは、
 デコトラのプラモをつくっていました。
 それは、父から、与えられたものです」

ぼく、素晴らしいデコトラの写真集、
持ってますよ。

「え、ほんと? 見たいです」

2014/08/21 17:18 それってクリエイティビティなのかも。

「国語には、教科書的な正解と
 ミヤモト的思考による正解とのふたつがある。
 そのことを知れたことが
 僕にとっては、すごく大きなことでした。
 世の中には、教科書的な正解だけでなく、
 ミヤモト的思考による正解こそが
 評価されるケースがある。
 むしろ、社会に出たらそんなことばかりです。
 ですから、
 いま、国語のテストで点をとれなくても、
 そのことを、知っておくだけでもいいと思う。
 実際、ぼくは最後まで
 小説の読解で点は取れませんでしたけど、
 納税の義務を果たせるくらいの人間には
 なんとか、なれましたので」

教科書的な正解を追うだけでなく、
ちょっとミヤモト的思考を混ぜてみること。
そっちで考えるクセを、つけておくこと。

「あのミヤモト・ショックがなければ
 いまごろ僕は、
 教科書的な正解だけを求めるマシーンと 
 化していたかもしれません」

でもそれって、トビー先生が
レ・ロマネスクというめずらしい活動を
なさっているから、
そのように思うわけではないですよね。

「そのとおりです。
 営業であれ、うどん屋であれ、総務であれ、
 公務員であれ、学校の先生であれ、
 レ・ロマネスクであれ、
 ミヤモト的思考は、本当に大切だと思います。
 それは、一般的には、
 クリエイティビティと呼ばれているものでは
 ないかなと思います」

国語で「クリエイティビティ」を養う!
たしかに、夏休みの宿題とか
図画工作とかに求められているのって
「ミヤモト的思考」ですよね。

「はい」

ちなみに、トビー先生は
どんな夏休みの宿題をつくってたんですか?

「ほんもの水族館です」

ホンモノスイゾクカン‥‥?

2014/08/21 16:45 社会で役に立つのは。

「ミヤモト・ショックは、
 僕の心に
 ものすごいショックを与えました」

何がいちばんショックでしたか。

「やっぱり、先生方に
 ミヤモトくんの感想が『正解』だと
 言われたような気がしたんです。
 でも、芥川龍之介が、
 あの『蜘蛛の糸』という短編を通じて
 伝えたかったことって
 『天国にも蜘蛛が住んでるんですよ』
 ということじゃないじゃないですか」

それこそ、トビー先生の書かれた
「独り占めはダメよ」のほうですよね。

「大げさに言えば、
 それまでの価値観が崩壊したんだと思います。
 教科書的な正解だけ考えてたら
 いちおうマルだけど、
 いちばんのハナマルは、もらえない。
 そういうケースがある。
 ですから
 ここは教科書的な正解を書くべきか、
 それとも
 ミヤモト的思考の正解を書くべきか‥‥。
 国語の試験のたびに
 そのことが気になって気になって
 ぼくは、
 高校・大学受験だけでなく
 中学受験まで経験していますが、
 小説の読解は、
 最後まで、ぜんぜんダメだったんです」

でも、そこに気づいたのは
けっこう「いいこと」だったのでは?

つまり「ミヤモト的思考」の答えもあると
つねに気にしてたってことは
そっちで考えるクセもつくじゃないですか。

「そう。まさにそうなんです。
 だって社会に出て、
 さまざまな職業・アルバイトを経験し‥‥」

幾多の「ひどい目。」に遭い。

「結果的に、パリで
 レ・ロマネスクをはじめるのですが
 そこで役に立ったのは
 みんなと同じ教科書的な正解ではなく、
 ほとんど、
 ミヤモト的思考のほうだったから」

2014/08/21 15:35 ミヤモト・ショック

「小学3年生のときに
 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んで
 読書感想文を書くという宿題が出ました。
 ご存知とは思いますが、
 ざっと、あらすじをお話すると‥‥」

お願い致します。

「地獄に落ちたカンダタという罪人は
 一度だけ、
 ちいさな蜘蛛のいのちを助けるという、
 善行をなしたことがありました。
 そのことを知った極楽のお釈迦さまが
 地獄の底のカンダタへ向けて
 一本の蜘蛛の糸を垂らしたんです。
 カンダタは、これ幸いと
 蜘蛛の糸を登っていくのですが、
 ふと下を見れば、たくさんの罪人たちが
 自分のあとについて登ってくる。
 このままでは
 糸が切れてしまうと思ったカンダタが
 これは俺の糸だぞと叫んだ瞬間に
 糸は、ぷっつり切れてしまった‥‥」

教訓的なお話ですね。

小学3年生の僕は
「蜘蛛の糸を独り占めにしようとしたから
 糸は、切れてしまったと思う」
と、読書感想文に書きました。

ええ。テストだったら「正解」ですよね。

「おそらく、友だちの多くも、
 同じようなことを書いたと思います。
 でも、同級生のミヤモトくんだけは
 ちがいました」

はい。

 「天国にも
  蜘蛛が住んでいるんだなと思いました」

‥‥素朴な感想ですね。

「すると、そのミヤモトくんの感想が
 先生がたの賞賛を浴び、
 最優秀の感想文にえらばれたんです」

なんと。

「これが、国語の試験だったらどうですか。
 僕をはじめ
 その他大勢の生徒が書いた
 蜘蛛の糸を独り占めにしようとしたから
 糸は切れてしまった、
 という答えは、文句なく100点ですよね。
 しかしながら、
 読書感想文においては、
 80点かも知れないけど100点じゃない。
 100点は、ミヤモトくんの書いた
 言っちゃあなんですけど、
 ちょっと、すっとんきょうな感想のほうで
 それが、じつに小学生らしい発想だと、
 いちばんの評価を受けたんです」

ははあ。

「このとき、
 ぼくは『ふたつある』と思いました」

ふたつ、ある?

「国語で『正解』するのには
 ふたつのやりかたがあるんだな‥‥と」

なるほど。

「教科書的な正解と、
 ミヤモト的思考の正解と」

そのことを、小学3年のときに悟った。

「そうです」

そしてそれが‥‥ミヤモト・ショック。

「そうなんです」

2014/08/21 15:35 小説の読解

トビー先生、トビー先生。

本日のテーマである「国語」には
苦手意識があるって人も多いと思います。

「ええ、ぼくも苦手でした。
 とくに、どうしても
 『小説の読解』ができませんでした」

そうなんですか。

「それ以外の評論の読解や、
 古文漢文は、なんとかなったんです。
 でも、小説の読解だけは難しかった」

たしかに、受験にまつわる話で
「その小説を書いたご本人に
 問題を解かせたら、答えを間違った」
みたいなのって、よく聞きます。

「僕の場合は
 ハッキリ、できない原因があるんです。
 小学3年生のときに
 僕を襲ったそのできごとを、
 僕は、
 自分の中で『ミヤモト・ショック』と
 呼んでいるんですが」

‥‥ミヤモト・ショック。