よく晴れた春の日、群馬県高崎市にある
「OSAJI」(オサジ)の工場をたずねました。
迎えてくださったのは、開発者である茂田正和さん。
工場を案内していただいたあと、お話をききました。
「weeksdays」と組んでの「トラベルセット」は、
こんな経緯でできあがったんです。

茂田正和さんのプロフィール

茂田正和 しげた・まさかず

1978年生まれ。化粧品技術者、スキンケアアドバイザー。
2002年より化粧品開発に従事。
東北大学皮膚科・相場節也教授に師事し、皮膚科学を学ぶ。
2010年にスキンケア、ボディーワーク、フードなど
トータルライフスタイルから築く真の美容を広く提唱すべく
「バランスケア・アソシエーション」を発足。
多くの美容関係者とともに
セミナーやワークショップを開催。
ファッション雑誌等でも美容に関わる情報を執筆する。
2013年「子供を紫外線から守る会」を発足。
現在は化粧品開発業務と合わせ、
美容関係従事者への皮膚科学、
化粧品学分野の講師を務める。
以降、肌トラブルに悩む様々な方々に寄り添った
スキンケアブランドや専門店を開発し、
世に送り出している。
日本皮膚科学会正会員、
日本皮膚アレルギー・接触皮膚炎学会、
日本化粧品技術者会、日本香粧品学会所属。

その1
家族の肌をなおすために。

伊藤
工場を見せていただいて、おどろきました。
1階に「真空乳化装置」という、
製品をつくる、大きな機械がひとつ。
そこでつくられたものを、
2階にはこび、ボトル詰めをして、製品化する。
ほんとうにコンパクトにつくられているんですね。
「OSAJI」にはたくさんのラインナップがあるので、
きっと大きな工場で
オートメーションでつくっているのかと思っていたんです。
それが、機械を使っているとはいえ、
つくるのも、容れるのも、すべて手作業で。
茂田
ちいさな工場でしょう?(笑)
さすがにもう、設備が足りなくなってきたので、
拡大したいと思っているんですが。
伊藤
開発をおこない、レシピをつくるのは、
東京の日本橋にあるラボですよね。
茂田
はい、開発や営業、デザインのチームは
東京に置いているんですよ。
群馬には、この工場のほかに、
車で20分くらいのところに
パッケージの工場があるんです。
だからぼくは、群馬2箇所と
東京を行ったり来たりして仕事をしています。
伊藤
もうひとつ驚いたのは、
ここ(高崎)のOSAJIの工場が、
「日東電化工業」という、
メッキの工場のなかにつくられていたこと。
もともと家業がメッキ工場で、
そのなかに「OSAJI」など、
茂田さんがなさっている基礎化粧品ブランドの
ヘルスケア事業部があるんですね。
茂田
はい、メッキ工場は父で三代目になります。
いまは主に兄が、その部門を担当しています。
伊藤
茂田さんは、なぜメッキ工場のなかで
ヘルスケア事業部を立ち上げたんですか?
茂田
話せば長いことながら‥‥、
こことは別に、
前身となる会社をやっていたんです。
ぼくが大学を出た頃は就職氷河期の時代で、
だったらベンチャー企業を
立ち上げようという気運がありました。
ぼくは最初は音楽業界に入ったんですが、
それを辞めて、友人といっしょに
パッケージデザインの会社をつくりました。
ものをつくることが好きだったので、
ゆくゆくはメーカーとして何かやりたい、
と考えていたなかで、母が交通事故に遭いました。
その後遺症なのか、母は顔や身体に湿疹ができ、
いままで使っていた化粧品で
炎症を起こすようになってしまったんです。
母はもともと食品も無添加のものを選び、
化粧品も「食べても安全」をうたっているような
メーカーのものを使っていた人なのに、
それが肌に合わなくなってしまった。
ぼくはその当時、化粧品のことを
何も知らなかったんですが。
伊藤
それが何年くらい前のことですか。
茂田
1999年あたりだから、20年前くらいですね。
母親がそういう状態になって、
なぜ使えなくなったのかを調べることから始め、
母が使える化粧品をつくろうと、
自宅のキッチンでつくりはじめたのが
いまにつづく事業を立ち上げたきっかけです。
それで、やり始めたら、無性に楽しくなって。
伊藤
そのレシピはどうしたんですか?
茂田
それが困ったんですよ!
化粧品を学ぶための本は、
世の中に1冊くらいしかなくて、
読破しても、つくるための本当のノウハウは
書かれていないんです。
そこで原料メーカーさんに直談判して、
いろいろ教えてもらったり。
当時は、工場もなく製造ができたわけじゃないから、
製造を頼んでいた会社を見学させてもらったり、
そんなふうに自分の中でノウハウをつくって、
やっと、こうしてつくれるようになったんです。
伊藤
それでお母様のお肌の調子はどうなったのでしょう?
茂田
いろんな意味で行き着いた処方があって、
それを使うことで肌が改善していきました。
もちろん時間が経っていたので
自然治癒的にもよくなっていったんだろうけれど、
ずいぶん落ち着いていったんです。
それから、もっと突っ込んで、
皮膚の機能だったり、構造だったり、
それが改善するとか悪化するとかっていう要因はなんだ?
みたいなことを勉強していきました。
そういうことを学ぶことが自分にとっては楽しくて。
叔父が皮膚科医だったので、最新の論文とか、
「こんなの出たよ」みたいなことを
教えてもらったりとかしながら。
伊藤
なるほど。
茂田
そうして最初につくったのが、
「nesno」(ネスノ)というブランドでした。
これは今も継続しているんですが、
当初、その箱をつくっていた人を、
事業を立ち上げるにあたって、
仲間として呼ぶことにしたんです。
それがいまプロダクトマネージャーをつとめている
内田謙太郎です。
内田
ある日、茂田が「俺、化粧品つくる」と言うんです。
それで、「化粧品をつくるんだったら、
自分に全部そのパッケージをやらせてくれ」と。
そしてたまたま自分がその会社を辞めた時、
「一緒にやろうよ」って、引っ張ってくれたんです。
ところが、すっかり化粧品をつくる気でいたら、
最初に茂田といっしょに
メッキの仕事をやることになって。
伊藤
えっ、えっ?(笑)
茂田
これも話せば長いんですが、
父の経営する日東電化工業に入った理由っていうのは、
これから先、自動車のエンジン部品の仕事は
電気自動車になれば減っていく、
そうなった時に、今の売上軸はなくなるわけだから、
何か新しい事業を始めたいと、
父である社長は思っていたからなんです。
そんなところに、自分がちょうど、
サラリーマンとしてじゃなく、
外で化粧品メーカーをはじめていたものだから、
「だったら日東電化の中でやろうよ」という話になって。
ところが、入ってみたら、
若手の職人が多い会社だったこともあって、
多少の無茶がきくものだから、
仕事がたくさん入ってきていたんですね。
他のメッキメーカーで応えられないことを、
応えられる体力があった。
ぼくは化粧品のことをやるために入ったんだけれど、
その状況をみて、
「いま、化粧品やってる場合じゃない!」
と、なってしまって。
本当に、待ったなしで明後日には
モノを納めなきゃいけないのに、
不良品が出た! どうする? 寝ずに働くか?
‥‥みたいなことをやっている現場を無視して、
化粧品をやるのも、違うよね、って。
だから「いつか化粧品をやるんだ」っていう
未来のビジョンをもちながらも、6年間ほどは、
内田も巻き込んで、メッキの仕事をしていたんです。
ほんとうに働きに働いて、
その6年間で社員も増え、
年商も2.5倍くらいになりました。
伊藤
じゃあ「nesno」は、
その時は、止めていたんですか?
茂田
いや、売ってはいましたけれど、
県内の美容院とか、ちょっと通販とか、
そんな程度でした。
伊藤
会社が安定して、それで化粧品に戻られた?
茂田
ところが、ぼくもそこまでメッキにどっぷり浸かると、
すっかり化粧品へのモチベーションが
低くなってしまったんです。
母親もすっかりよくなっていたし、
しかし父である社長が、ぼくの肩を叩いて、
「お前、いつまでメッキの仕事やってるんだ?!」
と。
(つづきます)
2019-05-12-SUN