東京・南千住の「市川籠店」は、
手づくりの籠(かご)の店として明治に創業、
戦後、荒物屋としての役割を担ったことから
「市川商店」の屋号を持ちます。
現在、5代目となる
市川伴武(ともたけ)さんと彩さん夫妻は、
先代であるお父さまから受け継いだこの店を、
もういちど「籠の専門店」として立て直しました。
かつて60店あったという都内の老舗の籠屋ですが、
いまはここ市川籠店のみ。
明治期の話から現在にいたるものがたり、
そして今回「weeksdays」で紹介することになった
カチュー(水草)で編んだタイの籠のことについて、
伊藤まさこさんが取材しました。
店内写真=南萌(weeksdays)
海外写真=市川籠店
商品写真=有賀傑

市川伴武
いちかわ・ともたけ
埼玉県出身。
大学卒業後、2006年より東京・渋谷で
来日外国人に日本語を教える日本語教師として働く。
2010年からJICA・日系社会青年ボランティアとして
パラグアイにて日系日本語学校教師として活動。
2012年ベトナムへ赴任し、
看護師・介護福祉士候補生への
日本語研修プロジェクト現地局長として活動。
プロジェクト進行中に
市川籠店・四代目の父の危篤の知らせを受けて
緊急帰国し、そのまま代を継ぐ。
最近は、体の声を聞き、
それにあった食事をとるようにし、
日々のシンプルな料理・お弁当作りにも凝っている。
休みの日は子どもたちと
体を動かして遊ぶことがたのしみに。
市川 彩
いちかわ・あや
千葉県出身。
10代はじめの4年間をタイ・バンコクで過ごす。
帰国後は大学で歴史学を専攻。
2007年より伴武氏とおなじ日本語学校で
日本語教師として働く。
おもに外国人留学生への日本語教育や進路支援を担当。
2012年にベトナム・ハノイに渡り、
日本語研修プロジェクトに日本語教師として携わる。
帰国後、2014年より市川籠店の五代目として共に働く。
趣味は映画を観ること、本を読むこと。
古いものが好き。
食事は蒸し料理など、
温かいものをとるようにしている。
一男一女の母。
02海外赴任から戻って
- 伴武
- ちょっと話がそれちゃいましたね。
うちが角籠が得意でやってきた、
という話でした。
それで、祖父母は、二代目である父親、
ぼくからすると曽祖父に憧れたんですって。
かっこよくて。
- 伊藤
- へえー!
- 伴武
- 二代目は金次郎っていうんですけど、
粋でいなせな江戸っ子のど真ん中を行くような人
だったんですって。
それで祖父母‥‥祖父は次男でしたが家を継いで。
その間に東京大空襲などで3回燃えてます、ウチ。
最初は吉原の大火で。そのあとが関東大震災、
そして東京大空襲があって、
このへんは焼け野原になっちゃって、
バラックからもう1回始めたそうです。
戦争でみんな何もなくなっちゃったんで、
祖父が茶碗籠みたいなのを作って
祖母が市に持ってったらもう飛ぶように売れた、
って手記に残ってました。
高度経済成長も含めて戦後からしばらくが
たぶん一番よい時代だったんだろうと思います。
昭和40年代ぐらいになると
プラスチックと段ボールが出て来て、
もう一気に竹籠産業は終わっていく。
なので祖父母の代から父には
もう継がないでいいよ、というか、
どっちかっていうと「継ぐな」と言ったそうです。
それでも父は継いだ。
で、私たちはどうかというと、兄も含め、
この店がいいとか悪いとか
1回も言われたことがありません。
「継いでほしい」もゼロでしたし、
そういう意味で自分には、
この店に対してプラスもマイナスもありませんでした。
ただ親の仕事っていう感じだったんです。
- 伊藤
- でも暮らしの中では使われてたんですか。
- 伴武
- 今考えればそうですね。
そのときは全く気にしてなかったんですが。
- 伊藤
- 産まれたときからあったら
気にならないですよね。
- 伴武
- 気にならないです。それが普通だったので。
でも今考えたら
「岩手のすず竹のざるがあったな」
「アケビのこういう籠あったな」
「ラタンのこういうの見たことあったな」
なんて思い出すんです。
でもそのときは全然もうなにも思わなかった。
それで父が2014年の9月に亡くなるんですけど、
亡くなるまでは兄弟の誰も継ぐ気がなかったんですよ。
- 伊藤
- それまでは、伴武さん、彩さんは
何をされてたんですか。
- 伴武
- 私も妻も日本語教師です。
外国の人に日本語を教える仕事で、
そのときはベトナムのハノイに一緒に赴任してました。
- 伊藤
- そうだったんですね。
- 伴武
- 私はその前にパラグアイに2年間いたんです。
- 伊藤
- それがどうして
「家を継ごう」ってことになったんですか。
- 伴武
- ベトナム赴任中に兄から
父が危篤という連絡が来たんです。
じゃあ帰らなきゃ、っていうので
プロジェクトを半ばにして会社にお願いして
帰らせてもらいました。
帰国は4年ぶりでした。
でも父はもう病院に入っていて。
- 彩
- なので私たちは、
義父が入院している間に
留守を守る、というくらいの感じで
毎日お店に来ていたんです。
- 伴武
- 僕はベトナムに戻るつもりだったし。
店もすでに半分閉まっていたような状態でしたし。
ただ母もいますし、
取引先の電話は受けないといけない。
元々は週6、開けていたので、
連絡は来るんですよね。
それでとりあえず繋がなきゃって。
たとえばお役所の仕事をいただいてたりしたので、
穴があけられないんですよ。
- 伊藤
- お役所の仕事って、どんなことなんですか。
差し支えなければ。
籠‥‥じゃないですよね?
- 伴武
- ぼくらの商売は「荒物雑貨」なんです。
もともとは「市川籠店」として籠の専門店だった屋号を、
祖父母の代に1回捨てろって言われたんだそうです。
要は籠だけじゃ食っていけないから、
なんでも商いにしないとだめだっていうことで、
名前を市川籠店じゃなくて
市川商店にした方がいいよ、と。
それでいまも公式には市川商店なんですけれど、
親父はそれがすごく嫌だったみたいですが、
結果、市川商店として、
籠以外の荒物全般、なんでもやっていました。
それこそロープもブルーシートも扱って。
- 彩
- いわゆる「荒物屋」ですね。
- 伴武
- そうですね。地域の荒物屋さんですが、
ちょっと籠強め、みたいな感じでしょうか。
父にしてみればそういう
お役所の仕事は大事だったんですよね。
籠はもうほとんど商売にならなくなって、
ぼくら3人の子どもを大学まで行かせたいと思ったら、
鉄道会社の仕事とお役所の仕事が大事で、
父はけっこうそれを受けてたんですよ。
皮肉ですけどプラスチックの籠を頼まれて納めたりとか。
- 彩
- ほうきとか、ちりとりとか。
- 伴武
- 僕、ショックだったんです。
父が入院して繋ぐときに、
「靴墨2つと靴ブラシ2つ持ってきて」
なんて注文が入って、
どうするのって父にメールしたら
「鉄道会社の何々課の何々さんに電話しろ」と。
で、連絡をしてマニュアルトラックを運転して届けました。
ところが「市川商店でーす」って受付に言っても、
誰も相手にしてくれない。
「毎度ありがとね」とかそういうのもない。
「あ、えーと、これどうすれば‥‥」
「そのへんに置いといてください。
え、伝票? あっち回しといて」
みたいな感じなんですよ。
それは寂しいですよ。しかも何十円ですよ、粗利。
でも「ああ、こういう感じで親父はやってたんだ、
こうやって自分たちは育てられたんだ」とわかって。
- 伊藤
- すごいことです。
その時はご夫婦二人で継ぐ覚悟は‥‥?
- 伴武
- いや、まだ、ないですよ。
- 彩
- 病気が治ってまた戻るかもしれないって
いうのもあったので。
- 伴武
- 「親父、大変なことやってたんだね」と
母に言ったりしたのは覚えてます。
そしてぼくらが繋いでる間に、
家に父が戻って来ない可能性が
だんだん高まってきて、
「これどうする」と考え始めたら、
キラッと光る籠がいくつかあって、
「これかっこいいね」と話して。
- 彩
- 在庫の中に、いい籠があったんです。
ぽつんぽつんとこう‥‥。
当時はけっこう外国産のもの、
安価な輸入のざる籠みたいなものも
置いてあったんですが、
その中に「これは?」というものがあって。
- 伴武
- そうこうしているうちに、
病状がどんどん悪化して、
僕が戻った6月から4か月目の9月には亡くなっちゃった。
だからぼくと父がいた時間は3ヶ月しかありませんでした。
しかも父は病院にいたから
仕事のことが話せなかったんです。
取引先の職人がどうのこうのとかっていう
細かい話はもう全く聞けず亡くなってしまい、
お店と在庫と私たちが残ってしまった。
それで、そういうキラッと光る籠があったことと、
代々続いてきた店っていうことがなんとなく符合して、
「まあ、やってみるか」と。
- 彩
- 「もう少しやってみてもいいかもね」
くらいの感覚でしたね。
- 伊藤
- そうだったんですね。
- 伴武
- 気持的なところですけど、
妻の方が籠に目が利くというか、
「ここにはすごくいいものがあると思う」みたいに
言ってくれたんですよ。
ぼくは「あ、そうなんだ」みたいな。
- 伊藤
- 2人とも商売は初めてだったんですね。
- 彩
- 初めてです。はい。
- 伴武
- 教育ってお金に触らなくていい仕事なんです。
とはいえベトナムではプロジェクト進行をしてたので、
多少はお金のことをやってましたけど、
商売のショの字も知らないのはほんとです。
- 伊藤
- それで、最初になさったことは‥‥?
- 彩
- 在庫というか物が多かったので、
その整理です。
フリーマーケットに行って
2人で徹底的に在庫を売りました。
- 伴武
- 物があふれてましたよ。
フリマは10回以上出たかな。
- 彩
- それがけっこう面白かったんです。
- 伴武
- だいたい店の半分くらいの容積を在庫が占めていて、
誰も入れないくらいのエリアもあり、
何があるかもわからない、そんな状態だったんですよ。
2階に同じ間取りがあるんですが、
階段上ってすぐ鉄壁のように段ボールが積まれてて、
母は30年間2階の壁を見たことなかったっていうんです。
- 彩
- そのくらい、在庫が多くて。
- 伴武
- どこに何があるかも、わからないんですよ。
段ボールを1個ずつ開けて
「何が入ってんのかな」って。
- 伊藤
- そこにも、キラッと光るいいものが?
- 伴武
- はい、たとえば青森の弘前の籠や
大分の白竹の細工が
ごろっと眠ってたりとか。
かと思えばもう虫だらけの籠が
カートンでそのまま残ってたり。
- 伊藤
- さすがにもう捨てるしかないものも
あったでしょうね。
- 伴武
- 捨てるしかないんですが、
1箱全滅かどうかも確かめて、
虫が食ってないものがあったら
きれいにしてフリマに持って行きました。
あの10回のフリマ、とても思い出深いです。
- 彩
- けっこう皆さん喜んで、
ちゃんといいものを掘り出してくださって。
- 伴武
- 営業トークの勉強にもなったし。
- 彩
- おおぜいの出展者がいて、
たくさんのお客さまがいらっしゃる中、
どうやったらうちの店に
振り向いてもらえるかっていうのを
考えながらやっていましたね。
- 伴武
- 必要に迫られて、
商売の原点みたいなことを、
2人で一所懸命やってたんです。
- 伊藤
- それが2014年後半からの出来事。
今の形になるまでに
数年はかかったということですね。
- 伴武
- 「ほぼ日」のみなさんとご縁ができたのが2016年で、
あのときはまだ1割ぐらいしか
自分たちの中ではできていませんでした。
在庫を処分していくなかで、
「これはもう売れないけれど
市川商店の歴史として大事だから
展示物として残しておこう」とか、
だんだん住み分けができていって、
店の手の届かない上の段にはそういう展示物を置く、
いまのようなスタイルになっていく途中でした。
いいものの中には、うちでつくった古い籠もあれば、
高島屋さんの催事の一番いい写真で出た椅子だとか、
大井競馬場の馬が草を食べる飼い葉籠や、
うなぎを獲る仕掛け
(うなぎ筒(うなぎどう)。鰻筌[=うなぎうけ]あるいは筒[=ず]とも)とか、
いろんな地域のいろんな用途のものがあって。
あるいは道具街の合羽橋に
竹製品の専門店さんがあったんですけど、
そこがおやめになるっていうときに電話がかかって来て、
「廃品回収業者に全部出して
捨てられちゃうぐらいだったら、
あんたらならいいものだってわかるだろうし、
少しでも現金で買ってってくれないか」と言われて、
九州の仕出し籠を買わせてもらったりもしました。
- 伊藤
- すごいですね。