さあ、冬季五輪です。今年はイタリア。
ミラノとコルティナダンペッツォ(長い!)で
2月6日から2月22日まで開催されます。
かつては膨大な量のメールを
狂気じみた長さで翌日に掲載していた
「観たぞオリンピック」シリーズですが、
東京オリンピックでその形式は終わり、
その後に開催されたオリンピックからは、
ぼくが1日に1本、原稿を書く
というスタイルでひっそり続けています。
あ、ぼくというのは、ほぼ日の永田です。
さて、今回のオリンピックでは、
さらにのんびりと、書けたら書きます、
というくらいの感じで行きたいと思います。
そしてリアルタイムの観戦実況的な発信は、
Xの「#mitazo」をご覧ください。
さあ、はじまったらはじまっちゃうよ?
開会式から閉会式まで、よろしくお願いします!

 

永田のX(旧Twitter)アカウントはこちらです。
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#13

スポーツの「物語」と「技術」

 
スポーツを観るとき、そして感動するとき、
そこには「物語」と「技術」というふたつの軸があると思う。
「物語」というのは、
たとえばその人がどんな人かということ。
その瞬間が生まれるまでに、
どういう背景があったのかということ。
具体的にいうと、「熱闘甲子園」を観てから
甲子園で開催されている高校野球を観ると、
おもしろさの量が遥かに大きくなるということ。
その人がどんな人生を歩んできたか。
十代の天才のデビュー戦なのか、
あるいはベテランアスリートの引退試合なのか。
客席にお母さんが来ているのか、
競技の道具をつくってる町工場なのか。
いやいや、そんなのぜんぶスポーツには関係ない。
記録と勝敗と得点こそが純粋なスポーツじゃないか、
という軸が「技術」である。
たとえば100mで世界記録が更新された数秒間。
棒高跳びの選手が人類未踏の高さにあるバーを
ぎりぎりで乗り越えるときのスロー。
ボールが足に吸い付くような
ありえないトラップからのフェイント。
長いラリーのあとでそこしかないというところを
撃ち抜いていくダウン・ザ・ライン。
ノールックパス、リベロのレシーブ、
上手まわしを切りながら回り込んでの出し投げ。
ぼくはどうやらそういう2軸に
心を動かされながらスポーツを観ている。
そして、その「物語」と「技術」が
交わってスパークするのが、
オリンピックという場なのだと思う。
4年に一度開催されるオリンピックという
スポーツの祭典は「物語」と「技術」が
ぱんぱんに充填されていて、
ときどき、夜明け前の画面のなかなどで、
激しく、奇跡みたいにスパークする。
ぼくはスポーツが好きだが、
録画されたものやアーカイブを観ることはあまりない。
ニュースやインタビューなどは観るけど、
プレイそのものをくり返し観る、ということはしない。
けれども、三浦璃来選手と木原龍一選手、
りくりゅうペアのフリープログラムは、
ああ、また観たい、と思って何度も観た。
ふだんからフィギュアスケートを
熱心に観ているわけではないぼくは、
くわしいことが理解できているわけではないのだけれど、
それでもこの4分強の演技には見入ってしまう。
個人的に、いちばんこころが震えるのは、
あきらかなハイライトである長時間のリフトや
美しいスロートリプルではなくて、
序盤に連続するトリプルトゥループのあとの、
ダブルアクセルのさらにあとの、
みっつめのダブルアクセルだ。
どうしてかはわからないけど、
何度観てもあのみっつめのダブルアクセルで
気持ちがぶわっと逆立つ。
あの身体も精神も完全にシンクロしたようなふたりの回転と、
それが氷に降りたときの同時性が、
どうしようもなく「はじまる!」とぼくに思わせる。
それはふたりが積み上げてきた「技術」の結晶なのだろうと思う。
ミラノ・コルティナオリンピックのリンクにおいて
おそらく何十回も披露されてきた
さまざまダブルアクセルのなかで、
りくりゅうペアが飛んだ
あのみっつめのダブルアクセルがぼくにとって特別だ。
そして、そういうのをスポーツに含ませるべきじゃない、
という人がいるかもしれないが、
ぼくがあの瞬間に重ねてしまう「物語」は
前日のショートプログラムの失敗である。
長くスポーツ観戦を趣味にしているぼくは
競技を超えて個人的なベストシーンを
いくつも胸に刻んでいるけれど、
フィギュアスケートにおける1位はまちがいなく
2014年ソチオリンピックの浅田真央選手のフリーだ。
前日のショートプログラムでまさかの16位。
ファンはもちろん、世界中を転戦している
仲間のフィギュアスケーターからも
「GO MAO!」のメッセージが飛び交った。
ハイレベルな女子フィギュアにおいては、
どうがんばってもメダルに届きようもない順位。
しかし、「そういう問題じゃない」ということを、
あの夜をそわそわと落ち着きなく
過ごしたファンなら覚えていると思う。
翌日のフリー。リンクに立つというだけでも
ものすごいことに思えた浅田真央選手が
冒頭のトリプルアクセルを降りる。
その瞬間に感じた感動は、
重ねてはいけないかもしれないが、
やはり乗り越えてきたショートのミスという
「物語」があったからこそなのだと思う。
金メダル候補のりくりゅうは、
ふたりの代名詞でもあり、得点源でもあるリフトで、
ふだんはやらないミスをした。
木原龍一選手は激しく落ち込み、
観ている我々もまた落ち着かない夜を過ごした。
ぜんぶが終わった後のインタビューのなかで、
三浦璃来選手が明かした事実によって、
ぼくらが重ねる「物語」はより強度を増す。
「龍一くんがずっと泣いてるんですよ」
それらを踏まえて、9歳年下の三浦璃来選手が
「私がおねえさんになって」励まし、
心の折れた木原龍一選手を肯定して、
ふたりはフリープログラムのリンクに立った。
優勝候補だったが、順番は最終グループでさえない。
順位は関係ない、自分たちの演技を、ベストを。
そう思ったぼくらの気持ちは、
それこそソチの浅田真央選手のときと
同じだったかもしれない。
けれども、ソチと違ったのは、
ふたりが駆け上がった場所がトップだったことだ。
ぼくのこころがどうしても泡立つ、
冒頭の3連続ジャンプのみっつめのダブルアクセル。
あの瞬間、まさに「物語」と「技術」がスパークする。
その火花こそ、ぼくがオリンピックを観る意味である。
最後に、はみ出しちゃうようだけど、
おまけをひとつつけ加える。
この「物語」と「技術」という
ぼくの思うスポーツの2軸を
あるアスリートがひとことでまとめて表現して、
ぼくは心底感動したことがある。
それは、やはりぼくのこころのベストシーンに
いくつもその姿を残している羽生結弦さんである。
彼はあるインタビューのなかでこんなふうに言った。
「たとえばふとマラソンとか駅伝を見て、
その選手をとくに応援してたわけでもないのに、
がんばったなって思って、涙が流れてきたりとか。
野球でも、サッカーでも、なんでも、
スポーツってその力が絶対あると思うんです。
でもそれって、表現力かって言われたら、
表現力じゃないなって思うんです。
じゃあなにかっていうと、
『結果』だと思うんですよ。
スポーツに『結果』っていうものがあるからこそ、
生まれる感動なんじゃないかなって。」
(「いつ世界が終わっても」より)
おそらくそういうことを誰よりも、
何度も何度も考えてきた羽生結弦さんだからこそ
たどり着いた「結果」という表現。
「物語」の帰結、そして「技術」がもたらすもの。
スポーツを観る意味、スポーツをやる意味、
そういうことを考えながら観るオリンピックは
ほんとうにおもしろい。

(つづきます)

2026-02-18-WED

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