さあ、冬季五輪です。今年はイタリア。
ミラノとコルティナダンペッツォ(長い!)で
2月6日から2月22日まで開催されます。
かつては膨大な量のメールを
狂気じみた長さで翌日に掲載していた
「観たぞオリンピック」シリーズですが、
東京オリンピックでその形式は終わり、
その後に開催されたオリンピックからは、
ぼくが1日に1本、原稿を書く
というスタイルでひっそり続けています。
あ、ぼくというのは、ほぼ日の永田です。
さて、今回のオリンピックでは、
さらにのんびりと、書けたら書きます、
というくらいの感じで行きたいと思います。
そしてリアルタイムの観戦実況的な発信は、
Xの「#mitazo」をご覧ください。
さあ、はじまったらはじまっちゃうよ?
開会式から閉会式まで、よろしくお願いします!

 

永田のX(旧Twitter)アカウントはこちらです。
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#06

オリンピックの軽さと新しさ

 
今日はちょっと曖昧なことを書いてみる。
ぴしっと伝わらないかもしれないけど、
あまり気にせずやってみる。
連日、オリンピックを観ていて、
ぼくは感じることがある。
なんだか、とてもたのしいのだ。
いまさらあほか、と言われそうだが、ほんとだ。
毎日、とてもたのしくオリンピックを観ている。
いや、もちろんこれまでのオリンピックを
たのしくないのに観ていたわけではない。
オリンピックを観るのはいつもたのしい。
しかし、今回のミラノ・コルティナオリンピックは、
これまでにない、すなおなたのしさがある。
ということは、これまでのオリンピックには、
そういう軽やかなたのしさがなかったのか。
うん、そうかもしれない。
オリンピックを観るというのは、
とりわけ、腰を据えてじっくり観るというのは、
ある種の重さを超えていくものだった。
たんに明るいよろこびだけを受け取るのではなく、
そこにかけた時間や思いや物語を、
どの瞬間にも重ねながら
最後の最後によい結果が導かれたときに
ようやく昇華して感動するような、
そういう鑑賞のしかたをしていたと思う。
ミラノ・コルティナオリンピックを観るとき、
そういった競技以外のものを
あまり重ねずに観ている自分に気づく。
これはぼくだけがそうなのかどうかは、よくわからない。
たとえば、そこで選手が手にするのは、
悲願のメダル、ではなく、ただのメダルである。
リベンジを果たした、のではなく、
ある選手が、よい結果を出したのだ。
そういう、混じり気のない価値観。
結果はただの結果だと冷めているわけではない。
実際、昨日も書いたフィギュア団体の
佐藤駿選手の涙の場面で、
ぼくは思いっきりもらい泣きして
ぐしゃぐしゃになったりしている。
しかし、そういったウェットな場面さえ、
今回のミラノ・コルティナオリンピックでは
のびのびとたのしめているような気がする。
それがなぜかとじっくり考えてみると、
どうやらぼく個人の気持ちのありようのみに
根ざすものではないみたいだ。
その軽さは、活躍している選手たちや、
スポーツそのものから受け取っている気がする。
たとえば、男子フィギュアのエース、
鍵山優真選手はショートの演技のあとで、
こんなふうにコメントしている。
「たのしかったです。
コーチである父親からも
『たのしんでやっておいで』と言われたので、
まあ、トリプルアクセルの失敗に関しては
くやしい部分もありますけど、
それ以外にプラスにとらえられる部分が大きかったので、
オリンピックという舞台で、団体に引き続き、
100点を超えられたということは収穫になりましたし、
フリーにもつながると思います」
ライバルであるアメリカのマリニン選手が
ノーミスで高得点をあげた一方で、
鍵山選手はトリプルアクセルでミスをした。
けれども、彼の表情は晴れやかだったし、
両者の得点差もじつは5ポイントほどしかない。
深刻に落ち込むより、
そうやって切り替えるほうがいいのだ。
これまでのオリンピックでも、
「たのしんでやりたい」と言った選手は何人もいた。
しかし、それは緊張の裏返しだったり、
ある種の開き直りに近かったりしたと思う。
おそらく、鍵山選手の言う「たのしんでやりたい」は、
開き直りでも思い出づくりでも精神論でもない。
たのしんでやることが、
勝つことにつながるからこそ、
コーチであるお父さんも口にし、
鍵山選手もテーマにしているのだと思う。
かつて、古い価値観にしばられたオリンピックでは、
「たのしんでやりたい」と口にしただけで、
メディアやファンから批判されたりしたこともある。
けれどいまは、観ているファンも選手に向かって
「たのしんで!」と声をかけている。
そういった健全な軽さに、
今回のミラノ・コルティナオリンピックは
包まれているような気がする。
その理由がなにかというと、
まっとうな世代交代が進んだからではないかとぼくは思う。
それは、若い選手が活躍しているというだけではない。
コーチや、運営や、メディアや、ファンといった、
スポーツをとりまく全体が世代交代したからではないか。
補助線を引いて考えてみる。
2年前のパリオリンピックを観ていたとき、
ぼくはこの軽さを感じただろうか。
いや、そこにこの新しい感覚はなかった。
あくまでも個人の感覚なので証明が難しいが、
パリオリンピックのさまざまな競技は、
なにかを乗り越えながら観るものだったと思う。
それではこの2年のあいだに
世代交代が進んだのかというとそうではなくて、
冬季のオリンピックは「新しい競技」が多いのだ。
たとえば全競技のなかでけっこうな割合を占める
スノーボードをつかう競技は、カーリングとともに
1998年の長野オリンピックから加わったものである。
新しい競技には新しい選手だけでなく
新しいルールや新しい価値観があり、
用語や伝え方も含めて、
競技とファンのあいだに新しい関係をつくる。
その意味でいえば、パリオリンピックで
新しく加わったブレイキンを観るときは、
ほかの伝統的な種目にない軽やかさがあったと思う。
もっと有り体にいえば、
昭和の価値観からスポーツは
どんどん解放されるべきだと思う。
ありゃ、曖昧にはじめた文章が
こんな意見にたどり着くなんて思わなかったな。
でも、つねづねぼくはそう思ってる。
古いスポーツであればあるほど、
それを取り巻くものをリフレッシュしていかなければ、
選手も観客もいなくなってしまう。
ぼくの大好きな野球なんかも、
古い取り巻きからさっさと解放されたほうがいい。
そして昭和生まれのぼくも、
スポーツに迷惑をかけないように
凝り固まらないように気をつけなければ。
けっこう、真剣にぼくはそう思ってるんですよ。
だって、スポーツをずっとたのしみたいですから。
だから、古いスポーツもあたらしくあれ。
古いスポーツファンもあたらしくいよう。
不思議に大きな結論を導いたところで
本日の原稿を終わります。

(つづきます)

2026-02-11-WED

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