美術館や博物館の所蔵作品や
常設展示を観に行く連載・第2弾は
東京都現代美術館です。
今回は、おもに明治の終わりから
1950年代にいたる
日本人作家の美術の作品を、
たっぷりとご案内いただきました。
知らない作家が、たくさん‥‥!
近・現代の日本美術の「厚み」を
とくと味わって、
美術へのワクワクが深まりました。
社会情勢や美術・美術館の歴史を
しっかり押さえつつ、
作品の解説をしてくださったのは、
学芸員の水田有子さん。
担当は、ほぼ日奥野です。どうぞ!

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第2回 日本の美術史の、はじまり。

水田
こちらが、横山大観の作品です。
──
おお、日本画と言えばの。

横山大観《帰牧図》1902-03年 横山大観《帰牧図》1902-03年

水田
山本鼎(かなえ)の版画なども。
創作版画を創始した人と言われています。

山本鼎《ブルターニュ小湾》1912年 山本鼎《ブルターニュ小湾》1912年

──
創作版画?
水田
はい。「自画自刻自摺」、
つまり一人の作家が描いて彫って刷る、
そのように制作された、近代版画の運動です。
たとえば浮世絵は、
絵師・彫師・摺師による分業制でした。
でも、創作版画の作家たちは、
すべての工程にかかわり、
自己表現としての版画を展開していったのです。
──
なるほど。
水田
このあたりは、
都美術館の新館以降に収蔵されました。
収集が本格化し、
いま見た版画や日本画なども含め、
コレクションがどんどん多様化していきます。
──
たしかに20世紀に入ってくると、
一気にいろんなテイストの絵が、
描かれるようになったようですね。
技法も含め、
時代が下るにしたがって、いろいろと。
水田
こちらの牧野虎雄は、
東京都現代美術館の所蔵作家のなかでも
特筆すべき存在です。

牧野虎雄《漁村》1912年 牧野虎雄《漁村》1912年

──
牧野虎雄さん‥‥存じ上げませんでした。
水田
東京都美術館の旧館時代、
1968年に収蔵された作品なのですが、
牧野自身は、
終戦直後の1946年に亡くなっていて。
──
ええ。
水田
そのあと、友人の画家・木村荘八をはじめ
仲間の有志が、
牧野の遺作をまとめて保管する場所を、
当時の都立駒場高校につくったんですね。
そして、ながらく
学校教育の場面などで活用されていましたが、
保存上の面や、
より広く人々に公開していこうということで、
1968年に東京都美術館に移管されました。
──
じゃ、この方の作品は、けっこう網羅して。
水田
そうなんです。
初期から晩年まで、
画業を網羅して収蔵された、最初の作家です。
──
風景画を多く描かれた方なんですか。
水田
そうですね。
自宅の庭や植物を描いた絵などを
たくさん手がけています。
東京都美術館の新館がオープンして
最初に個展が開催されたのも、この牧野です。
──
それほどまでの重要な作家さんのことを、
すみません、
ぜんぜん知らなかったのですが、
ご存命のころから、有名だったんですか。
水田
文展という政府主催の官展には、
長く出品していた作家です。
決して有名というわけではないけれど、
埋もれていた画家でもありません。
──
そうですか‥‥知れてよかったです。
水田
ちなみにこちらは、
東京都美術館のご協力で紹介している
「コレクションを巻き戻す」の
関連資料ですが、
1972年、
東京都美術館の旧館のころの展示風景。
いま見ていただいた牧野の作品が、ここに‥‥。

──
あっ、ほんとだ! すごい‥‥というか、
ついさっき見た絵が、
何十年も昔の、
別の美術館の写真に写り込んでいるって、
時を超えるような気持ちです。
水田
これは1972年、1フロアをすべて使って
旧館で大規模に開かれた、
所蔵作品展のひとこまです。
旧館時代は所蔵品が多くなかったので、
ふだんは「佐藤記念室」という、
1953年に開室したちいさな部屋で、
コレクションを展示していました。
──
佐藤さん‥‥というのは、どちらの。
水田
はい、東京府美術館ができるときまで
話はさかのぼりますが、
当時、博覧会はあっても仮設の建物で、
恒久的な展示の施設は、まだありませんでした。
そこで、美術家をはじめとして、
日本にも美術館が必要だという建設運動が、
徐々に、高まりつつあったんです。
──
西洋に渡って美術を学んだ人たち、
そこで最新の美術や
伝統ある美術館に接してきた人たちが、
続々と帰国してきた時代ですものね。
水田
でも、そのためには
莫大な資金が必要ですよね。
そうしたとき、九州で石炭商を営んでいた
実業家・佐藤慶太郎が、
たまたま東京に仕事で来ていて、
心ある人たちが
寄付金を募って美術館を建てようと
呼びかけている新聞記事を
読んだそうなんですね。
──
ええ。
水田
ならば、このわたしが、
資金を出しましょうと。
──
気前がいい!
水田
100万円を寄付したんです。東京都に。
──
すごいです。九州の人なのに?
水田
はい。当時の「100万円」という額は、
今でいうと「30億円」くらい。
その寄付のおかげで、
東京府美術館が誕生したんです。
日本で最初の公立美術館でした。
──
つまり、その佐藤慶太郎さんを記念して。
水田
佐藤記念室が、つくられました。
──
いろいろ「うわー」と思いますが、
新聞で読んだっていうのもすごいですね。
水田
時事新報の記事だったようです。
──
そうやって、メディアの影響力も、
これから、どんどん高まっていく時代で。
水田
東京都美術館では、
2012年のリニューアルオープンのとき、
「佐藤慶太郎記念 アートラウンジ」
というスペースを新たにつくりました。
朝倉文夫による佐藤慶太郎像の彫刻を置き、
改めてその功績をたたえています。

朝倉文夫《佐藤慶太郎像》1926年(写真提供:東京都美術館)撮影:齋藤さだむ 朝倉文夫《佐藤慶太郎像》1926年(写真提供:東京都美術館)撮影:齋藤さだむ

──
知らなかったです。佐藤さん。
知らないことばっかりだなあ。
美術に造詣の深い人だったんでしょうか。
水田
そういうわけじゃなかったそうなんです。
──
え、じゃあ、心意気で。30億円以上も。
水田
カーネギーホールを造った
アンドリュー・カーネギーさんっていますよね。
アメリカの実業家で「鋼鉄王」の。
あの方を尊敬していたそうなんです。
なので、もともと大金持ちで、
財産のほんの一部を寄付したというわけでなく、
自分の持っているお金のうち、
かなりの部分を、寄付されたそうですね。
──
たまたま読んだ新聞記事が、きっかけで。
ちょっと真似できないですね‥‥。
水田
本当に。
──
そのおかげで東京府美術館が建設されて、
のちに東京都美術館となり、
その収蔵作品を持ってくるかたちで、
ここ東京都現代美術館もできたわけだし。
水田
素晴らしいですよね。
──
日本で最初の美術館というか博物館って、
上野の東京国立博物館じゃないですか。
水田
そうですね。
──
でも、東博ができる前にも、
日本にも「美術」はあったわけですよね。
それって「どこにあった」んですか。
水田
仏像や障壁画など、お寺にあったものや、
権力者が力を誇示するために
狩野派の絵師に描かせたものは
お城や大名家など、
それぞれの文脈の中に、
存在していたと思うんですけれど。
──
一方で、浮世絵とかは気軽に売買されて、
「うやうやしく展示する」
みたいなことにもなっていなかった、と。
現代から見れば芸術ですし、
モネやゴッホも影響を受けたほどですが。
水田
とても身近なものでしたよね。
──
じゃあ、日本の美術史みたいなものは、
体系的には、誰も知らなかった?
水田
そうですね、
近代国家が成立していくなかで、
「日本美術史」というものも
かたちづくられていったようです。
──
それまでは、縄文の火焔式土器も、
埴輪とか土偶も、
運慶快慶も、永徳の洛中洛外図屏風も、
学問的に体系化されたり、
位置づけられたりすることもなく、
歴史のなかに、ゆらゆら佇んでいたと。
水田
東京府美術館でも、設立の翌年ですが、
1927年に、
東京朝日新聞社の主催で、
「明治大正名作展覧会」が開かれます。
──
へえ‥‥また新聞社。
水田
そうしたことも、
人々が、日本美術を振り返る視点や
美術史的な視座を持つきっかけと
なりますよね。
──
学問的な日本美術史が生まれたのも、
そんなに昔ではないってことですね。
水田
そうですね。
──
はあ‥‥つい最近になってから、
それ以前の何百年とかの美術の歴史を
どんどん知っていくのって‥‥
おもしろかったでしょうね、その勉強。
水田
今も、そうかもしれないですね。

2021-02-09-TUE

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  • ※新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、
    この記事で取材している
    「MOTコレクション 第2期
     コレクションを巻き戻す」
    は当面の間、臨時休室しています。

    また、次会期、3月20日(土・祝)~6月20日(日)
    開催予定の「MOTコレクション」は、
    一部のみ展示替えし、
    引き続き「コレクションを巻き戻す」を継続します

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