美術館や博物館の所蔵作品や
常設展示を観に行く連載・第2弾は
東京都現代美術館です。
今回は、おもに明治の終わりから
1950年代にいたる
日本人作家の美術の作品を、
たっぷりとご案内いただきました。
知らない作家が、たくさん‥‥!
近・現代の日本美術の「厚み」を
とくと味わって、
美術へのワクワクが深まりました。
社会情勢や美術・美術館の歴史を
しっかり押さえつつ、
作品の解説をしてくださったのは、
学芸員の水田有子さん。
担当は、ほぼ日奥野です。どうぞ!

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第3回 驚愕の武者小路実篤コレクション。

水田
ここまで美術の流れを
年代順にたどってまいりましたが、
ここで特別コーナー的に
紹介しているのが、
武者小路実篤のコレクションです。
──
あ、岸田劉生。

岸田劉生《武者小路実篤像》1914 岸田劉生《武者小路実篤像》1914

水田
はい。
──
岸田劉生の『美の本体』という本の序で
武者小路さんが文章を書いてましたが、
そうか、雑誌の『白樺』の人ですもんね。
水田
そうなんです。
雑誌『白樺』の創刊は1910年のこと。
武者小路実篤や志賀直哉が中心となって
つくられた文芸・美術誌ですね。
ポスト印象派‥‥
ゴッホやセザンヌも紹介されていました。
──
ゴッホが亡くなったのが1890年で、
セザンヌも1900年代の初頭ですから、
わりとタイムラグなく、
彼らの画業を日本に紹介してたんですね。
水田
はい、美術家や作家などが、雑誌を手に、
西洋の最新の美術に衝撃を受けていた。
岸田劉生も、その中の一人だったんです。
──
なるほど‥‥。
水田
この場に展示されているコレクションは、
武者小路実篤が旧蔵していた作品。
東京都美術館の新館ができてまもなく、
武者小路が亡くなり、
ご遺族から寄贈いただき、
こうしてまとまった収蔵になっています。
──
ええ。
水田
レンブラントとか‥‥。
──
レンブラント!?
え、え、え、そんな偉大な芸術家の作品を
持ってたんですか、武者小路さん‥‥!
水田
はい(笑)。

レンブラント・ファン・レイン《イサクを愛撫するアブラハム》1637年 レンブラント・ファン・レイン《イサクを愛撫するアブラハム》1637年

──
あの巨大な絵《夜警》の人ですよね。
ひょんなことから、
ギャグ漫画家の和田ラヂヲ先生と一緒に
アムステルダムで見ましたが‥‥。
水田
そのレンブラントです。マネもここに。
──
マネ! 印象派の面々のアニキみたいな。
《オランピア》とか《草上の昼食》とかの。
はああ‥‥すごい。
そういう絵、どうやって手に入れたのか。
水田
すべての入手の経緯はわからないのですが、
このピカソは本人にもらったようです。
──
もう笑うしかないですね(笑)。
ピカソにもらったって‥‥くれるのかあ。
水田
1936年、ベルリンオリンピックの年。
武者小路実篤は、
その年に生涯で一度だけ渡欧したんです。
日本の新聞に、
オリンピックの観戦記事を送るという
仕事のために。
──
ええ。
水田
でも、ご本人のいちばんの目的としては、
ひろく西洋美術にふれ、
さまざまな美術館を訪問することでした。
その旅のさなかで、ピカソ本人に会って。
──
もらった。
水田
はい(笑)。
──
どうやってもらったんだろう(笑)。
水田
わからないです(笑)。
ここにピカソのサイン、
「11月1日、パリ」と書かれています。
もらったときは
このように額装されている状態ではなく。
──
え、まさか「ペラいち」みたいな状態?
水田
本人が、くるくる丸めて、
船で持って帰ってきたようですよ。
──
いまは海外から絵を一枚持ってくるのに、
いろんなことを厳重にして、
保険もかけて、
何百万円もかけていると思うんですけど。
すごい話だなあ。「丸めて」って(笑)。
水田
なんとか無事に持って帰らなければ‥‥
という感じだったそうです。
──
ひゃー‥‥1936年って、
すでにピカソは大家だったですよね。
水田
そうですね。
こちらは、マティスです。

アンリ・マティス《椅子にすわり物思う裸婦》1906 アンリ・マティス《椅子にすわり物思う裸婦》1906

──
はああ‥‥マティス。色彩の、野獣の。
水田
武者小路実篤コレクションを見ると、
そうした時代の錚々たる画家たちとの
交流であったり、
当時の武者小路本人の関心がわかって
おもしろいんです。
──
でもたしかに、ご本人が亡くなったら、
これだけの作品を
残されたご家族が維持管理することも、
大変ですよね。
プレッシャーが半端ないと思いますし。
こんなのが、おうちにあったら。
水田
晩年、住んでいたところは、
武者小路実篤記念館になっていて、
邸宅も公開されています。
遺品のうち、東京都美術館には、
これらの美術作品と、
そこに少し展示しているんですけど、
美術関係の蔵書を寄贈してくださったんです。
──
なるほど‥‥。
水田
ちょうど新館ができて少し経ったころ、
美術図書室という、
初の本格的な
美術の公開制図書室もできたので。
──
あ、この複製は、
燃えちゃった《ひまわり》ですね。
大阪の芦屋の実業家の家にあったけど、
第二次大戦の空襲で消失してしまった。

水田
そうです、そうです。
当時『白樺』の展覧会が開催されて、
そこで展示されていたそうなんですね。
──
背景の青い《ひまわり》ですよね。
他の《ひまわり》とは、一枚だけ感じのちがう。
水田
こちらにはロダンの資料がありますが、
本人にお手紙を書いて、
自分たち『白樺』同人の思いを伝えたところ、
ちいさな作品ですけど、
ロダンが彫刻を送り返してくれたとか‥‥。
──
武者小路さん、すごい人だなあ!
みんな知ってることかもしれないですが、
とんでもない方なんですね。
ピカソを丸めて、ロダンに手紙。すごい。
水田
先へ進みましょう。
こちらにある大きい絵画とスケッチの作者は、
鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)です。
京都画壇の重要人物で、
当時、関東大震災が起こったとを聞いて、
すぐ東京にかけつけて、
ここにあるスケッチを描いたんですね。
──
まさに、その現場を描いているんですね。
すごい筆の力です‥‥。

鹿子木孟郎《大正12年9月1日》 鹿子木孟郎《大正12年9月1日》

水田
地震が起きて間もない時期に、
人々が避難している様子が描かれています。
──
報道写真のようなことですね、つまり。
水田
次のふたつの作品は、
東京府美術館に、
いちばんはじめに収蔵された作品ですけど。
──
最初の収蔵作品。誰の何という‥‥。
水田
藤岡鉄太郎(ふじおかかねたろう)の
《百日草の庭》という作品と、
鈴木昇一の《臨海学校》という作品なんです。

藤岡鉄太郎《百日草の庭》1926 藤岡鉄太郎《百日草の庭》1926

──
何か‥‥ふしぎな絵ですね。どっちも。
水田
じつはふたりが、どういう画家だったのかが、
わかっていないんですよね。
──
え、それは、いまでも?
水田
はい。生没年や、
どんな絵を描いていたのかも。
──
「富山県美術館が
最初に買った作品はミロだった‥‥」とか、
はじめて収蔵した作品って、
象徴的に語られたりしますけれども。
水田
東京府美術館では、
収蔵の経緯も、謎なんですよね‥‥。
──
おふたりの作品、これ以外には?
水田
ありません。
──
えっと、画家だったんですか‥‥ね?
そもそもですけど。
水田
鈴木の作品を修復したとき、
顔料の固着などもよく、
きちんとした技法に
通じていた人だったのではないか、
ということは、
修復家の方がお話なさっていたようなのですが。
──
はああ。誰か調べたりしないのかな。
知りたいですね、がぜん。
水田
もし、何か知っている方がいたら、
ぜひ、
教えていただきたいなあと思います。

鈴木昇一《臨海学校》1927 鈴木昇一《臨海学校》1927

2021-02-10-WED

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  • ※新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、
    この記事で取材している
    「MOTコレクション 第2期
     コレクションを巻き戻す」
    は当面の間、臨時休室しています。

    また、次会期、3月20日(土・祝)~6月20日(日)
    開催予定の「MOTコレクション」は、
    一部のみ展示替えし、
    引き続き「コレクションを巻き戻す」を継続します

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