小学5年生のころ、
転校先の学校で「ぶりっこ」といじめられていた。
声の高さ。喋り方。座り方。
それまでの私をつくってきたものを真正面から否定されて
当初はかなり傷ついていた。
そこで、
声をわざと低くしたり、
男言葉をしゃべってみたり、
座るときに足を広げてみたり……
行動を変えてみるけれど、
まだ「ぶりっこ」と言われてしまう。
次第に、私は笑顔で返すことを覚えた。
嫌われたくなかったし、争いたくなかったのだ。
すると、だんだんと、
傷ついた”私”の代わりに、別の”わたし”が傷ついている
という、不思議な感覚がうまれた。
“わたし”は、クラス全体を上から見て動いていた。
あの子はいじめグループにいるけれど、
ほんとうは嫌なのだろう。
この子は純粋に「キモい」と思ったから
「キモい」と言葉を口にしているのだろう。
そんな風に人を見ていたから、
“私”はどんな言葉にも傷つかなくなった。
交換ノート事件
“私”と”わたし”が混在する感覚に気づいたきっかけが、
当時流行っていた『交換ノート』。
今でいう、LINEのグループみたいなもので
Aちゃん・Bちゃん・Cちゃんとやるもの
Cちゃんを抜いて、Aちゃん・Bちゃん・Dちゃんとやるもの
Aちゃんと二人でやるもの
と、さまざまな組み合わせで行われていた。
多いときには10冊以上も掛け持ちし、
好きな人のこと、最近あった嬉しいニュースなどを綴る。
Aちゃんと二人でやるものには、
「二人だけの秘密だよ」
「Bちゃんがちょっと苦手」といったことが書かれることも多く、
Aちゃんは、私が加わっていないノートでは
私の悪口を書いているんだろうな、とぼんやり考えていた。
・・・
ある日、Aちゃん・Bちゃん・Cちゃん・私の順番でまわしていたノートに
「最近、きらいな人がいる」と書かれたものを
Cちゃんから渡された。
そこには、イニシャルだったり、特徴だったり
あからさまに私のことだとわかるような内容が
明るい色のペンで書かれていた。
自分自身でも驚いたのが、”私”は傷ついていなかったこと。
項目のしたには「どう思う?」と
Aちゃん・Bちゃん・私の吹き出しが描かれていて
意見を書くように、指示されていたけれど、
当たり障りのないことを書き、
何もなかったかのように振る舞えたのだ。
傷つかないわけでもない。
かといって、傷を負った感覚もない。
その不思議な感覚は、今でも残っている。
何が本当の私なんだろう
“私”と”わたし”はいつも側にいた。
悲しいと感じたり、大声で笑ったりする一方で、
いつもその状況を冷静に見ているような感覚。
「何が私なんだろう」。
だんだんと
感情のコントロールが難しくなったのは、この頃だ。
笑いながら涙が止まらなくなったり
悲しいと伝えたいのに怒りで表したり
感情と、表し方がちぐはぐになるような。
傷つかないから何をやっても平気だと信じられるときと、
自分の行動・言われたことを思い返してひっそりと泣くときと。
今も、そんな感覚を持っている。
(つづきます)