――みんみの昼はせわしない。
お気に入りの公園につく。
自転車を飛びおりて、すべりだいにダッシュする。
反動でおおきくゆれるママチャリを、ぬおっと押さえる。
「みんみ、いっちばぁ~~ん!!」
すでに何人かのお子さんが遊んでいるが、自信満々に宣言している。
並んで買ったチョコバナナを食べるときも「いちばん」。
お風呂で父親に湯をかけまくるときも「いちばん」。
娘にとって「いちばん」とは、
「やりたいことが叶った」の意味であるらしい。
ことばの理解が中途半端な時期、ならではの発言だ。
他人との比較や、なにかの序列で価値を決めない。
じぶんの気持ちが嬉しいければ、ぜんぶ「いちばん」。
大きな笑顔でそう言いきる娘が、私は誇らしかった。
幼児の思考は、ぬお~っと舌を巻く視点にあふれている。
「ママァ~!おみじゅくださいなぁ~!」
お砂場あそびに移行した娘が、水分補給を求めてくる。
水筒にいれてきた水を、手わたしてやる。
「どーぞ、みんちゃん。あけてみる?」
コップタイプの水筒を、まだひとりで開けられないことは知っている。
さきにこちらが開けてしまうと、
「じぶんでやりたかったぁ~!!あああ!」と叫び、
この世の終わりのように砂場を転がりまわることが予想できる。
なので、いったんそのままわたすのだ。
2歳の小さな脳みそ。
いまは、「イヤイヤ期」と「じぶんでやりたい期」が同時に来客している。
厄介なお客の接待に、たえず追われて大忙しだ。
そりゃあ、わずかなきっかけで、激しいパニックが起きてしまう。
そんな娘とすごす日々は、広大な地雷原を踏みしめる行為に等しい。
なるべく平和であるように、そろりそろりと母はすすむ。
「あ、できた!みんみ、じぶんであけれた~♪」
しばらく格闘したのち、うまいこと水筒があいたようだ。
はじめてできた達成感に、おしりをフリフリ踊っている。
「おお~みんちゃんすごいねぇ~!なんでもできるようになるねぇ~!」
いえいいえいいえ~~!と跳ねながら、
水筒いりのミネラルウォーターを、盛大に砂場にまく。
バシャア~。
乾いた砂たちが、まいどどうもね、と一瞬で飲み干していく。
ぬおおお!!とおもい、すかさずツッコむ。
「ちょ、みんちゃん!これ、飲むお水だったんだけど!
お砂場あそびのお水は、いつも水道から持ってくるでしょ!」
気まずいのか、1メートルくらい先の地面をみつめて、フリーズする娘。
しばし思考したのち、眉をおおげさに八の字にし、くちをすぼめる。
「…みんみ、まだちいさいだから、わかんなかったの…。
ママ、おみじゅ、もっかい。」
はなしかたも表情も声色も、めちゃくちゃわざとらしい。
なんとちょこざいな…!ぬぬ…!
朝は「もう大きいからできる」と得意になって言ったくせに。
都合が悪くなると、「まだ小さいから」を免罪符にする。
これは娘が身につけた、最新のいいわけテクニックだった。
はぁ~~と脱力する。
5秒前までニコニコほめていたのに、注意したと思ったら、この疲労感…。
「母親業」のしんどさは、この感情のふり幅にもありそうだ。
横目で娘をチラチラみながら、ちかくの自動販売機で、新しい水を買う。
ペットボトルを手にもどれば、あそびに夢中だ。
当然、「いまいらにゃい」なんて言われる。
ぬお~~!
あ~もう、はいはい、と諦めて、冷たい石に腰をおろす。

目に入ったのは、小ぶりな砂の山だ。台形で、3つ並んでいる。
ちょうどお子様ランチのチキンライスのようなかたち。
プリンのカップかなにかに、砂をつめてつくったのだろう。
上手にできているので、ほめてやろうとした瞬間。
娘の手に、砂まみれの水筒のコップが握られていることに気づく。
ぬおーー!!お砂場グッズを大量にもってきてるのにぃー!
よりによって、水筒のフタ部分で遊んでるぅー!!
昼下がりの公園。
やわらかな日差しをあびて、私は白目になっていた。
この90センチ程度の生き物の、「いま」しかない生き方に絶句する。
のどが渇けば水を要求し、嬉しくなったら忘れて、まいちゃう。
やっぱり欲しいからまた要求して、楽しいことができたら、またケロリ。
無敵だ。
とても敵わないな、と遠い目をする。
私たち大人は、「いま」が「みらい」に直結していることを知っている。
「かこ」からの、延長であることも。
水筒はまた水を入れるのだから、砂なんかつけたくない。
明日は雨で洗濯ものが乾かないから、クツは汚さないでほしい。
2000円もしたお砂場道具は、たくさん遊んでくれなきゃ元がとれない。
大人の思考は、いちいち筋が通って、もっともだ。
そしてなんと、こりかたまって、窮屈なことだろう。
娘が感じているのは、忠実なのは、「いま」この瞬間のワクワクなのだ。
過去と未来で引き算をして、帳尻あわせなんかしない。
まっすぐで、正直で、そのままだから、こんなに強く光っている。
「ママァ~!!みてぇ~!ぺしゃんこよぉ~!!」
5つ並べた砂のお山を、怪獣のように踏みつぶしていく。
どうせ崩すなら、なぜつくったのか。
いや、いけない。
つくったときはつくりたかったし、いまは踏んでみたいのだろう。
それだけのことだ。
「なにか理由があってほしい」は大人側のエゴなのだ。
それを忘れず見守ることが、親の役割なのかもしれない。
ぬおーっと白目になりながら。
嬉々として、キャーキャー笑って砂山をつぶす娘をみる。
楽しい時、「みてみて!」とよぶ相手が、私であることがくすぐったい。
大人とすごす時間はラクだが、こどものそれは、発見に満ちている。
こどもが生きる「いま」の意味は、大人の物差しではかれない。
グッタリな日もあるけれど、だいじに重ねていきたいものだ。
泥んこの小さなクツに、ひそかに誓う。
公園から帰るとき。
ついうっかり、自転車のカギを無意識にまわしてしまった。
途端に、「みんみがやりたかったぁ~!!」と鮮魚のごとくバタつく娘。
ああ、やってしまった、ここは地雷原だと忘れていた…!
歩いてくれたらミカンをあげるとなだめても、いっこうに機嫌が直らない。
仕方なく、ラグビーボールのように抱えて連れ帰る。ぬおー!
そのくせ、家でミカンをみると、「ミカンたべるー!いえーい!」と跳る。
歩かなかったからあげないよ、なんて諭しても、
目の前にミカンがある「いま」にしか興味がないので通じない。
理不尽で、パワフルで、せわしないこと、この上ない。
黄色い果実を、大事そうにくちにほおばる。
「ママにはんぶん、あげんのー。」とかわいくほほ笑む。
一番小さい1粒だけを、きっちり選んでよこしてくれる。
ちょっとでもあげたら、半分こ。
いいよ、このエネルギッシュな「いま」があれば、それだけで。
みんちゃん、「いま」のキミが、ママはほんとに大好きだよ。
