――みんみの朝は早い。
「ママァ、ごはんでしゅよー。」
ゴム製ホットケーキが、遠慮なく顔面にめりこむ感触で目が覚めた。
AM5:30。はやい。無情に、はやい。
「みんちゃん、ママもう少し寝てた、い、にゃっ」
語尾の発音がヘンテコなのは、娘の幼児言葉をマネたからではない。
さきほどのホットケーキが、口内に侵入してきたからだ。
私の訴えを、のどへと押しもどすように。
「ママっ!ごはんでしゅよ!おきてぇ~!!」
寝ていたいのはやまやまだが、
さらに興奮してワーワーいわれるのもまたツライ。
布団に未練を横たえながら、あきらかに20代より重くなった体を起こす。
「あしゃだーおきがえちよー。」
洋服の引き出しをのぞきこむ娘。
「みんみ、なにきよっかなー?」
大きなひとりごとを言う。
いっちょ前に立てた人差し指をあごにあてがい、くびをかしげる。
年ごろのお嬢さんのようなしぐさと、
おまんじゅう型のこぶしからでた短い指が、なんともアンマッチだ。
ふふっと眉を下げてわらってしまう。
すこし前まで、娘の朝は”伸び”からはじまっていた。
小さな身体が眠りをおえても、目をあけるまでに間があったのだ。
赤ちゃんのなごりがあったシルエット。
ギュッと瞼をとじたまま、口をふにふに~と左右にゆらす。
両腕をせいいっぱい、頭上にのばす、のばす。
足までピーンとはりつめて、一直線になっていく。
動物のコドモのような無防備さがかわいい。
ほほえましくて、毎日ながめていた。
立っているときより、ずいぶん大きく見える姿。
こんなに長くなってまぁ~と、あきることなく感心した。
この世の憂いを、まだ知りもしない細胞たち。
朝日が差さない部屋で、まぶしげにゆがんだ瞳。
うまれたばかりの新しい一日を、感じとっていたのだろうか。
こんなに詳細に覚えている、娘の朝のルーティーン。
しかし、「最後の日」はいつだったか。
はっきりと、思い出すことができない。
「すこし前」とは、何月何日のことだったのか。
気が付けば、
伸びをせずに起床するのが常になり、じぶんで着替えができている。
「ごはんよ」と差し出すオモチャも、リモコンでなく、ちゃんと食べ物だ。
もう実体はない、「かこ」の娘が、朝の空気にチラチラみえる。
抱き上げて座らせていた食卓イスにも、意志をもってよじのぼる。
嫌がられつつ、まくりあげていた長そでを、
「みんみ、まくまくすんのぉ~」とすすんで肘までつめる。
かつては2~3センチ程度に切ってあたえていたうどん。
大人とかわらず、長いままにちゅるるっと吸う。
いつの間に、こんなに成長したのだろう。
生まれてからずっと、24時間離れていたことなど、ないはずなのに。
その進化の過程を、達成の瞬間を、つくづく思い出すことができない。
「…みんちゃん、おうどん食べるの、じょうずね。
まえは、お手々でつかんで、食べてたのよ。」
「もう、みんみ、おおきいだからぁ、できんの!」
あ、泣いてしまう。
朝食のうどんごときに、なにをノスタルジーになっているのか。
だけど言葉にしてみたその瞬間に、
おでこまで短いうどんを散らばしていた赤ん坊が、記憶の中から蘇る。
きちんと背筋を伸ばして箸をつかう、現在の娘のよこに、
ちょこんと腰かけ、こちらにほほえむ。
「ごっしゃまでした!さ、こーえん、いこかぁ~。」
食べ終えるやいなや、勝手に予定を決めてくる。
またしても、ふふっとなる。
くちについた、牛乳ヒゲがそのままだ。

いまの娘ができることは、過去の娘が、できなかったことなのだ。
すっきり起床も、食事の自立も、おしゃべりも。
すべて、過去の私が「はやくできるようになって」と願ったものたちだ。
過ぎ去ってからやっと、「まだできなかった時間」の価値を、おもいしる。
赤ん坊だったころは、いちいち尊んで、感激している余裕などなかった。
ちょっと目を離したら、簡単に命すらなくしてしまいそうな頼りなさ。
つねに神経をすり減らしていた。
だからいま、娘の何気ない行動に、
フラッシュバックする過去の娘が、愛おしい。
もっとぽちゃぽちゃしていた全身も
本能に忠実だった思考回路も
なんでも親任せだった生活も。
やっと全部、抱きしめられる。
「ママ!はやくぅー!みんみ、もういっちゃうよぉー!!」
玄関に、走ってむかう後ろ姿。
くつ下の柄が、しっかりそろっている。
以前はしょっちゅう、左右あべこべにはいていたのだ。
しかしながら、
かかと部分が、両方とも足の甲にきてしまっていることに気づく。
いつの日か、「いま」の姿が「かこ」になり、
くつ下をはき間違えることなんてなくなったとき。
きっと私は、この光景を思い出す。
なんとつたなく、可愛かったことでしょう。
ふふっと笑い、涙する。
しかしまだ、その日はしばらく先そうだ。
慌てて手を伸ばし、トコトコ走る娘を追いかける。
「ちょっとみんちゃん!くつ下がさかさまよ!ちゃんとみてぇ~!!」
みんちゃん、「かこ」のキミが、ママはとっても、大好きだよ。
