もくじ
第1回一本の電話から。 2017-05-16-Tue
第2回神社ってなんですか、先生? 2017-05-16-Tue
第3回持って生まれたフィーリング 2017-05-16-Tue
第4回秘めている感情 2017-05-16-Tue
第5回言葉にするって。 2017-05-16-Tue

ここ3年ほど、毎日飽きずにバタートーストに魅了されています。日本に住んで3年、どうやらそのことに関係があるらしい。ロサンゼルスから来ました。よろしくお願いします。

言葉にできるまで。

言葉にできるまで。

担当・ユウキ

第2回 神社ってなんですか、先生?

10分後、私たちは近くのレストランで
どちらからともなく話し始めていた。

運ばれてきた料理をいただきながら、
「(釜飯の)おこげが美味しいねー!
あ、おこげが美味しいねって録音されちゃうね」
と先生は笑ってテーブルのスマホを指差した。

そして、歌うような声でたくさん話してくれた。
そこには私の知らない由理子先生がいた。

***

ユウキ
(以下、ユ)あの頃の私は、どういう子だったのでしょうか…。
由理子
(以下、由)もうぅぅぅぅ、ものすごーく静かで、
喋らせるのが大変だったのよ〜!
そんなに、ですか?(笑)
そうよぉ〜。
とにかく物事をじっくり考える子だった。
表現はしないんだけれど、いろんなことを考えてる。
みんなで廊下を歩いている時も、
他の子たちが私の手をはなした隙に、
黙って後ろについてきていたユウキちゃんが
そうっと手をつないできたり。
わー(笑)
でも笑うと可愛いんだよーーー!にこーって。
(照)あの頃、生徒は何人ぐらいいたのでしょう?
各学年に10人ぐらいかな。
複式だったから、同じ教室に1年生と2年生がいて。
やっぱり駐在員の家の子が多かったんですか?
そう。
アメリカで数年過ごして、日本に帰る子たちが多かった。
例えば小3で帰国したら
日本の小学校3年にそのまま入れるように。
それを考えて授業していた。
 
みんな偉いなぁと思ったのは、
一日置きの授業で、それも複式で。
それでも、教科書を(日本と)同じペースで終わらせていたの。
へぇ。宿題が多かったのでしょうか?
そうよぉ、みんなよく頑張ってくれたなぁ。
小1の私は…まだ「日本の子供」だったのかな。
あまりよく覚えてないのですが…
そうね、そうだった。
ユウキちゃんはおうちでは何語を喋ってたの?
親は「日本語!」とうるさかったです。
なんとか日本語をキープさせようと。
そうなんだ。
家で何語を話すかが大きいね、やっぱりね。
はい。
それからですね、私のアメリカナイズが始まるのは(笑)。
小1の頃はまだ日本語が好きで、
というより、由理子先生が大好きで
日本語学校も楽しく通っていたのですが。
小4ぐらいから現地校が楽しくなってきて、
放課後はアメリカの友達と遊びたいし、
弟たちと話すのも英語になり、
親への猛反発が始まりました。
文化が違うものね。
日本とアメリカの教え方が全然違うでしょ。
はい。
アメリカンスクールではアメリカンになり、
日本語学校に行けば、日本風に作ってて。
どこに行っても人に好かれたいという気持ちと、
先生に褒められたいという気持ちが強くて、
悩まなくていいことまで
とりあえずひと通り悩んだと思います(笑)。
ユウキちゃん。
それはすごく大事なことだと思う。
そのね、日本人として生まれて、
突然アメリカに住むことになり(笑)。
はい(笑)。
似た環境の子の多くが感じる、
苦労する行程だと思う。
それはユウキちゃんの時代で終わったんじゃなくて
今でもそのように思う人はいるはず。
今でも。
そうよ。

由理子先生は、いつアメリカに渡ったのですか?
1981年。34歳のとき。
同じ時期だったんですね!
きっかけは…
日本語学校の先生が教師を探しに
日本にいらしていたの。
その方が私の母と知り合いでね、
「じゃあうちの娘たちどうですか?」って母が(笑)。
日本でも先生をされていたんですか?
日本ではね、看護師だったの。
知らなかった!
だからあんなに優しかった…納得です。
そんなことない、そんなことない。
あの頃の日本語補習校は、校長先生が資格を持ってたら
教師は持ってなくていいという時代だったの。
 
でもやっぱり教師として勉強もしていないのに
みんなに悪いなぁ、
教えていいのかなぁと思ってた。
他の先生方にもすごく教えてもらって。
ちょっとずつ慣れていったんだけど。
苦しいこともありましたか?
うん、やっぱり、なんだろう。
日本と同じ試験をしないといけなかったのね。
それで、クラスの点数が平均してよくないと、
あ〜、私の教え方が良くないんだって(笑)。
でも私たちは週2しか授業がなかったので…。
追いつくのが大変ですよね?
やっぱりかいつまんで教えるしかなかった。
もっと色々な例を挙げてわかりやすくしてあげたかったけど…
例えば、社会とか理科と言っても、全然違うじゃない?
気候も何も違うから、
教えられていることがわからないのよ、みんな。
ちんぷんかんぷんでした。
きゅうりが「夏の野菜」と言ったって、
ロスアンゼルスには一年中あるわけでしょう。
冬なのにお庭にひまわりが咲いていたりとか(笑)。
「うちわ」とか「すだれ」とか、
見たことがなくても覚えないといけないわけ、
試験するのに。
地図の神社のマークとか、
郵便局のマークとか教えてもらった時に
「神社って何ですか先生?」って。
そうそう(笑)
でもね。
教科書の日本語の勉強よりも、
私はやっぱり「文化の違い」を感じたのね。
というと?
日本での教え方はやっぱり
「減点法」だなと思ったの。
例えば、テストが100点満点として、
日本では「80点しか取れなかった」と言われる。
それがアメリカでは「80点も取ったの!
すごいねー!奇跡だねー」となる。
はい(笑)
それはペーパー上の話だけども、
私は「人間のこと」もそうだなと思ったのね。
例えば…子供にピアノを教えているときも。
日本人というのはそれなりの完全さを求めるのね。
子供にも。
そう。
「ここは四分音符だから
1、2、3、4つ延ばさなくちゃいけないよ」
「ここはソフトに弾かなくちゃいけないよ」
と、注意することが多いの。
はぁ。
ところがアメリカで、
私は息子にアコーディオンを習わせたの。
アメリカの先生に。
そう。教室に行ってびっくりしたんだけど、
先生が宝箱のようなものを持ってきてね。
ほら、海賊の宝箱のようなもの。
子供たちの目がもうキラッキラしてるの。
 
先生が「開けていいよー!」と言ったら
みんながわぁーっと集まって
ばっと箱を開けるわけじゃない?
そこにはトライアングルとか
タンブリンとかが入っていて、
「みんな好きなの持っていきなさーい!」って。
はい、はい(笑)。
がっちゃがっちゃがっちゃがっちゃ
みんな好きに音を立てるのよ(笑)。
でもね、先生がそれを喜んでさせるの。
間違える子だっているんだけども
「それはそれ!」なの。
まずは楽しませる。
確かに。
それから、ちゃんとステージがあるのよ。
先生は蝶ネクタイが付いている
燕尾服みたいなTシャツを着て(笑)。
ひとりひとりに舞台から自分の名前を言わせて。
そんな時からステージの勉強をさせるわけ。
あー、はい。
そして、演奏が始まる。
私から見たら、めちゃくちゃよぉ〜(笑)。
音は取れてない、リズムは取れてない、でも…
まぁ、褒める、褒める!
(笑)
“You did a good job!” って。
私は「なにそれー!」と思うわけさ(笑)。
もうそこからして全然違うのよ。
子供にとったらどっちが嬉しい?
もう一目瞭然じゃない。
うんうんうん。
ゆりこ先生の授業にも、
そういう要素が含まれていたのですか?
「楽しかった」という印象が残っています。
うーん…例えば、漢字一つにしても
はねるところははねる。
ここは間を開けるとか。
私は、字になっていればいいじゃない?と
思うこともあったけれど、
やっぱりそこはダメなのよね。
学校の教え方には従った。
日本のスタイルに。
そう。
私はね、教師そのものが新しい出来事だったでしょ?
子供たちが日本に帰った時に、
日本語で遅れを取らないで、
いじめられることがないようにしてあげたいと、
それはすごく思ってた。
 
でもね、ペーパー上の日本語は、
みんなやろうと思えばできると思うの。
悩むとしたら、やっぱり文化的なこと。
アメリカでは生徒だけでなく、先生側も評価されるのよね。
多いですね。
だから先生も一生懸命になる。
なんていうんだろう、
子供にとっては自由な環境なのよ。
 
でも、日本人の親の多くは
「そんな自由じゃダメですよ」と教える。
 
だからそこで育つ子供たちは、
ママの言うことと、
アメリカの学校で教わってくることが、なんか違う…
何が違うということはわからないんだけど、
まだ子供だから。
でも頭の中で…体かな。
両方で、なんか違うな、なんか違うな、というのが、
ずっとあるんじゃないかな、と思うの。
ありました…。

(つづきます)

第3回 持って生まれたフィーリング