10分後、私たちは近くのレストランで
どちらからともなく話し始めていた。
運ばれてきた料理をいただきながら、
「(釜飯の)おこげが美味しいねー!
あ、おこげが美味しいねって録音されちゃうね」
と先生は笑ってテーブルのスマホを指差した。
そして、歌うような声でたくさん話してくれた。
そこには私の知らない由理子先生がいた。
***
- ユウキ
- (以下、ユ)あの頃の私は、どういう子だったのでしょうか…。
- 由理子
-
(以下、由)もうぅぅぅぅ、ものすごーく静かで、
喋らせるのが大変だったのよ〜!
- ユ
- そんなに、ですか?(笑)
- 由
-
そうよぉ〜。
とにかく物事をじっくり考える子だった。
表現はしないんだけれど、いろんなことを考えてる。
みんなで廊下を歩いている時も、
他の子たちが私の手をはなした隙に、
黙って後ろについてきていたユウキちゃんが
そうっと手をつないできたり。
- ユ
- わー(笑)
- 由
- でも笑うと可愛いんだよーーー!にこーって。
- ユ
- (照)あの頃、生徒は何人ぐらいいたのでしょう?
- 由
-
各学年に10人ぐらいかな。
複式だったから、同じ教室に1年生と2年生がいて。
- ユ
- やっぱり駐在員の家の子が多かったんですか?
- 由
-
そう。
アメリカで数年過ごして、日本に帰る子たちが多かった。
例えば小3で帰国したら
日本の小学校3年にそのまま入れるように。
それを考えて授業していた。
みんな偉いなぁと思ったのは、
一日置きの授業で、それも複式で。
それでも、教科書を(日本と)同じペースで終わらせていたの。
- ユ
- へぇ。宿題が多かったのでしょうか?
- 由
- そうよぉ、みんなよく頑張ってくれたなぁ。
- ユ
-
小1の私は…まだ「日本の子供」だったのかな。
あまりよく覚えてないのですが…
- 由
-
そうね、そうだった。
ユウキちゃんはおうちでは何語を喋ってたの?
- ユ
-
親は「日本語!」とうるさかったです。
なんとか日本語をキープさせようと。
- 由
-
そうなんだ。
家で何語を話すかが大きいね、やっぱりね。
- ユ
-
はい。
それからですね、私のアメリカナイズが始まるのは(笑)。
小1の頃はまだ日本語が好きで、
というより、由理子先生が大好きで
日本語学校も楽しく通っていたのですが。
小4ぐらいから現地校が楽しくなってきて、
放課後はアメリカの友達と遊びたいし、
弟たちと話すのも英語になり、
親への猛反発が始まりました。
- 由
-
文化が違うものね。
日本とアメリカの教え方が全然違うでしょ。
- ユ
-
はい。
アメリカンスクールではアメリカンになり、
日本語学校に行けば、日本風に作ってて。
どこに行っても人に好かれたいという気持ちと、
先生に褒められたいという気持ちが強くて、
悩まなくていいことまで
とりあえずひと通り悩んだと思います(笑)。
- 由
-
ユウキちゃん。
それはすごく大事なことだと思う。
そのね、日本人として生まれて、
突然アメリカに住むことになり(笑)。
- ユ
- はい(笑)。
- 由
-
似た環境の子の多くが感じる、
苦労する行程だと思う。
それはユウキちゃんの時代で終わったんじゃなくて
今でもそのように思う人はいるはず。
- ユ
- 今でも。
- 由
- そうよ。

- ユ
- 由理子先生は、いつアメリカに渡ったのですか?
- 由
- 1981年。34歳のとき。
- ユ
-
同じ時期だったんですね!
きっかけは…
- 由
-
日本語学校の先生が教師を探しに
日本にいらしていたの。
その方が私の母と知り合いでね、
「じゃあうちの娘たちどうですか?」って母が(笑)。
- ユ
- 日本でも先生をされていたんですか?
- 由
- 日本ではね、看護師だったの。
- ユ
-
知らなかった!
だからあんなに優しかった…納得です。
- 由
-
そんなことない、そんなことない。
あの頃の日本語補習校は、校長先生が資格を持ってたら
教師は持ってなくていいという時代だったの。
でもやっぱり教師として勉強もしていないのに
みんなに悪いなぁ、
教えていいのかなぁと思ってた。
他の先生方にもすごく教えてもらって。
ちょっとずつ慣れていったんだけど。
- ユ
- 苦しいこともありましたか?
- 由
-
うん、やっぱり、なんだろう。
日本と同じ試験をしないといけなかったのね。
それで、クラスの点数が平均してよくないと、
あ〜、私の教え方が良くないんだって(笑)。
- ユ
-
でも私たちは週2しか授業がなかったので…。
追いつくのが大変ですよね?
- 由
-
やっぱりかいつまんで教えるしかなかった。
もっと色々な例を挙げてわかりやすくしてあげたかったけど…
例えば、社会とか理科と言っても、全然違うじゃない?
気候も何も違うから、
教えられていることがわからないのよ、みんな。
- ユ
- ちんぷんかんぷんでした。
- 由
-
きゅうりが「夏の野菜」と言ったって、
ロスアンゼルスには一年中あるわけでしょう。
冬なのにお庭にひまわりが咲いていたりとか(笑)。
「うちわ」とか「すだれ」とか、
見たことがなくても覚えないといけないわけ、
試験するのに。
- ユ
-
地図の神社のマークとか、
郵便局のマークとか教えてもらった時に
「神社って何ですか先生?」って。
- 由
-
そうそう(笑)
でもね。
教科書の日本語の勉強よりも、
私はやっぱり「文化の違い」を感じたのね。
- ユ
- というと?
- 由
-
日本での教え方はやっぱり
「減点法」だなと思ったの。
例えば、テストが100点満点として、
日本では「80点しか取れなかった」と言われる。
それがアメリカでは「80点も取ったの!
すごいねー!奇跡だねー」となる。
- ユ
- はい(笑)
- 由
-
それはペーパー上の話だけども、
私は「人間のこと」もそうだなと思ったのね。
例えば…子供にピアノを教えているときも。
日本人というのはそれなりの完全さを求めるのね。
- ユ
- 子供にも。
- 由
-
そう。
「ここは四分音符だから
1、2、3、4つ延ばさなくちゃいけないよ」
「ここはソフトに弾かなくちゃいけないよ」
と、注意することが多いの。
- ユ
- はぁ。
- 由
-
ところがアメリカで、
私は息子にアコーディオンを習わせたの。
- ユ
- アメリカの先生に。
- 由
-
そう。教室に行ってびっくりしたんだけど、
先生が宝箱のようなものを持ってきてね。
ほら、海賊の宝箱のようなもの。
子供たちの目がもうキラッキラしてるの。
先生が「開けていいよー!」と言ったら
みんながわぁーっと集まって
ばっと箱を開けるわけじゃない?
そこにはトライアングルとか
タンブリンとかが入っていて、
「みんな好きなの持っていきなさーい!」って。
- ユ
- はい、はい(笑)。
- 由
-
がっちゃがっちゃがっちゃがっちゃ
みんな好きに音を立てるのよ(笑)。
でもね、先生がそれを喜んでさせるの。
間違える子だっているんだけども
「それはそれ!」なの。
まずは楽しませる。
- ユ
- 確かに。
- 由
-
それから、ちゃんとステージがあるのよ。
先生は蝶ネクタイが付いている
燕尾服みたいなTシャツを着て(笑)。
ひとりひとりに舞台から自分の名前を言わせて。
そんな時からステージの勉強をさせるわけ。
- ユ
- あー、はい。
- 由
-
そして、演奏が始まる。
私から見たら、めちゃくちゃよぉ〜(笑)。
音は取れてない、リズムは取れてない、でも…
まぁ、褒める、褒める!
- ユ
- (笑)
- 由
-
“You did a good job!” って。
私は「なにそれー!」と思うわけさ(笑)。
もうそこからして全然違うのよ。
子供にとったらどっちが嬉しい?
もう一目瞭然じゃない。
- ユ
-
うんうんうん。
ゆりこ先生の授業にも、
そういう要素が含まれていたのですか?
「楽しかった」という印象が残っています。
- 由
-
うーん…例えば、漢字一つにしても
はねるところははねる。
ここは間を開けるとか。
私は、字になっていればいいじゃない?と
思うこともあったけれど、
やっぱりそこはダメなのよね。
学校の教え方には従った。
- ユ
- 日本のスタイルに。
- 由
-
そう。
私はね、教師そのものが新しい出来事だったでしょ?
子供たちが日本に帰った時に、
日本語で遅れを取らないで、
いじめられることがないようにしてあげたいと、
それはすごく思ってた。
でもね、ペーパー上の日本語は、
みんなやろうと思えばできると思うの。
悩むとしたら、やっぱり文化的なこと。
アメリカでは生徒だけでなく、先生側も評価されるのよね。
- ユ
- 多いですね。
- 由
-
だから先生も一生懸命になる。
なんていうんだろう、
子供にとっては自由な環境なのよ。
でも、日本人の親の多くは
「そんな自由じゃダメですよ」と教える。
だからそこで育つ子供たちは、
ママの言うことと、
アメリカの学校で教わってくることが、なんか違う…
何が違うということはわからないんだけど、
まだ子供だから。
でも頭の中で…体かな。
両方で、なんか違うな、なんか違うな、というのが、
ずっとあるんじゃないかな、と思うの。
- ユ
- ありました…。
(つづきます)