- ――
-
話はそれてしまいますが‥
長谷川会長は、
お父様がお亡くなりになる直前まで
王子製紙にいらしたんですよね。
- 長谷川氏
-
ええ。おやじが亡くなったのは、
昭和43年(1968年)の12月でした。
その11月までは、王子製紙にいました。
- 和子夫人
-
王子製紙の方から、嘱望されていたの。
でもね、この人ときどき言っていたんです、
「珈琲屋でもやろうかな」って。
- ――
-
後を継がれたのは、
やはり、お父様が築かれてきたから。
- 長谷川氏
-
王子製紙を辞めるとは
思っていなかったのですが。
まぁ、おやじが若い時から精魂傾けて、
戦前、戦後含めてやってきた珈琲業界から、
離れることはできなかったんでしょうね。
- 和子夫人
- そういうことだったのかしらね。
- 長谷川氏
- 基本的には。
- 和子夫人
-
私ね、結婚したときに父から、
「毎日珈琲は飲ませてやってください」
って言われましたので、毎日珈琲をたててね。
当時は、王子製紙の春日井工場の社宅に住んでいました。
お昼休みには、私の家が喫茶店みたいになって。
ときどきクッキーとかパイとか焼いていたら、
この店(喫茶店)をやったときに、うちの人が
「かみさんのお菓子の方がうまい」って言ってね。
私がお菓子を焼くことになったのよ。
今では、娘がケーキを作っているんです。
- ――
- 喫茶店のお菓子は、奥様が原型を作られたんですね。
- 和子夫人
-
そう、王子製紙の春日井工場の社宅が最初でした。
‥あそこでね、金網越しにあなたがね、
「おーいおーい」って叫ぶのよ。
一番工場に近い場所の社宅に住んでいたものですから。
「今日は遅くなるぞ」とか言ってね。
今の携帯の世の中では、
考えられないと思うけれど。
- ――
- それはいつ頃のことですか。
- 和子夫人
-
1958年ぐらいのことかしら。
もう、屋根があるならお嫁にいくような
時代だったわよね。
社宅には、本当にいろんな人が住んでいて、
面白かった。
‥関係ない話ばかりでごめんなさいね。
時折、二人の笑い声が優しく重なっていました。
懐かしそうに、思い出話しをしてくださったご夫婦。
長谷川会長のご両親と、
又さん夫婦は、
ご近所のお話し相手だったそうです。
「そういう時代もあった」
と、長谷川会長ご夫婦のことについても
話してくださったお二人。
そんな時代のご夫婦の歩みを、
又さん夫婦にも重ね合わせてみながら、
カフェーパウリスタを後にしました。
気付くと毎日珈琲を飲んでいる。
いつの間にか、母と同じように私も、
毎日コーヒーを飲むようになっていました。
今年で23回忌の東京じいちゃん。
家族も知らなかった本に出会い、
カフェーパウリスタの長谷川会長ご夫婦から
お話を伺えたことで、
東京じいちゃんが又さんとして生きていた頃の姿が、
見えたような気がしました。
(長谷川会長ご夫婦には、
この場を借りて改めて感謝申し上げます。)
お寿司を食べるときは、一人だけちらし寿司で、
トイレは和式しか使わなくて、
おもちゃを買いに行くとき握ってくれる手が優しくて、
ヘビースモーカーでもあった、
東京じいちゃん。
どこにでもいる、ふつうのおじいちゃん。
ふつうのおじいちゃんの
「東京じいちゃん」は、
ときどき、「又さん」だったようです。
東京じいちゃんの珈琲、
「コロンビア珈琲」と「リッチ珈琲」の
由来についてなどは、珈琲を飲みながら、
考えを巡らしてみることにします。
世田谷の家で眠る焙煎機の写真を、
最後に載せようと思っていましたが、
もう数年前に片付けられてしまったようです。
かわりに、母が形見にしている
「リッチ珈琲」の豆の写真を。

まだ、珈琲の香りがしました。
▼コロンビア珈琲時代の手ぬぐい

▼リッチ珈琲時代の珈琲缶

最後までお読みくださり、ありがとうございました。
(おしまい)