「東京じいちゃんの仕事について書きたいんだ。」
ほぼ日の塾が終わった後、
まずは、母親に話してみました。
「興味を持ってくれたのは嬉しいけれど、
情報はほとんどないよ。」
そう母は話しました。
ですが、母の話から、
東京じいちゃんは生涯で2度、
自身の珈琲事業を立ち上げていたことを
知りました。
中学生のときに見た、
東京じいちゃん家の地下室にあった焙煎機は、
2度目のときのものでした。
1940年代に、
神戸で故 上島忠雄氏から珈琲を学んだ後、
東京の茅場町で卸業を営んだそうです。
それが1度目。
「コロンビア珈琲」という名前がついていました。
「コロンビア珈琲」が立ち行かなくなってからは、
会社勤めで焙煎事業に携わりました。
現役引退が見えてきたとき、
東京の富ヶ谷に事務所を設け、
再び焙煎事業を立ち上げたそうです。
それが2度目。
「リッチ珈琲」という名前でした。
どちらの事務所があった場所も、
既に再開発されています。
当時のお客さんの情報なども、
他界後に整理されてしまっていました。
故 上島氏から珈琲を学んだという、
1940年代当時の様子がわかると、
東京じいちゃんの仕事や、
東京じいちゃんが焙煎業にかけた思いが
見えてくるかもしれない、
そう思って、神戸に行ってみることにしました。
神戸で一冊の本に出会う。
1回目の神戸訪問で、
手がかりが掴めそうな本が
神戸市立図書館にあることがわかり、
2回目の神戸訪問で、
偶然にもその本の文中に、
祖父の名前を見つけました。
『珈琲わが人生:上島忠雄追憶の記』
(故上島忠雄会長追憶集編纂委員会編集,1994)
故上島会長を偲ぶ追悼文集でした。
今から20年以上前の本です。
1940年代頃のことが伺える文章がないかと、
本のページを捲っていたところ、
東京じいちゃんの名前、
「高橋又二郎」(たかはしまたじろう)の文字が
目に飛び込んできました。
まさかと思いましたが、
まぎれもなく、東京じいちゃんでした。
文章を寄稿されたのは、
日東珈琲株式会社 現・代表取締役会長
(寄稿時は代表取締役社長)の
長谷川浩一(はせがわひろかず)氏でした。
「故上島忠雄会長とは亡父長谷川主計が公私に
わたり多年親しくご交誼を頂いた関係で、
昭和二十年の前半、まだ私が学生のころから
度々お目にかかりました。(中略)
戦後暫くして高橋又二郎さんが「儲かりまっか」と
当社に入って来られたのがお付き合いの始まり
と聞いています。‥」
(長谷川会長の寄稿文より一部抜粋)
長谷川会長からお話しを聴けたら、
当時のことがわかるかもしれない。
東京に戻り、長谷川会長宛に取材依頼の手紙を書きました。
後日、長谷川会長からお電話をいただきました。
「高橋さんのお孫さんですか。
私の父と母がお世話になりました。
でも、私は、高橋さんの仕事のことは
あまり知らないんですよ。
それでもよろしければ、
銀座のカフェーパウリスタで会いましょう。」
長谷川会長は、
快く取材を受けてくださいました。
カフェーパウリスタは、
創業100年を超える老舗の会社です。
(現在は長谷川浩一氏が代表取締役会長を務める
日東珈琲株式会社のグループ会社)
焙煎事業を手掛けられ、
東京じいちゃんが「儲かりまっか」とたずねたのが、
長谷川浩一会長のお父様・長谷川主計(かずえ)氏でした。
数日後、長谷川会長のお話しを伺いに、
銀座8丁目にある、
カフェーパウリスタ銀座本店に向かいました。
(つづきます)