・なんでもかんでも「できたい」小学一年生が、
「あたし、わり算できるよ」と言っていた。
その母親も、幼いころに「わたし英語できるよ」と、
タモリさん風の「英語」をしゃべっていたことがあったが、
「わり算」というのは、どうしてはじまったことなのか。
ま、大人としては手心を加えた控えめな数字を出して、
「9わる3は?」とか「12わる4は?」とか聞くのだが、
それなりに答えが出てくる、でたらめではない。
しばらくそれを繰り返して遊んでいたのだが、
「じゃぁ、かけ算はできる?」とあらためて聞くと、
あんがい素直に「かけ算はできない」と言った。
ぼくには、これがおもしろかった。
なぜ「わり算」ができるのかといえば、たぶんだけれど、
最初に割られるほうの数がイメージできるからだ。
9にしても、12にしても、手の指やらも利用しているのか、
きっとイメージが固定できるのだ。
そのなかに、3がいくつあるか、4がいくつあるかを、
数えたら答えが見える、ということなんだろう。
ぼくの場合は、「かけ算」の九九を教わってから、
その方法を使って「わり算」を習ったので、
そういう順番でしか考えられなくなっていたのではないか。
大きい数になったら、きっと困るのだろうけれど、
たしかに、「わり算」ができて「かけ算」はできない、
ということはあり得るのだ。
なにか、ものごとを習うには順番があるという考え方は、
ぼくもさんざん言われたことがあるし、
ある意味、じぶんの身にもついているのだが、
「そうとはかぎらない」と思っていたほうがいい。
音楽の成績が悪かった子どもがロックスターにもなるし、
そうそう、池谷裕二先生は「九九ができない」のだった。
ぼく自身も、恐竜だとか発明だとかの本については、
「五〜六年生向け」と記されているのを読んでいた。
ぜんぶ読めなくて、すべて理解してなくてもいいのだ。
なんだって、わからないことを混ぜながら知っていくのだ。
いずれ、どこかで「最適な方法」を知ってもいいはずだ。
大人の役割というのは、その「どっちもありだよ」を、
問われたときに伝えてやれることかもしれない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
山にのぼる道はいろいろ。たのしんでのぼれたら最高だね。