ひどい目☆その8 地平線を望む雄大な北海道の牧場で深紅に染まる夕陽を眺めながら生ぬるい牛のフンを全身に浴びた件。
第3回まきばのカール・ルイスとなって。
── ゲルちゃんのお尻をひっぱたいた瞬間、
TOBIさんのお顔を包み込んだ
「あたたかいゼリー状の半液体」って‥‥。
TOBI お察しのとおりです。
── そんな至近距離から、アレを、顔面に?
TOBI 直接噴射でした。
── TOBIさん‥‥‥‥よくぞご無事で。
TOBI ぜんぜん無事ではありません。

ショックからくるものだと思うのですが、
視覚とともに
なぜか一時的に聴覚も失われており、
しばらくの間、
漆黒の闇のただ中をさまよい続けました。
── 牛のウ◯チに‥‥とらわれのTOBI‥‥。
TOBI とにかく、それまでの人生において
まったく遭遇したことのない「何か」が
ぼくの身に‥‥具体的には、
ぼくの顔面の中央に降り注いでいる‥‥。
── そのことだけが、たしかだったと。
TOBI ことが起きてから10秒ほどでしょうか、
徐々に視界が晴れてきて、
まわりの雑音も、聞こえはじめました。

そのあたりで、ようやく悟ったんです。
── 何が起きたのか‥‥を。
TOBI そう、
「ああ、俺は浴びたんだな‥‥アレを。
 真正面から、モロに」‥‥とね。
── おそるおそるうかがいますが、
TOBIさん、先ほどこうおっしゃいました。

「猛烈に腹が立ったぼくは
 『べェェェェ!』と雄叫びを上げながら、
 目の前にあったゲルちゃんのお尻を
 平手で叩いたんです、ありったけの力で」
TOBI ええ。
── 非常に気がかりなのが、
「『べェェェェ!』と雄叫びを上げ」
の部分。
TOBI はい。
── ようするに、その「真実の瞬間」において、
TOBIさんのお口は、
「フルオープンの状態だった」と‥‥!?
TOBI 残念ながら‥‥‥‥答えは「ウィ」。
── 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏‥‥。
TOBI それどころか、興奮していますから、
両の目はカッと見開かれ、
鼻の穴だって、
まるでパチンコの入賞口のように‥‥。
── ときに、興味本位でうかがいますけど、
何でしょう、
フレーバー的なテイストとしましては。
TOBI ヨモギ餅かな。近いところで言うと。
── あ、草食だから。
TOBI そう、だから別に、
くさくて死にそうってわけでも、ない。
むしろ、青々しくてフレッシュ。

おそらく、全国のみなさんは、
ぼくが、人として二度と立ち直れないような
地獄の噴射を
浴びせかけられたとお思いでしょうが。
── 思ってます。
TOBI その感覚とは、ちょっと、ちがうんです。

つまり、牛から出てきたばかりだから、
ピュアというか、
少しも混じりけがないというか、
こう‥‥イキイキとしているんですよ。
── そうか、一般的なウ◯チといいますと、
トップリとした量感があり、
ヒンヤリ冷たくて‥‥
「物静かな哲学者」というイメージですが、
噴射直後は
「あたたかく、ピチピチしていて、
 若々しさを封じ込めたような、半液体」
だというわけですね。
TOBI そう。ともあれ視覚や聴覚のはたらきは、
戻ってきたものの、
しばらく、動くことができませんでした。

すると、他の牛たちも
こりゃあおもしろそうだぞということで、
次から次へと、
棒立ちのぼくにひっかけはじめたんです。
── フェスティバルですね、ある種の。
フンフェス。
TOBI そう、120頭もの雌牛たちから
かわりばんこに
ウ◯チをひっかけられるという状況が
どれほど続いたのか‥‥。

とつぜん、
怒り、悲しみ、笑い、痛み、かゆみ‥‥
など、
さまざまな感情や感覚が押し寄せ、
ぼくは、
それまで出したことのないような声で、
「ベェ! ベェ! ベェ!」
と、牛たちを追いかけ回したんです。
── 泣いてから強くなるタイプですね。
TOBI ゲルちゃん率いるヤンキー乳牛軍団にも、
ベェベェ詰め寄り、
結果として、120頭すべての牛を、
待合室に入れることに、成功したんです。
── ギリギリまで追い詰められた人間とは、
ときに、
信じられない力を発揮するものです。
TOBI ここで、ぼくはシャワーを浴びたいなと
強く思いました。

噴射直後は「フレッシュ」だったものも、
時間の経過とともに、
じわじわ凶暴性を発揮し出していたから。
── ええ、話を聞いているだけの者としても、
一刻もはやく浴びてほしいです。
TOBI しかしながら、Kさんは
ウ◯チにまみれたぼくをチラリと見るや
「かけられたか」「気をつけろ」
とだけ言い、
次なるミッションを与えてきたんです。
── そのまま続行‥‥。プロの世界は厳しい。
TOBI そのミッションとは、乳をしぼったあと、
牛たちのエサを準備すること。
── あ、お夕飯のご用意。
TOBI そう、ぜんぶで5トンのね。
── 単位は「トン」なのか‥‥。
TOBI それも、巨大なトラクターを操りながら、
ものすごい量のエサを、
エサ場にまんべんなく噴霧するという、
まるっきり土木作業みたいな仕事でした。
── 前の日まで葬式専門の花屋をしていた人が、
巨大なトラクターを操縦して、
5トンのエサを噴霧するなんて、できるの?
TOBI Kさんは、それまで「原動機付自転車」、
すなわち「原付」くらいしか
運転した経験のなかったぼくに向かって、
いきなり
キャタピラ仕様の重機を操縦しろ、と。
── そんな無茶な!
TOBI 教えかたも、ものすごいザックリしていて
「いいか、見てろよ。
 これがアクセル、これがブレーキ、
 曲がる、伸びる、縮む、
 開く、閉まる、ひっくり返す。いいな?」
── できたんですか、操縦。そんなので。
TOBI できるわけないじゃないですか。

エンジンをかけたらエンストするわ、
前進するごとに
車体がガックンガックン上下に揺れるわ、
ワイパーはブンブン空回りするわ、
ウォッシャー液はピューッと飛び出すわ。
── まるでコントですね。
TOBI でも、助手席のKさんは
イシモトくんから
ぼくのことを酪農好きと聞いていたから、
そんなの簡単にできるだろう、と。

なので、まったく操縦できてないぼくに
心の底からガッカリしたようすで、
「もういい、俺がやる!」
と言って、ぼくを操縦席から追い出し、
「お前は搾乳場へ行け!」
「検査入院はあさってにする!」と。
── でも、スッカリ忘れていましたけど、
TOBIさん、乳しぼりで
北海道を救おうと思って来てるから、
ある意味、ここからが本番ですね。
TOBI そう、心身ともにボロボロでしたが、
ぼくは、
もういちど気力を奮い立たせました。
── そうか、今となっては
ウ◯チまみれの人って印象しかないけど、
直前までは
「前の晩に一睡もせず、腹を減らし、
 親知らずを抜いて顔面を腫らしながら、
 角刈りで
 空港の長い廊下を全力疾走してきた
 雨に濡れた砂場のような顔色の人」
だったわけですものね。
TOBI あたりは、すっかり日が暮れていました。

空腹と顔面のしびれと角刈りとウ◯チが
渾然一体となり、
精魂ともに尽き果てそうだったのですが、
ギリギリのラインで踏みとどまり、
天井からブラ下がっている
無数の搾乳機を
次々とやって来る牛の乳首に‥‥。
── ええ。
TOBI ポコッとはめてはお乳をしぼり、
ポコッとはめてはお乳をしぼり‥‥。

施設の中をあちこち右往左往しながら
休む間もなく動き続けて、
2時間かけて、
120頭全員のお乳をしぼったのです。
── つまり、ようやく仕事終了?
TOBI 本来ならば、ほとんど終了でしょうね。

しかし、このときは
5トンのエサを噴霧し終えたKさんが、
牛舎のほうから
「戻ってこい!」と叫んでいたんです。
── ‥‥ええ。
TOBI かなりエマージェンシーのようでした。

何ごとかと飛んで行くと、
ある牛が出産をしていたのですが‥‥
生まれた仔牛に
野生のキツネが襲いかかっていて。
── え!
TOBI そのこと自体は、めずらしいことではなく、
目を離した隙に、生まれたての仔牛が
キツネに
食べられてしまうことがあるそうなんです。

このときは、お乳をしぼり終えた子が、
牛舎に戻ってすぐに、産気づいたみたいで。
── いきもの相手というのは、本当にすごい。
次から次へと、何かが起こる‥‥。
TOBI Kさんも、奥さんも、
新人のぼくのことばかり気にかけてたから、
仔牛に、目が行き届いていなかった。
── ああ‥‥それで、キツネに。
TOBI みんなで必死にキツネを追い払いましたが、
残念ながら、
仔牛は、すでに息絶えていました。

長い1日‥‥というか、寝てませんから
昨日の朝からの、
長い長い2日間の最後に、
死産という悲しい出来事に立ち会うなんて、
想像もしていませんでした。
── そうですよね‥‥。
TOBI ともあれ、そんな騒動にも収拾をつけ、
あたりを掃除し終えたら、
夜の9時くらいにになっていたんです。
── こんどこそ、ようやく、作業終了。
TOBI はい。そこで、ぼくは、Kさんから
しぼりたての牛乳を飲ませてもらいました。

もう、何十時間ぶりかに
味のするものを口に入れたわけですが‥‥。
── その間、ヨモギ餅的なフレーバーの何かは、
思いがけず、味わったものの。
TOBI ええ、人間が口にしてもいいものとしては、
何十時間ぶりです。

疲れ果てていましたし、
搾乳、急な出産、それも死産に立ち会って、
いろんな感情がないまぜとなっていたから、
もう‥‥涙が出るほどおいしくてね。
── 世界一の牛乳ですよ、それ。きっとね。
TOBI なにより、ようやく、シャワーを浴びれる!

そのことが、ぼくに生きる力を与えました。
髪の毛、眉毛、まつ毛などすべての毛と、
耳の穴、鼻の穴、毛穴などすべての穴を、
強力な洗剤とタワシでこすりたかった‥‥。
── そうでしょう‥‥ね。
TOBI プレハブ小屋に帰り、
脱衣所で汚れた作業着を脱ぎ捨てると、
身体中、アザだらけでした。

例のゲルちゃんはじめ
不良牛グループの体当たりによってね。
── 満身創痍とは、まさにこのこと。
TOBI そして、待ちに待った
熱いシャワーを全身に浴びようとした、
まさに、そのとき‥‥。

再びKさんが「はやく来てくれ!」と。
── え?
TOBI 「牛舎に戻ってこい、仔牛が生まれる!」
── は?
TOBI さっきの子、「双子」だったんですよ。
── 何と!
TOBI しかも今回は
母牛の「腰」が抜けてしまったがために、
緊急帝王切開手術となりました。

手術と言ったって自分たちでやるので、
ぼくが暴れる足を押さえつけ、
Kさんが
おなかを開いて、仔牛を取り出して‥‥。
でも、そうやって
今度は、無事に生まれてきたんですよ。
── おお‥‥よかった!
TOBI すべてが終わったとき、
時刻はすでに深夜0時をまわっていました。

こうして、自分史上、
「もっとも長い一日」が終了したのです。
── ちなみに‥‥その牧場には、いつまで?
TOBI Kさんは数日で病院から帰ってきたのですが
次なる助っ人が見つかるまでは
はたらいてほしいといわれ、
結局、それから半年間、お世話になりました。
── え、そんなに!?
TOBI 酪農家志望の若者が見つかるころには、
真っ黒に日焼けし、
角刈りもスッカリ伸びきって、
ぼくは、さながら
「まきばのカール・ルイス」となって、
東京のアパートへ帰っていったのです。
── あ、そのアパートって‥‥もしかして?
TOBI そう、それから数カ月後のことでした。
奴が‥‥空き巣が住み着き出したのは。
<終わります>
2016-07-27-WED

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